「どうして」
僕は思わず問いかけた。だけど、不思議と驚きはしなかった。どうしてだろう。しかし、考えを進める間もなく、真理亜は語りはじめた。
「あのとき、あの子はとても苦しい状況だった。ご両親が毎日のように家で喧嘩していたらしくてね。それも互いに手が出るほど苛烈に。家に居場所がなかったの。子供にとって、それがどれほど辛いことかは想像がつくでしょう? だから――」
「死んだ方がましだって思ったんだね」
「そう。でも、最初にそう思ったのはわたしじゃない。麻耶だった」真理亜は髪を耳にかけながら言った。「あの子はかわいそうだ。こんなに苦しまなきゃいけないなんておかしいって。わたしたちの力じゃ、大人をどうこうなんてできない。だから、彼女を救うのに最も手っ取り早いのは彼女自身をこの世から旅立たせることだって」
なるほど、理にはかなっている。しかし、そこらの小学生が至る発想ではない。
「君はそれで納得したの?」
「わたしだっていやだった。そんなことしたくなかった。だけど――わたしにはあの子の苦しみも、麻耶の優しさもわかってしまった。それで、幼いながらに義務感にかられるようになった。自分があの子を救わなきゃいけないって。自殺は大罪だから、自分の手で殺してあげなきゃって。もちろん、思うのと実行するのとは違う。大きな隔たりがある。だけど、あの日、その機会が、絶好の機会が訪れた」
その日、彼女たちは公園で遊んでいたらしい。木登りにはうってつけの大樹が聳え立つ公園だ。子供の身軽さなら、すいすいと登っていけるらしい。大人たちが注意しても、その目を盗んで木に登ろうとする子供が絶えなかったとのことだ。あの日の彼女たちのように。
「だけど、その子は麻耶に突き落とされたと思ってたみたいだったよ」
「そう、あのときも入れ替わってたから。だからっていうのもあったかもしれない。いまやれば、麻耶のせいにできるって、そういう卑怯な心が働いたのかも」
「麻耶はそれで納得したの? つまり、濡れ衣を着せられることに関して」
「結果的にはそうなった。切り捨てるなら麻耶の方だって両親が判断したから」
「切り捨てる?」
「そう。通知表の見栄えを比べたとき、わたしの方がわずかに勝っていた。それに、麻耶が両親の手に余るのはあの時にはじまったことでもなかった。両親はあの子を不気味がってたと思う。だから、事情を知ったとき――どっちかを切り捨てるか選べると気づいたとき、両親は迷わず麻耶の方を切った。麻耶がやったことにした」
「そんな」僕は思わず口にした。「そんなのってないよ。人間をそんな数字で測って切り捨てるなんて」
「仕方ないわよ。両親はそういう人たちなんだから。だからこそ成功できた。子供に裕福な生活をさせることができた。いい学校に通わせることができた。自分たちと同じようにすれば、子供たちも同じように成功すると信じていた」
「それでうまくいかなかったら切り捨てる?」僕は吐き捨てた。「なるほど、うまくいくまで切り捨てればいつかは成功するね。たいした人生訓だ」
「あなたが怒ることじゃないのに」
「怒るさ。君の両親はまず君たちを叱って、そしてやったことの重みを理解させるべきだった。本当に起こったことを相手の家族に説明すべきだった。それが親のすべきことだよ。間違っても、数字で比べてどっちを切り捨てるか決めることじゃない」
「ごめんなさい」
「どうして君が謝る」
「だって、わたしがあんなことをしなければ、あなたもそんな風に怒らずにすんだでしょう?」
思わず呆然とする。子供にそんな風に思わせる親とはいったいどんな立派な人たちなのだろう。政治家、官僚、実業家。何であれろくでもない話だ。そういう連中が富と力を持っている事実に頭が痛くなる。
「それで、麻耶は大人しく罪を被ることを受け入れたの?」
「ええ。あの子はわたしと違って、両親に見捨てられることをそこまで恐れていなかった。あるいはまったく。それで……彼女は秩父の祖父母の家に預けられることになったの。彼女がやったとされることを知る者がいない場所に」
つまり、手に余る子供を遠くの両親に押し付けたのだ。まったくもって素晴らしい采配だ。姉妹の両親が目の前にいたら、ありったけの賛辞で称えるだろう。合理主義者の鑑、責任放棄のプロフェッショナル、と。
「それで、君はそのまま同じ学校に通い続けた?」
「ええ。相手の子は、家庭の問題もあって転校していった。まさか、高校で再会するなんて思ってなかったわ。それに――自分がしたことの重みに気づかされた。幼い頃はいろいろあったけど、あの子はあの年まで健やかに育って、彼女なりの人生を歩んでいる。わたしはそれを奪ってしまうところだった」
