修学旅行二日目のことだった。五月の下旬。日差しが厳しい一日だったそうだ。
 僕と折笠さんが東高で自習に励んでいた頃、クラスメイトたちは長崎でも有名なカトリックの教会を訪れた。
 文明開化以降、キリスト教が解禁されたことで建造された歴史的な教会だった。ゴシック様式を取り入れた和洋折衷の荘厳な教会で、天窓には色彩豊かなステンドグラスを通して色とりどりの明かりが満ちていたという。
 きれい、と口々に言葉が漏れた。委員長も、ゴシック建築特有の天空を志向した内装、ステンドグラスに感嘆したという。
「それはきっと、きわめて俗っぽい感覚だった。テーマパークとか、あるいはクリスマスツリーとか、そういう商業主義的な下心が透けて見えるものをきれいと思うのと同じような、軽薄な感慨だった。少なくとも、わたしはそうだった。だけど――」
 何がはじまりだったのかは誰にもわからないという。誰がはじまりだったのかも。
「テーマパークやクリスマスツリーのイルミネーションを見て、心が震えるようなことなんてない。涙を流すようなことなんてない。それと同じように、ちょっときれいだなって思って、それで終わるはずだった。だけど、あの時、あの場所では、違った。何か――言葉では説明できない何かがわたしたちの心を震わせた」
 それ(﹅﹅)はまるで波紋のように、クラスメイトたちへと伝播していったという。
「涙、だった。隣の子が涙を流していた。そのことに彼女自身戸惑ってるように見えた。よく見たら、彼女以外も同じように涙を流していた。男の子も女の子も、みんな。そして、わたしも気づいたら涙を流していた。どうしてか胸が苦しくて、切なくて、やるせなくて、目頭が熱くなって、涙が止まらなかった。どうしようもなく悲しかった」
 そうして涙の波がクラス全体へと広がっていったという。その涙の理由を誰一人として説明できなかった。自分がなぜ泣いているのかもわからないまま涙を拭い、隣人を慰め、抱き合った。
「わたしたちはたぶん、同じ悲しみを共有していた。それがどうしてなのかはわからない。あの場にいなかった人に信じてもらえないのもしょうがないと思う。だけど、それは本当に起こったことなの。わたしたちはみんな理由のわからない悲しみに襲われ、そして涙を流した。ただ一人の例外を除いて――」
 涙の波紋が広がりきった後、今度は徐々に困惑の波が広がっていったという。その場にいたクラスメイトでただ一人、涙を流していない者がいることに気づきはじめたのだ。
「箒木さんだった。彼女は少し、ぽかんとした様子でわたしたちを眺めてた。その瞳にはわずかな驚きの色が見えるだけで、悲しみも、涙も窺えなかった。わたしたちが感じた悲しみを彼女だけが共有していなかった。そう見えた。どうしてかはわからない。そもそも、わたしたちを襲った悲しみの正体だってわからないんだもん。その悲しみから逃れた子がいたとして、どうしてその子だけそうなのかなんてわかりっこなかった。だから――」
「不気味に思った?」
「いまになって思うと、そうだったのかも」委員長は言った。「とにかく、箒木さんの存在はあの場であまりにも異質だった。それだけは確か」
「彼女はそのことについて何か言っていた?」
「……その場では何も。教会を出た後になって、みんなどうかしたのって言ってた」
「もちろん、こっちから逆に訊いたよ」ボブさんは言った。「箒木さんはあの教会でどう思ったかって。何を感じたかって。そしたら彼女は言った。きれいだったって」
「それだけ?」
「それだけだった」ボブさんは言った。「あの子はあの場でただ一人、何も感じなかったんだよ」
 ――ほら、ティッシュ。無料配布中なんだ。よければ受け取ってほしいな。
 あの日、僕はたしかに麻耶の泣き顔を見た。そのはずだった。おそらくは修学旅行の後のことだ。彼女にも、涙を流すだけの情緒は存在する。だけど、長崎の教会でその情緒は働かなかった。
「わたしたちは、悲しみの正体について知ろうと思った。何がわたしたちに涙を流させたのかって」
「それで、何かピンとくるものは見つかった?」
 委員長はかぶりを振った。
「わからなかった。いまもそう。だけど、きっとあの涙はあのとき、あの場所だからこそ起こった奇跡みたいなものなんだと思った。だからきっとあの場所ならではの理由があるはずだって。誰かの悲しみがそうさせたんだって」
「誰かって、たとえば?」
「原爆で死んだ人たち、あるいは弾圧にあった隠れキリシタンたち……あるいはあの場所で、長崎で死んだ数えきれない人たち。涙を呑んだ人たち」
「君たちはそれを感じ取った?」
「……何も、霊魂だとか残留思念だとか、そういうものの存在を主張したいわけじゃないの。ただ、あの場所で学んだことが無意識に繋がって、あの場所で悲しみとなって溢れたのかもしれないって」
「それがクラスの全員に起こったって?」
「わからない。もしかしたら最初に涙した誰かだけがそれを感じ取り、その悲しみがみんなに伝播したのかもしれない」
「もらい泣きってわけか」
「うん。でも……」
「わかってる。もらい泣きだって、感情が伴ったものには違いない」僕は言った。「どのみち、君たちは自分ではない誰かの悲しみを感じ取った。誰かの悲しみを自分のもののように感じて涙を流した。そう思ってるんだね」
「うん」委員長は頷いた。「わたしたちは――いいえ、少なくともわたしはその正体を知りたかった。この世界にあったはずの悲しみをもっと知ろうと思った。だから歴史を学んだ」
「それが今回の展示につながるわけか。この世界にあった悲しみを再現して形にする。それが悲しみの道。ヴィア・ドロローサ」
「そう」委員長は頷いた。「要領を得ない話だったよね」
「ううん。君たちを見てれば、なんとなくわかるよ。わかる……気がする。ね、折笠さん」
「え、ああ、うん」折笠さんはどもりながらも真剣に答えた。「わからなくはないと思う」
「とにかく、これで意志共有ができたね。僕は末端だけど、神は細部に宿るというからね。きっと、ステンドグラスはより良いものになるよ」
「そう、なら話した甲斐があった」眼鏡さんは安心したように言った。
「うん、話してくれてありがとう」
「……あの」折笠さんがそろそろと手を挙げた。「ついでに訊いてもいい?」
「何?」
「箒木さんのこと」折笠さんは言った。「どう思ってるのかなって。どうして彼女だけ泣かなかったんだと思ってるのかなって」
「それは……」
「彼女もきっと人並みに落ち込んだり悲しんだりすることだってあったと思う。じゃなきゃ……」
 自ら死を選びはしない。折笠さんはそう言いたいのだろう。
「わかってる」委員長は言った。「わたしもそうだと思う」
「そうだね」ボブさんが同意した。「あの子だってそういう感情の揺れ動きがあったのはわかってる。だけど……」
「だけど?」
「わたしにはわからなかった。あの子のことが。修学旅行まではずっとちょっと変わってるだけの子だと思ってたけど――あれから何を考えてるのかわからなくなった。知りたいと思った。あの子が何に心動かされるのか。だから――」