海が見たいの。
ずっとむかし、妹が両親にねだったことがあった。両親は困惑したはずだ。まだ十歳にもならない子供が、晩秋の海を見たがるなんて想像の埒外だったろう。
あのね、夏はもう終わったの。母はそう諭しにかかった。この時期の海なんて行っても泳げないよ。海の家だってない。
嫌だ。海が見たい。見たいの。
妹は我が家の女王様だ。彼女がごねれば、たいていの道理は引っ込む。猫アレルギーの母もペットショップで財布を開くし、カレンダーには家族で晩秋の海を見に行く予定が書き込まれる。
よかったね、と妹は僕に言ったものだ。海が見られるよ、と。
どうして僕が喜ぶの? と僕は尋ねた。
お兄ちゃんは水が苦手だもんね。妹が笑う。怖い?
僕はそれには直接答えず言った。この時期の海なんてつまらないよ。
どうして? 実際に見たこともないのに。
わからない。
僕が返答に窮すと、妹は勢いづいて、ね、見に行こう。それでつまんなかったって帰りの車でぶーぶー言うの。
お父さんたちが困るよ。
おもしろそうでしょ?
女王様は家臣たちを振り回すのがお好みだった。そこに合理的な理由なんて必要ない。そういうことがわかるのはもっとずっと後のことだったけれど。このときの僕には、目の前の妹がただただ理解しがたい生き物に思えた。
けっきょく、僕らが晩秋の海を見ることはなかった。江の島への旅行を予定していた週末、台風が関東地方に上陸したのだ。家の中も、嵐だった。海に行けなかった妹が泣くわ騒ぐわだったから。
あれから、僕は海を見ていない。見たこともない海をずっと恐れ続けた。不意にどこかから聞こえる波の音に、夢の中の黒い水面にただただ怯えていた。
それが本当は取るに足らない恐怖であるかもしれないと、確認することもできたかもしれない。たとえば、高校の修学旅行で。だけど、僕は行かなかった。長崎へ旅立つ同級生たちをよそに、僕は彩都市に残った。海から逃げた。
全部そのせいだ。そのせいで僕はまた失った。海への恐れが僕からすべてを奪っていった。
海に沈んだ街を見下ろしながら、そんなことを思う。
嵐の中で。
龍の背で。
龍の――麻耶の角を掴んで。
全部沈んじゃったね。麻耶が言う。
うん。でもこれでよかったのかもしれない。
苦しいことばかりだったから?
うん。それが海の正体だったのかもしれない。すべてを破壊したいと望む心が。僕はずっとそれを認めるのが怖かったのかもしれない。
やっぱり、あなたとわたしは違うね。わたしはそんな激しさすら持てない。わたしの海は――静かすぎた。あなたとも、お姉ちゃんとも違って。
彼女は僕を乗せたまま、沈んでしまった彩都市の上空を飛び続ける。僕の家はどのあたりだろう。すべて沈んだいまとなってはよくわからない。水面はどこまでも黒く塗り潰されている。埼玉駅も、大宮神社も、さいたまスーパーアリーナもすべて飲み込まれてしまった。
やり直すことはできないのかな。ふと、そんな言葉が漏れた。
全部壊したいんじゃなかった?
うん。でもそれだけじゃなかった。そうじゃなきゃ、海を恐れたりもしなかったよ。
そっか。
君は思ったことないの? やり直したいって。
思うだけでやり直せるなら、そう思ったかもしれない。
リアリストだね。
じゃああなたはロマンチスト?