神社に人通りが出てきた。僕らは人目を避けるようにして参道を引き返す。背の高い樹木に囲まれながら、話の続きをする。
「軽蔑したかしら?」真理亜が問う。「罪を他人に被せてののうのうと生きてるわたしを」
「君はそれをまっとうに悔いてるじゃないか」僕は言った。「でも、信じられない。子供がそんな理由で誰かを殺そうとするなんて」
「そうね。わたしだけならあんなことは起こらなかった。それも事実だと思う」
「つまり、麻耶がいなければ?」
真理亜は少し迷ってから頷いた。
「言いづらいけど、君は麻耶に操られたんじゃないの?」
「わからない。あの子がそうしようとすれば、できたかもしれない。だけど、それなら自分に罪が被らない形にもできたはずだし――何より、実際に手を下したのはわたし。だから、わたしの罪」
一之鳥居を抜け、神社の敷地外に出た。視界が広がり、秋晴れの空が僕たちを出迎えた。
「あの日のことを聞いてもいい?」僕は問う。
「あの日って?」
「僕らが出会った日のこと。あの日、どうして君は川に落ちたの?」
「ウェルテル効果って聞いたことない?」
「ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の読者が次々に自殺したっていうあれ? 主人公の自殺に影響されて――つまり、君は麻耶の後を追おうとして?」
自殺はセンセーショナルな形で取り沙汰されると、「フォロワー」を生みかねない。報道にも繊細な注意が必要になってくる。
「そう」真理亜は頷いた。「魔が差したっていうのかしら。もうどうでもよかった。だから――」
死んだ方がましだと思った。そういうことだろう。
「ごめん」僕は詫びた。「あのときは余計なお節介だったんだね。だけど――それがわかってても僕は君を助けたと思う」
「あなたは本当に優しいのね」真理亜は言った。「あなたがそうじゃなかったら、わたしはきっといまでもあなたを憎んでいた」
あるいは、その方がよかったかもしれない。いまの彼女を見ていると、そう思う。憎しみは何も生まないというが、憎しみが生かすものもある。あの日、死に損なった彼女は僕への憎しみを支えに生きてきたはずだ。僕はそれを奪ってしまった。身勝手な優しさで。
僕らはしばらく無言で歩き続けた。特に申し合せることなく、行き先もわからないまま歩を進める。見沼の緑地、かつての海を。
「これまでずっとごめんなさい。わたしの誤解と身勝手な感情をあなたにぶつけて」真理亜は頭を下げた。黒髪がさらさらと零れる。「そしてありがとう。付き合ってくれて」
それがまるで今生の別れを告げる言葉に聞こえて、僕は思わず問いかけた。
「麻耶はどうして死んだんだと思う?」
真理亜は目を泳がせて、
「わからない」
「知りたいって思わないの?」僕は問うた。「何が彼女を死に至らしめたのか。何が彼女を絶望させたのか。死んだ方がましだと思わせたのか」
真理亜が怪訝そうに眉を顰める。
「何か心当たりがあるの?」
「わからない。でも――僕はクラスで浮いてるから。修学旅行にも行かなかったし。だから、彼らの人間関係についてはほとんど何も知らない」
つまり何もわからない。いまはまだ。《《どうとでも解釈する余地が残っている》》。
「麻耶が人間関係で悩んでたっていうの?」
「青少年が自殺する理由なんてそれがほとんどでしょ?」
「そうかもしれない。だけど――」
彼女の躊躇いはわかる。話を聞いているだけでも、麻耶が普通の青少年からかけ離れた存在であることはなんとなくわかるからだ。そんな彼女が人並みな理由で死ぬものだろうか。わからない。だけど、いま僕が提示できる可能性はそれしかなかった。
「僕が探るよ」僕は彼女に手を差し出した。「君がそう望むなら」
真理亜はなおも躊躇っていた。だけど、やがて決心したようにおずおずと手を差し出してきた。水仕事なんてしたことがないだろう、白くてきれいな手だ。爪は短く切りそろえられている。指先に触れると、少しひんやりとする。
「頼ってもいいの?」彼女は上目がちに言った。
「君は僕の手を取った。ならもう友だちだ」僕は笑みを作った。「友だちっていうのは貸し借りなんてケチ臭い観念を超えた崇高な互助関係なんだよ」
「何それ。はじめて聞いた」
彼女がくすりと笑った。そんな表情を見るのははじめてだ。胸がとくんと跳ねる。
しまったな。彼女とは友だちになるつもりだったのに。
そんなことを思いながら、僕は彼女の手をしばらく握り続けた。
