「ごめんなさい。何も出せなくて」真理亜は詫びた。ワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。「でも、その……痕跡を残したくなくて」
「……痕跡ね」どうやら彼女の両親も娘の友だちに対して歓迎的ではないらしい」
 真理亜の部屋は、整然としていた。ロフトベッドに学習机。本棚とクローゼット。円形のラグマットにローテーブルとビーズクッション。
「クッション使わないの?」真理亜に問う。彼女は、床にじかに座っていた。背筋がピンと伸びた、お手本のような正座だ。
「ひとつしかないもの。お客さんを差し置いて、使うわけにはいかないわ」
「……そう。じゃあ、折笠さん使えば?」
「えっ」折笠さんは正座したまま言った。「悪いよ、使うなら真理亜さんが使って」
「わたしはいいの。自分だけ楽するなんて申し訳なくて話に集中できないから」
「二人とも僕には勧めてくれないんだね」
 女子二人の視線が突き刺さる。
「別に使ってもいいけれど……」
「絵面的にちょっとどうかと思うよ」
「だよね」女の子二人を差し置いて男がクッションで悠々くつろぐわけにもいかないだろう。
 けっきょく、クッションは誰にも使われないまま放置されることになった。
「それで、修学旅行について話を聞けたってことだけれど」
「ああ……うん」
「何? あなたまで口ごもるようにして」
「そう簡単に信じてもらえるような話じゃないから……」折笠さんがフォローする。
 僕らは報告をはじめた。修学旅行で起こった奇跡について。長崎の教会で、麻耶がただ一人、泣かなかったことについて。
「……なるほどね」真理亜は複雑そうな表情で髪をいじった。「たしかに信じがたい話ね。そんな風に涙が伝播するなんて」
「だよね」
「だけど、そうね。信じるわ」
「ずいぶんとあっさりと言うんだね」
「現象そのものはともかく、そういう状況に遭遇した場合の麻耶の反応としては納得がいくもの。あの子は周りの感情に流されるような子じゃなかった。空気は読めるし、周りに合わせることはできても、心の中には自分だけの世界を持っていた。あの子の言葉を借りるなら、海を」
「海……凪いだ海か」
「そう。それも知ってたのね。話せる友だちがいたのね」
「うん、それで……」
「そうね、話の続きだった」
 僕は頭の中を整理しながら話しはじめた。
 ――わたしにはわからなかった。あの子のことが。修学旅行まではずっとちょっと変わってるだけの子だと思ってたけど――あれから何を考えてるのかわからなくなった。知りたいと思った。あの子が何に心動かされるのか。だから――
 ――だから?
 ――わたしたちはきっとひどいことをした。
 ――ひどいことって、箒木さんに?
 ――うん。悪気はなかった。そんなこと言い訳にならないのはわかってるけど、でも、本当にただ、わたしたちは――わたしは知りたかった。あの子の心を震わせるものがあるとしたら、それは何なのかって。
 ――君たちは何をしたの?
 ――涙活(るいかつ)ってわたしたちは呼んでた。涙に活動の活で。
 それは主に、ドラマや映画の鑑賞会という形を取ったという。「泣ける」と言われる作品群を麻耶とともに鑑賞し、彼女の涙を引き出そうとした。それが涙活だった。
 ――あの子は……泣かなかった。何を見ても。昔の名作映画とか、最近のヒット作、どんなドラマや映画、小説、漫画、音楽でも。わたしたちとは違って。彼女の口からは、面白かったとか、いまいちだったとか、それだけの感想しか出てこなかった。そのことを、わたしたちはよくいじってた。あの子は笑って受け流してたけど、でも……本当は傷ついていたのかもしれない。疎外感を覚えていたのかもしれない。わたしたちがあの子を追い詰めたのかもしれない。
 ボブさんは顔を覆った。
 ――何もわかってなかったの。あの子のこと。
「そう」真理亜は静かに呟いた。膝の上で拳を握り締めて続ける。「そうだったのね」
「麻耶は……君の前で泣くことはあった?」
「いいえ」真理亜はかぶりを振った。「記憶にある限りでは」
 ――ほら、ティッシュ。無料配布中なんだ。よければ受け取ってほしいな。
「本当に?」
「ええ」真理亜は少し困惑したように言った。「あの子は、感情をあらわにする子じゃなかった。だからこそ、あんなことになるまでため込んでしまったのかもしれない」
「そう」
「納得いかない?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
 けっきょく、僕は麻耶と廊下ですれ違ったときのことを言い出せなかった。
「それにしても涙活……ね。それで泣けるような子だったらよかったのかもしれない」
「でも、そうじゃなかった」
「ええ。あの子がそこらのドラマや映画で泣くとは思えない。あいにくと記憶にはないけれど、産声を上げたかどうかだって怪しく思うわ」
「ホラー映画が好きだったって話だけど」
「それだって怖がっていたわけじゃないと思う。どちらかというと、そうね――楽しそうだった。ホラー映画を見るときはいつも表情が緩んでた。そう思う」
「まあ、ホラーって行きすぎると笑えてくるし。ね、折笠さん」
「そうかな」折笠さんは困ったように言った。「わたし、あんまりホラーって見ないし。えっと、箒木さんはどう思う?」
「わたしは……そうね、苦手」
「怖がりだなあ、二人とも。じゃあ、今度上映会でも――」
「それはいい」二人が口を揃えて言った。
「あはは、じゃあ時期未定ということで」
「……それで、他に何かわかったことはある?」
「ああ、うん。そうだね。オルゴールについてもわかったことがある」
「オルゴールの? まだ見つかってないけど」
「うん」僕は頷いた。「それも当然の話だよ。だって、オルゴールはとっくに壊れてたんだから」