九月に入って間もない、週末の昼下がりだった。
その日、僕は緑地の川沿いを散歩していた。
何か理由があったわけではない。強いて言うなら、自分を鎮めるためだった。アプリゲームのガチャの引きが悪く、「沼」る気配を感じたのだ。こういうときはスマホから離れるに限る。残暑が厳しい時期だが、致し方あるまい。せめて、緑が多い場所ならばいくらか涼しげだろう。そう考えたのだ。
このあたりはかつて沼沢地だったらしい。江戸時代に干拓が進み、田園として利用されるようになったようだ。その名残りか、都市部の一角にありながら緑豊かで、昔ながらの田園風景も随所に見受けられる。徐々に色づきつつある稲が波となって揺れていた。さわさわ、さわさわと。まるで波のように。
波の音は苦手だ。むかしからそうだった。どうしてだか、神経をざわめかせる。瞼の裏に黒い海が、荒れ狂う黒い海が見える。
生ぬるい川風が肌を撫ぜる。風になびく髪を抑えながら思った。この場所に来たのは間違いだったかもしれない。そもそもここだって「沼」じゃないか。
そのとき、ふと眼下の川原に貝殻を見つけた。ハマグリだろうか、一部が欠けていてるが、扇子のような形であることがわかる。
どうしてこんな所に? 彩都市は内陸の地方都市だ。海からは遠く離れている。津波でも起こらない限り、川が海から逆流することはない。何が、この貝をここまで運んだのだろう。
続けざまに表れた海の予兆に、胸がざわめく。何かよくないことが起こるような気がした。それはまったくもって非合理で非科学的な考えだ。わかっている。僕も二十一世紀生まれの現代人だ。旧世紀の大人たちのように、ノストラダムスだとか口裂け女を信じるほどナイーブではない。だけど、すべてを理屈で割り切れるほど人間の心が単純なものでないこともわかっている。
つまり、不快さに理由を求めてもしょうがないのだ。そんなものに捉われて時間を浪費するくらいなら、さっさと離れてしまうに限る。
貝などほっておけ。穂波のざわめきも。黒い海も。
そう思って、踵を返してすぐのことだった。ざぶん、と何か大きなものが水の中に落ちた音がした。
振り向くと、川を女の子が流れていた。
「おいおい」
思わず声が漏れる。足が動く。泳ぐのは得意じゃない。川に飛び込んだとして、流れてたどり着くのは海だ。水門で荒川へと合流し、東京湾から太平洋へ。黒く荒々しい海へ。
「くそっ」
僕は駆け出していた。滑るようにして堤防を駆け下り、川原に降りる。そして、川に飛び込んだ。
川の水はひどく濁っていた。ゴミも多く漂っている。都市部なのだから当然だ。そのはずなのに、なぜだろう、彼女の位置は手に取るようにわかった。体は迷うことなく動き、僕の両の腕は彼女の胴を捉えた。
生ぬるい水をかき分け、陸へと向かう。残暑の時期でよかった、と思う。体に張り付く着衣も比較的薄く、重石にはならない。
河川敷のベンチに彼女を横たえる。肌の白い、黒髪の少女だった。おそらく僕と同年代だろう。学校の制服と思しきブラウスとプリーツスカートを着用している。
「ねえ、君。大丈夫?」
呼びかけるが応答はない。口元に耳を寄せると、息をしていないことがわかった。これはまずい。すぐさま人工呼吸に入る。
力と体重をかけて胸を押す。それを何度か繰り返して、今度は口から口へと空気を送り込んだ。自分でも驚くほど手際よく、僕は救命作業を続けた。がむしゃらだった。少女の胸や唇に十七歳らしい特別な感慨を覚える余裕もないほどに。
一回、二回、三回と繰り返し、やがて、彼女は咳き込むようにして水を吐き出した。
「よかった」僕はその場にへたり込んだ。「お互い助かったね」
少女はなおも咳込み続けていた。濡れた髪がぴったりと張り付いている。それに、ブラウスにスカートもだ。見えてはいけないものが見えている。