僕は思わず問いかけた。だけど、不思議と驚きはしなかった。どうしてだろう。しかし、考えを進める間もなく、真理亜は語りはじめた。
「あのとき、あの子はとても苦しい状況だった。ご両親が毎日のように家で喧嘩していたらしくてね。それも互いに手が出るほど苛烈に。家に居場所がなかったの。子供にとって、それがどれほど辛いことかは想像がつくでしょう? だから――」
「死んだ方がましだって思ったんだね」
「そう。でも、最初にそう思ったのはわたしじゃない。麻耶だった」真理亜は髪を耳にかけながら言った。「あの子はかわいそうだ。こんなに苦しまなきゃいけないなんておかしいって。わたしたちの力じゃ、大人をどうこうなんてできない。だから、彼女を救うのに最も手っ取り早いのは彼女自身をこの世から旅立たせることだって」
なるほど、理にはかなっている。しかし、そこらの小学生が至る発想ではない。
「君はそれで納得したの?」
「わたしだっていやだった。そんなことしたくなかった。だけど――わたしにはあの子の苦しみも、麻耶の優しさもわかってしまった。それで、幼いながらに義務感にかられるようになった。自分があの子を救わなきゃいけないって。自殺は大罪だから、自分の手で殺してあげなきゃって。もちろん、思うのと実行するのとは違う。大きな隔たりがある。だけど、あの日、その機会が、絶好の機会が訪れた」
その日、彼女たちは公園で遊んでいたらしい。木登りにはうってつけの大樹が聳え立つ公園だ。子供の身軽さなら、すいすいと登っていけるらしい。大人たちが注意しても、その目を盗んで木に登ろうとする子供が絶えなかったとのことだ。あの日の彼女たちのように。
「だけど、その子は麻耶に突き落とされたと思ってたみたいだったよ」
「そう、あのときも入れ替わってたから。だからっていうのもあったかもしれない。いまやれば、麻耶のせいにできるって、そういう卑怯な心が働いたのかも」
「麻耶はそれで納得したの? つまり、濡れ衣を着せられることに関して」
「結果的にはそうなった。切り捨てるなら麻耶の方だって両親が判断したから」
「切り捨てる?」
「そう。通知表の見栄えを比べたとき、わたしの方がわずかに勝っていた。それに、麻耶が両親の手に余るのはあの時にはじまったことでもなかった。両親はあの子を不気味がってたと思う。だから、事情を知ったとき――どっちかを切り捨てるか選べると気づいたとき、両親は迷わず麻耶の方を切った。麻耶がやったことにした」
「そんな」僕は思わず口にした。「そんなのってないよ。人間をそんな数字で測って切り捨てるなんて」
「仕方ないわよ。両親はそういう人たちなんだから。だからこそ成功できた。子供に裕福な生活をさせることができた。いい学校に通わせることができた。自分たちと同じようにすれば、子供たちも同じように成功すると信じていた」
「それでうまくいかなかったら切り捨てる?」僕は吐き捨てた。「なるほど、うまくいくまで切り捨てればいつかは成功するね。たいした人生訓だ」
「あなたが怒ることじゃないのに」
「怒るさ。君の両親はまず君たちを叱って、そしてやったことの重みを理解させるべきだった。本当に起こったことを相手の家族に説明すべきだった。それが親のすべきことだよ。間違っても、数字で比べてどっちを切り捨てるか決めることじゃない」
「ごめんなさい」
「どうして君が謝る」
「だって、わたしがあんなことをしなければ、あなたもそんな風に怒らずにすんだでしょう?」
思わず呆然とする。子供にそんな風に思わせる親とはいったいどんな立派な人たちなのだろう。政治家、官僚、実業家。何であれろくでもない話だ。そういう連中が富と力を持っている事実に頭が痛くなる。
「それで、麻耶は大人しく罪を被ることを受け入れたの?」
「ええ。あの子はわたしと違って、両親に見捨てられることをそこまで恐れていなかった。あるいはまったく。それで……彼女は秩父の祖父母の家に預けられることになったの。彼女がやったとされることを知る者がいない場所に」
つまり、手に余る子供を遠くの両親に押し付けたのだ。まったくもって素晴らしい采配だ。姉妹の両親が目の前にいたら、ありったけの賛辞で称えるだろう。合理主義者の鑑、責任放棄のプロフェッショナル、と。
「それで、君はそのまま同じ学校に通い続けた?」
「ええ。相手の子は、家庭の問題もあって転校していった。まさか、高校で再会するなんて思ってなかったわ。それに――自分がしたことの重みに気づかされた。幼い頃はいろいろあったけど、あの子はあの年まで健やかに育って、彼女なりの人生を歩んでいる。わたしはそれを奪ってしまうところだった」
