秩父は味噌が名物らしい。ダイニングテーブルにはこれでもかとばかりに味噌料理が並んでいた。味噌豚丼に味噌ポテト、味噌田楽、しゃくし菜の漬物に、シーザーサラダ、デザートの葡萄。
「遠慮しないでくれよ」星哉さんがエプロンを脱ぎながら言う。「高校二年生っていったら食べ盛りだろ?」
「苦手なものはないかしら」瑤子さんは言った。「気は使わないで頂戴ね」
「だってさ、折笠さん」
「なんでわたしに言うの」
「いや、僕は別に大丈夫だけど、折笠さんはそういうの自分から言えなさそうだし」
「そんな好き嫌いするほど子供じゃない」
「そうだね。さすが十八さ――」
 肘を入れられた。その様子を見て、瑤子さんと星哉さんがふふっと微笑む。
「仲がいいのね」
 この一カ月でその言葉を聞くのはもう何度目だろう。いい加減、折笠さんの反応にも予想がつくようになった。
「そんな嫌そうな顔しないでよ」
「別にそんな顔してない」
「してるよ」
「してない」
「まあまあ、喧嘩しないで」瑤子さんがやんわりと仲裁した。「さあ、手を合わせて」
「いただきます」の斉唱とともに、僕らは箸を動かしはじめた。
「味、濃くない?」星哉さんが尋ねる。
「いえ、ご飯が進みます」
 折笠さんもご飯で頬を膨らませながら頷く。
「そうか、そりゃよかった」
 それからしばらく、僕らは箒木親子の歓待メニューを堪能した。濃厚で芳醇な味噌の風味で口がいっぱいになる。漬物とサラダで口内をリフレッシュさせ、再度味噌料理とご飯を掻き込む。
「思い出すわね、麻耶ちゃんがうちにいた頃のことを」
「そうだな。食卓に子供がいるのは久しぶりだ」
「そうね。誰かさんがずっと独り身だから」
「それはいまさら言いっこなしだろ」
 麦茶を注ぐ。喉を潤し、僕は尋ねた。
「麻耶さんはどんな子供でしたか」
「手のかからない子だったわ。あの頃はおじいさんも存命だったけど、息子たちが子供の頃よりも全然楽だってよく話したものだわ」
「そうそう」星哉さんは同意した。「俺や兄さんよりよっぽどいい子だったね」
「あの、麻耶さんがこちらに預けられることになったのって……」
「真理亜ちゃんから聞いてるんでしょう。向こうでお友だちを突き落とした。ええ、知ってるわ」瑤子さんは言った。「最初に聞いたとき、きっと、昂輝――あの子たちの父親が厳しく躾けすぎたんだと思った。そのストレスが積もりに積もって、友だちに向かってしまったんだと」
「兄さんは自分にも他人にも厳しいからな」
「わたしたちが厳しくしすぎたのよ」瑤子さんは言った。「その反省で次男のあなたには甘くしすぎたけれど。こんなちゃらんぽらんに育つとは思いもせず、ね」
「あっはっは」星哉さんは盛大に笑った。「いま、お袋の生活を支えてるのはそのちゃらんぽらんの方なんだがな」
「そうね、まったく摩訶不思議」瑤子さんは言った。「麻耶ちゃんに話を戻すけれど――最初はどんなやさぐれた子が来るのかと身構えたわ。あの子たちとは生まれてすぐに会って以来だったし」
「そうそう、まったく兄さんたちも都合がいいもんだ。本当はあの子たちを純粋培養したかったんだろう。それで、俺たち親戚からも遠ざけた。なのに、自分たちの手に負えなくなったら押し付けてくるんだから」
「そうね。最初は幼い子を親元から引き離すなんてとんでもないことだって反対したけれど――」
「あれだけしつこくお願いされちゃな」星哉さんは箸を置いた。「最終的には、そんな親の元に置いておく方が不幸だって、親父たちは判断したわけだな」
「それで、実際に麻耶さんに会ってみて、どうでしたか」
「そうね、こっちから迎えに行ったのだけれど――経緯が経緯とはいえ、あの年頃の子供なら、少しは両親と離れることに抵抗しそうなものでしょう? だけど、あの子は一度も両親の方を振り向かなかった。わたしに手を引かれるまま、おとなしく秩父までついてきた」
「そのことについて麻耶さんとは何か話しましたか?」
「寂しくないの、とは尋ねたわ。だけど、あの子は要領を得ないように首を傾げるだけだった。それで、電車に乗ったらすぐに寝ちゃって、それ以上の話はできなかった。思い出すわ。乗り換えのときもおじいさんが背負って移動したの」
 僕はデザートに取りかかりながら言った。「こっちに来てからの彼女はどうでしたか?」
「さっきも言ったように、手のかからない子だったわ。自分から何かをねだることもほとんどなかったし、一方で、大人の手を借りる必要がある場合はきちんと頼ってくれた。あの子一人で背負い込んで、後々、わたしたちが後始末をするようになる、なんてことはなかったわね」
「おねだりと言ったら、あれだ」星哉さんが人差し指を立てた。「唯一のおねだりがあったじゃないか」
「それは?」
「猫」瑤子さんは言った。「あの子は猫が好きでね。飼いたい、ってねだってきたことがあった。あいにくとおじいさんが猫アレルギーだったから、実際に飼うことはできなかったんだけど」
「そうそう。それで誕生日プレゼントに大きい猫のぬいぐるみを贈ったんだよな」
「向こうでも、猫のぬいぐるみを大事にしていたとは聞いてます」
「そう」
「麻耶さんはこっちで五年ほど暮らしたんですよね。何か、最初に来た時から変わったことはありますか」
「そうね、少しだけ表情が豊かになったかしら。なんというか、徐々に年齢相応の情動を身に着けていったように思うわ」
「こっちにきたときは情動に乏しかったと?」
「少しぼんやりした子だったのは事実ね」瑤子さんは認めた。「早生まれっていうのもあるのかしら。おっとりしすぎてるように感じることもあったわ」
「そうそう。おっとりというか泰然自若というか。あれは一周回って大物っぽかったな」
「そうとも言えるわね」瑤子さんは言った。「けっきょく、わたしたちはあの子の心の芯の部分までは触れなかった気がするの。わたしもおじいさんも、あの子にどう接したらいいか探り探りで、そんな困惑をよそに、あの子が勝手に一人で育ってくれたように思えた」瑤子さんはそこで言葉を区切った。涙ぐんでいるように見える。「あの子が秩父を旅立つとき、名残惜しそうに何度もこっちを振り返っていたわ。こっちにいてもいいって言ったのよ。だけど、あの子はあの家に戻ることを選んだ。お姉ちゃんを一人にはしておけないからって。なのに――」
 瑤子さんはたまらずと言った様子で顔を覆った。星哉さんがその背中を撫でる。
「麻耶さんに友だちはいましたか」瑤子さんが落ち着くのを待って、尋ねた。
「ええ」瑤子さんは涙を拭いながら言った。「この家にもよく遊びに来てたわ」
「特に仲の良かった子の名前とか連絡先はわかりませんか」
「そうね、連絡先に関しては残ってるかどうかわからないけれど、仲の良かった子の名前はわかる。お寺の子でね、だから、そのお寺に行けば会えると思う」