「最悪」
少女がようやく意味のある言葉を紡いだ。そして、きっと睨みつけてくる。瞳が潤んでいた。溺れていたせいではない、と思う。
「ごめん。じっと見て――」
「どうして、あなたなのよ」
少女が遮るようにして言う。
「どういう意味かな」
少女の顔に見覚えはない。一度見たら忘れないだろう美人さんなのに。
「どうして、わからないのよ!」少女は叫んだ。「あなたは、あなたは――」
少女は悔しそうに歯を食いしばった。言葉を探しているらしい。やがて、言葉を見出した。
「許さない」彼女は言った。許さない、と目的語を欠いたまま繰り返す。
一連の出来事に、頭が追い付かなかった。どうして僕は命を助けた少女に睨まれ、親の仇のように憎しみを向けられているのだろう。
「えっと、救命措置のこと? 緊急事態だったってことで許してくれると助かるんだけど」
「どうしてそんな風にとぼけられるのよ!」
違ったらしい。
「……どこかで会ったことがあったかな?」可能性を手繰る。「あいにくと顔と名前を覚えるのが苦手なんだけど」
少女は信じられないといったように首を振った。
「許せない。そんな風にしらばっくれるなんて。知らないふりをするなんて」
それから、顔を覆ってしまう。いよいよ本格的に泣き崩れているように見えた。
「ごめん」僕は訳もわからないまま詫びた。「でも本当にわからないんだ。自分で言うのもなんだけど、女の子の知り合いなんてほとんどいないし」
少女はそれを無視して、嗚咽を漏らす。
「どうして、どうしてなの、麻耶」
「麻耶?」
聞き覚えのない名前に思わず問い返す。すると、少女は再び顔を上げた。涙と淡水で濡れた顔で告げる。
「許さない。麻耶のことそんな風にしらばっくれるなんて。恋人のことを忘れたふりをするなんて。わたしは忘れない。麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!」
その日、僕は緑地の川沿いを散歩していた。
何か理由があったわけではない。強いて言うなら、自分を鎮めるためだった。アプリゲームのガチャの引きが悪く、「沼」る気配を感じたのだ。こういうときはスマホから離れるに限る。残暑が厳しい時期だが、致し方あるまい。せめて、緑が多い場所ならばいくらか涼しげだろう。そう考えたのだ。
このあたりはかつて沼沢地だったらしい。江戸時代に干拓が進み、田園として利用されるようになったようだ。その名残りか、都市部の一角にありながら緑豊かで、昔ながらの田園風景も随所に見受けられる。徐々に色づきつつある稲が波となって揺れていた。さわさわ、さわさわと。まるで波のように。
波の音は苦手だ。むかしからそうだった。どうしてだか、神経をざわめかせる。瞼の裏に黒い海が、荒れ狂う黒い海が見える。
生ぬるい川風が肌を撫ぜる。風になびく髪を抑えながら思った。この場所に来たのは間違いだったかもしれない。そもそもここだって「沼」じゃないか。
そのとき、ふと眼下の川原に貝殻を見つけた。ハマグリだろうか、一部が欠けていてるが、扇子のような形であることがわかる。
どうしてこんな所に? 彩都市は内陸の地方都市だ。海からは遠く離れている。津波でも起こらない限り、川が海から逆流することはない。何が、この貝をここまで運んだのだろう。
続けざまに表れた海の予兆に、胸がざわめく。何かよくないことが起こるような気がした。それはまったくもって非合理で非科学的な考えだ。わかっている。僕も二十一世紀生まれの現代人だ。旧世紀の大人たちのように、ノストラダムスだとか口裂け女を信じるほどナイーブではない。だけど、すべてを理屈で割り切れるほど人間の心が単純なものでないこともわかっている。