神社に人通りが出てきた。僕らは人目を避けるようにして参道を引き返す。背の高い樹木に囲まれながら、話の続きをする。
「軽蔑したかしら?」真理亜が問う。「罪を他人に被せてののうのうと生きてるわたしを」
「君はそれをまっとうに悔いてるじゃないか」僕は言った。「でも、信じられない。子供がそんな理由で誰かを殺そうとするなんて」
「そうね。わたしだけならあんなことは起こらなかった。それも事実だと思う」
「つまり、麻耶がいなければ?」
真理亜は少し迷ってから頷いた。
「言いづらいけど、君は麻耶に操られたんじゃないの?」
「わからない。あの子がそうしようとすれば、できたかもしれない。だけど、それなら自分に罪が被らない形にもできたはずだし――何より、実際に手を下したのはわたし。だから、わたしの罪」
一之鳥居を抜け、神社の敷地外に出た。視界が広がり、秋晴れの空が僕たちを出迎えた。
「あの日のことを聞いてもいい?」僕は問う。
「あの日って?」
「僕らが出会った日のこと。あの日、どうして君は川に落ちたの?」
「ウェルテル効果って聞いたことない?」
「ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の読者が次々に自殺したっていうあれ? 主人公の自殺に影響されて――つまり、君は麻耶の後を追おうとして?」
自殺はセンセーショナルな形で取り沙汰されると、「フォロワー」を生みかねない。報道にも繊細な注意が必要になってくる。
「そう」真理亜は頷いた。「魔が差したっていうのかしら。もうどうでもよかった。だから――」
死んだ方がましだと思った。そういうことだろう。
「ごめん」僕は詫びた。「あのときは余計なお節介だったんだね。だけど――それがわかってても僕は君を助けたと思う」
「あなたは本当に優しいのね」真理亜は言った。「あなたがそうじゃなかったら、わたしはきっといまでもあなたを憎んでいた」
あるいは、その方がよかったかもしれない。いまの彼女を見ていると、そう思う。憎しみは何も生まないというが、憎しみが生かすものもある。あの日、死に損なった彼女は僕への憎しみを支えに生きてきたはずだ。僕はそれを奪ってしまった。身勝手な優しさで。
僕らはしばらく無言で歩き続けた。特に申し合せることなく、行き先もわからないまま歩を進める。見沼の緑地、かつての海を。
「これまでずっとごめんなさい。わたしの誤解と身勝手な感情をあなたにぶつけて」真理亜は頭を下げた。黒髪がさらさらと零れる。「そしてありがとう。付き合ってくれて」
それがまるで今生の別れを告げる言葉に聞こえて、僕は思わず問いかけた。
「麻耶はどうして死んだんだと思う?」
真理亜は目を泳がせて、
「わからない」
「知りたいって思わないの?」僕は問うた。「何が彼女を死に至らしめたのか。何が彼女を絶望させたのか。死んだ方がましだと思わせたのか」
真理亜が怪訝そうに眉を顰める。
「何か心当たりがあるの?」
「わからない。でも――僕はクラスで浮いてるから。修学旅行にも行かなかったし。だから、彼らの人間関係についてはほとんど何も知らない」
つまり何もわからない。いまはまだ。《《どうとでも解釈する余地が残っている》》。
「麻耶が人間関係で悩んでたっていうの?」
「青少年が自殺する理由なんてそれがほとんどでしょ?」
「そうかもしれない。だけど――」
彼女の躊躇いはわかる。話を聞いているだけでも、麻耶が普通の青少年からかけ離れた存在であることはなんとなくわかるからだ。そんな彼女が人並みな理由で死ぬものだろうか。わからない。だけど、いま僕が提示できる可能性はそれしかなかった。
「僕が探るよ」僕は彼女に手を差し出した。「君がそう望むなら」
真理亜はなおも躊躇っていた。だけど、やがて決心したようにおずおずと手を差し出してきた。水仕事なんてしたことがないだろう、白くてきれいな手だ。爪は短く切りそろえられている。指先に触れると、少しひんやりとする。
「頼ってもいいの?」彼女は上目がちに言った。
「君は僕の手を取った。ならもう友だちだ」僕は笑みを作った。「友だちっていうのは貸し借りなんてケチ臭い観念を超えた崇高な互助関係なんだよ」
「何それ。はじめて聞いた」
彼女がくすりと笑った。そんな表情を見るのははじめてだ。胸がとくんと跳ねる。
しまったな。彼女とは友だちになるつもりだったのに。
そんなことを思いながら、僕は彼女の手をしばらく握り続けた。

