『わたしはわたしに失望した。わたしは人間であって人間ではない。そのことに気づいた。もうこれ以上、わたしはこの天と地の間に存在すべきではない。わたしはきっとホレイショーの哲学によって測りがたい、世界の歪みであり不条理だったのだ。ならば、これを排除することは世界にとっても望ましいことだろう。だから、どうか忘れてください。わたしが存在したという痕跡ごとなかったことにしてください。それが最後の望みです』

「ずいぶんと詩的だな」僕は最後まで目を通して言った。「ホレイショー、か。シェイクスピアの『ハムレット』だね。有名な一節がある」
「ホレイショー、この天地の間にはお前の人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」真理亜が諳んじる。「わたしも、真っ先にこのフレーズが頭に浮かんだわ。だけど、もしかしたらそれだけじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「藤村操って知ってる?」
 僕はかぶりを振った。「文豪か何かかい?」
「文豪ではないけれど、彼の残した文章はけっこう有名だそうよ。わたしがちょっと調べただけで見つかるくらいには」
 真理亜はそう言って、スマートフォンを操作する。そして、程なくしてその有名な文章とやらが載っている記事を見せてきた。

 悠々(ゆうゆう)たる(かな)天壤(てんじょう)遼々(りょうりょう)たる(かな)古今(ここん)
 五尺(ごしゃく)小躯(しょうく)(もっ)此大(このだい)をはからむとす。 
 ホレーショの哲學(てつがく)(つい)何等(なんら)のオーソリチィーを(あたい)するものぞ。
 萬有(ばんゆう)眞相(しんそう)唯一言(ただいちごん)にして(つく)す、(いわ)く、「不可解(ふかかい)」。

「不可解……」僕は呟いた。「なるほど。件のフレーズが引用されているね。それでこの文章は何?」
「遺書」答えたのは折笠さんだった。「いまから一〇〇年以上も前。明治三六年に、彼は華厳の滝に身を投げたの」
「よく知ってるね」
「……わたしももやさぐれて、そういうことについて調べたことがあったから」
「折笠さんにやさぐれてた時期があったなんて初耳だな」
「嘘。現在進行形でやさぐれてると思ってるくせに」
「まさか。折笠さんはきっと生まれたときからこうなんだろうなって思ってるだけだよ。それをやさぐれたとは言わない」
 肘を入れられた。
「折笠さんの言う通り」真理亜が流れを戻した。「当時十六歳で、現東大と千葉大にあたる一高生の、将来が約束されたスーパーエリートでありながら。当時としては衝撃的な事件だったらしいわ。彼の後を追うようにして数百人とも言われる若者が自ら死を選んだって言われてる。作家でも何でもなかった彼の文章がこうして後世にまで残っているのはそのせい」
「なるほど。麻耶の頭にはこの遺書も念頭にあったのかもね」
「どう思う?」真理亜が問う。
「不条理、不可解」僕は歌うように言った。「この天と地の間にはそういったものが溢れている。ハムレットも、藤村操もそう言っている。自分もその一つだと、麻耶は考えた。そういう風に読み取るのが妥当かな」
「わたしもそう思う」真理亜は言った。「アラハバキ。あの子は自分を古代の荒々しい神に重ねていた。討たれるべき龍に。不条理で不可解なもの。それがあの子にとってのアラハバキだったのかもしれない」
「問題は何が彼女にそう思わしめたのか、か」
「ええ、なんであのタイミングだったのか……」
「君たち家族にももちろん心当たりはないと」
「情けないことにね」
「……麻耶がこっちに戻ってきて二年半、ずっと一緒に暮らしてたんだよね。最近になって何か異変が起きたのであれば、気づいてもおかしくはない」
「そうね。でも、実際は何も気づけなかった」
「何もなかったのかもしれない」僕は言った。「少なくとも、君たち家族にわかる範囲では」
「となると、やっぱり学校で?」折笠さんが問う。
「そうだね。あるいは――そう、長崎で」
 メタラーの同好会が去ったらしく、隣の部屋は静まり返っていた。少し遠くの部屋から、明るいポップスが聞こえてくるばかり。
「やっぱり修学旅行でのことが気になるわね」真理亜は言った。「それがきっかけだと思う?」
「わからない。でも目下のところ、最も優先して探るべき線なのはたしかだろうね」
「でも『今はまだ何も言えない』んでしょう?」
「うん。でも、いまはまだクラスメイトの何人かに話を聞いただけだからね。修学旅行に参加したのは、うちのクラスだけじゃない。よそのクラスに、何が起こったのか話してくれる人がいるかもしれない」
「探ってくれるの?」
「もちろん。約束したじゃないか」
「ありがとう」
「水臭いな。僕らは友だ――」
 僕は言葉を呑んだ。真理亜が涙を流していたのだ。
「大丈夫?」折笠さんが声をかける。
「ごめんなさい。みっともないところを見せて」彼女は指で涙を拭った。「だけど、自分でもよくわからなくて。安心したのか、悲しくなったのか……」
 折笠さんがどうしたものかとおろおろしている。僕がフォローすべきだろう。だけど、できなかった。それどころではなかった。
 封印されていた記憶の扉が開いたのだ。
 ――ほら、ティッシュ。無料配布中なんだ。よければ受け取ってほしいな。
 あの日、学校の廊下で僕は同級生の女の子に声をかけた。彼女が泣いているように見えたから。ちょうどポケットにティッシュがあったから。
 あのとき、女子生徒は少し目を丸めた後、ティッシュをひったくるようにして掴んで、そのまま廊下を駆けて行った。制服が半袖だったのは覚えている。五月から九月のいつかのことだ。
 そのことを僕はすっかり忘れていた。
 だけど、いまならはっきりわかる。あのとき泣いていたのは、ティッシュをひったくっていったのは、いま眼前にしている泣き顔と瓜二つの少女、箒木麻耶に違いなかった(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)