つまり、不快さに理由を求めてもしょうがないのだ。そんなものに捉われて時間を浪費するくらいなら、さっさと離れてしまうに限る。
貝などほっておけ。穂波のざわめきも。黒い海も。
そう思って、踵を返してすぐのことだった。ざぶん、と何か大きなものが水の中に落ちた音がした。
振り向くと、川を女の子が流れていた。
「おいおい」
思わず声が漏れる。足が動く。泳ぐのは得意じゃない。川に飛び込んだとして、流れてたどり着くのは海だ。水門で荒川へと合流し、東京湾から太平洋へ。黒く荒々しい海へ。
「くそっ」
僕は駆け出していた。滑るようにして堤防を駆け下り、川原に降りる。そして、川に飛び込んだ。
川の水はひどく濁っていた。ゴミも多く漂っている。都市部なのだから当然だ。そのはずなのに、なぜだろう、彼女の位置は手に取るようにわかった。体は迷うことなく動き、僕の両の腕は彼女の胴を捉えた。
生ぬるい水をかき分け、陸へと向かう。残暑の時期でよかった、と思う。体に張り付く着衣も比較的薄く、重石にはならない。
河川敷のベンチに彼女を横たえる。肌の白い、黒髪の少女だった。おそらく僕と同年代だろう。学校の制服と思しきブラウスとプリーツスカートを着用している。
「ねえ、君。大丈夫?」
呼びかけるが応答はない。口元に耳を寄せると、息をしていないことがわかった。これはまずい。すぐさま人工呼吸に入る。
力と体重をかけて胸を押す。それを何度か繰り返して、今度は口から口へと空気を送り込んだ。自分でも驚くほど手際よく、僕は救命作業を続けた。がむしゃらだった。少女の胸や唇に十七歳らしい特別な感慨を覚える余裕もないほどに。
一回、二回、三回と繰り返し、やがて、彼女は咳き込むようにして水を吐き出した。
「よかった」僕はその場にへたり込んだ。「お互い助かったね」
少女はなおも咳込み続けていた。濡れた髪がぴったりと張り付いている。それに、ブラウスにスカートもだ。見えてはいけないものが見えている。
「最悪」
少女がようやく意味のある言葉を紡いだ。そして、きっと睨みつけてくる。瞳が潤んでいた。溺れていたせいではない、と思う。
「ごめん。じっと見て――」
「どうして、あなたなのよ」
少女が遮るようにして言う。
「どういう意味かな」
少女の顔に見覚えはない。一度見たら忘れないだろう美人さんなのに。
「どうして、わからないのよ!」少女は叫んだ。「あなたは、あなたは――」
少女は悔しそうに歯を食いしばった。言葉を探しているらしい。やがて、言葉を見出した。
「許さない」彼女は言った。許さない、と目的語を欠いたまま繰り返す。
一連の出来事に、頭が追い付かなかった。どうして僕は命を助けた少女に睨まれ、親の仇のように憎しみを向けられているのだろう。
「えっと、救命措置のこと? 緊急事態だったってことで許してくれると助かるんだけど」
「どうしてそんな風にとぼけられるのよ!」
違ったらしい。
「……どこかで会ったことがあったかな?」可能性を手繰る。「あいにくと顔と名前を覚えるのが苦手なんだけど」
少女は信じられないといったように首を振った。
「許せない。そんな風にしらばっくれるなんて。知らないふりをするなんて」
それから、顔を覆ってしまう。いよいよ本格的に泣き崩れているように見えた。
「ごめん」僕は訳もわからないまま詫びた。「でも本当にわからないんだ。自分で言うのもなんだけど、女の子の知り合いなんてほとんどいないし」
少女はそれを無視して、嗚咽を漏らす。
「どうして、どうしてなの、麻耶」
「麻耶?」
聞き覚えのない名前に思わず問い返す。すると、少女は再び顔を上げた。涙と淡水で濡れた顔で告げる。
「許さない。麻耶のことそんな風にしらばっくれるなんて。恋人のことを忘れたふりをするなんて。わたしは忘れない。麻耶が……妹が死んだのは、あなたのせいなんだから!」