どうだろう。だけど――いまも考えてしまうんだ。もう一度やり直せるなら、全く別の道を選ぶかもしれないって。全部失わずに済んだかもしれないって。
麻耶は嵐の中を飛び続けた。僕が振り落とされないよう、ゆっくりと。彩都市の上空を旋回するようにして。
やがて空が晴れはじめる。そうして、気づけば海は引いていった。見慣れた彩都市の街並みが眼下に現れる。僕の家がある住宅街、通っていた高校、そして、市東部に広がる緑地を流れる川。あの日、僕が飛び込んだ川。溺れる少女を助けた川。
絶対に許さない。
命を助けた少女にそう告げられた川だ。麻耶の姉に。彼女そっくりの少女に。
あれは高校二年生の初秋。残暑が厳しい週末の午後のことだった――
ずっとむかし、妹が両親にねだったことがあった。両親は困惑したはずだ。まだ十歳にもならない子供が、晩秋の海を見たがるなんて想像の埒外だったろう。
あのね、夏はもう終わったの。母はそう諭しにかかった。この時期の海なんて行っても泳げないよ。海の家だってない。
嫌だ。海が見たい。見たいの。
妹は我が家の女王様だ。彼女がごねれば、たいていの道理は引っ込む。猫アレルギーの母もペットショップで財布を開くし、カレンダーには家族で晩秋の海を見に行く予定が書き込まれる。
よかったね、と妹は僕に言ったものだ。海が見られるよ、と。
どうして僕が喜ぶの? と僕は尋ねた。
お兄ちゃんは水が苦手だもんね。妹が笑う。怖い?
僕はそれには直接答えず言った。この時期の海なんてつまらないよ。
どうして? 実際に見たこともないのに。
わからない。
僕が返答に窮すと、妹は勢いづいて、ね、見に行こう。それでつまんなかったって帰りの車でぶーぶー言うの。
お父さんたちが困るよ。
おもしろそうでしょ?
女王様は家臣たちを振り回すのがお好みだった。そこに合理的な理由なんて必要ない。そういうことがわかるのはもっとずっと後のことだったけれど。このときの僕には、目の前の妹がただただ理解しがたい生き物に思えた。
けっきょく、僕らが晩秋の海を見ることはなかった。江の島への旅行を予定していた週末、台風が関東地方に上陸したのだ。家の中も、嵐だった。海に行けなかった妹が泣くわ騒ぐわだったから。
あれから、僕は海を見ていない。見たこともない海をずっと恐れ続けた。不意にどこかから聞こえる波の音に、夢の中の黒い水面にただただ怯えていた。
それが本当は取るに足らない恐怖であるかもしれないと、確認することもできたかもしれない。たとえば、高校の修学旅行で。だけど、僕は行かなかった。長崎へ旅立つ同級生たちをよそに、僕は彩都市に残った。海から逃げた。
全部そのせいだ。そのせいで僕はまた失った。海への恐れが僕からすべてを奪っていった。
海に沈んだ街を見下ろしながら、そんなことを思う。
嵐の中で。
龍の背で。
龍の――麻耶の角を掴んで。
全部沈んじゃったね。麻耶が言う。
うん。でもこれでよかったのかもしれない。
苦しいことばかりだったから?
うん。それが海の正体だったのかもしれない。すべてを破壊したいと望む心が。僕はずっとそれを認めるのが怖かったのかもしれない。
やっぱり、あなたとわたしは違うね。わたしはそんな激しさすら持てない。わたしの海は――静かすぎた。あなたとも、お姉ちゃんとも違って。
彼女は僕を乗せたまま、沈んでしまった彩都市の上空を飛び続ける。僕の家はどのあたりだろう。すべて沈んだいまとなってはよくわからない。水面はどこまでも黒く塗り潰されている。埼玉駅も、大宮神社も、さいたまスーパーアリーナもすべて飲み込まれてしまった。
やり直すことはできないのかな。ふと、そんな言葉が漏れた。
全部壊したいんじゃなかった?
うん。でもそれだけじゃなかった。そうじゃなきゃ、海を恐れたりもしなかったよ。
そっか。
君は思ったことないの? やり直したいって。
思うだけでやり直せるなら、そう思ったかもしれない。
リアリストだね。
じゃああなたはロマンチスト?
どうだろう。だけど――いまも考えてしまうんだ。もう一度やり直せるなら、全く別の道を選ぶかもしれないって。全部失わずに済んだかもしれないって。
麻耶は嵐の中を飛び続けた。僕が振り落とされないよう、ゆっくりと。彩都市の上空を旋回するようにして。
やがて空が晴れはじめる。そうして、気づけば海は引いていった。見慣れた彩都市の街並みが眼下に現れる。僕の家がある住宅街、通っていた高校、そして、市東部に広がる緑地を流れる川。あの日、僕が飛び込んだ川。溺れる少女を助けた川。
絶対に許さない。
命を助けた少女にそう告げられた川だ。麻耶の姉に。彼女そっくりの少女に。
あれは高校二年生の初秋。残暑が厳しい週末の午後のことだった――

