僕が再度、芝川を訪れたのは、『オース・オブ・レムリア』にペルセウスが実装された日の翌日のことだった。
 ガチャ欲を鎮めるためではない。ただ一度、麻耶が命を投げ捨てた場所を見ておきたかったのだ。
 とはいえ、具体的な場所まではわからない。上流から下流まで歩き通すわけにもいかない。自分でも何がしたいのかよくわからないまま、けっきょく真理亜と出会った日と同じような場所をうろうろすることになった。見沼の緑地を。かつて海だった場所を。
 九月の半ばの土曜日、連休の初日だった。秋晴れの空はどこまでも高く、低空から上空までぽつぽつと雲が浮かぶばかりだった。
 考えてみれば、不思議なものだ。僕は麻耶が死んだ場所にふらふらと引き寄せられるようにしてあの場に赴き、そして真理亜に出会ったのだから。
 あの日、真理亜は何をしていたのだろう。
 彼女なら、妹が川に飛び込んだ場所や、引き上げられた場所がわかるのだろうか。
 どっちでも同じだ、と僕は思う。知っていたところで、教えてはくれないだろう。
 困ったものだ。
 手の中の花束を見下ろしながら、そう思う。さっき、目に入った花屋で買ったのだ。考えてみれば、お彼岸の時期だ。お供え用だと伝えると、店員さんは特に不審がる様子もなく、菊に竜胆、百合、桔梗、カーネーションを束ね、リボンを巻いてくれた。白を中心に、淡い紫を差し色とした、落ち着いた色合いの花束だ。その花束を抱えたまま、もう何十分もぶらぶらと歩いている。我ながら、間抜けな絵面だ。
「まあ、こういうのは気持ちだよね……」
 言い訳するようにつぶやく。どこか、適当なところに供えて麻耶への手向けとしよう。しかし、その適当な場所というのが見つからない。決められない。
 そうして、川を上流に向かって歩いていると、 小さな橋に突き当たった。川原から何気なく見上げる。
 あ、と思わず声が漏れた。
 花束だ。僕が包んでもらったのと似たような花束が橋の川側に供えられている。小走りに駆け寄った。花はまだ新鮮に見える。僕が抱える花束と見劣りしないほどに。おそらく、少し前に置かれたものだろう。
 このあたりで他に事故があったのかもしれない。ここで犠牲になったのは、箒木姉妹とは全く無関係な彩都市民かもしれない。
 そう考えることもできた。だけど、たとえば交通事故を誘発するような場所にも見えない。何か悲しいことが起こったとしたら、それは――
 僕は花束を二つ寄り添わせるようにして横たえた。
 それだけでは味気ない気がして、手を合わせて黙祷などしてみる。瞼の裏の暗闇に、川辺の音が重なる。行き交う車の音、鳥の鳴き声、そして波音。
 海。
 ざぶんざぶん、と白く波打つ荒々しい海が見える。こちらへと手招くように波打っている。
 海から逃れるようにして、目を開いた。ぼやけた視界が徐々にはっきりとして、二つ並んだ花束に焦点が合う。
「どうして」
 聞き覚えのある声に振り向いた。
 真理亜だ。今日も高校の制服を着ている。白いブラウスに緑の校章。格子柄のプリーツスカート。
「どうして僕がここにいるのかって?」僕は言った。「ちょうど手元に花があったものだからね、お供えしようと思ったんだ」
「誰から聞いたの」真理亜は僕を睨んだまま言った。「この場所のこと」
「誰にも。ただ下流から上流に向けて散歩してきただけだよ。そうしたらこの花束が目に留まった。だからきっと、ここだと思った」
「馬鹿げてる。川って言っても何キロあると思ってるの? たまたま目印があったからよかったものの、そうじゃなかったら――」
「そうだね。我ながら考えなしだ」僕は苦笑した。「この花はもしかして君が?」
 真理亜は体を少しこわばらせたのち、小さく頷いた。
「あなたが歩いてくるのが見えた。その花束を抱えて。だから――」
「こっそり観察することにしたわけだね」僕はまた補う。「で? よかったら感想が聞きたいな」
「あなたは麻耶のことを知らないんでしょう」真理亜は質問には答えず言った。「あるいはすっかり忘れてしまった。なのに、どうして」
「ここ数日、ずっと君たち姉妹のことを考えていたからね。そうしたらなんとなく、こうしたくなったんだ」
「そんな情があるならどうして――」真理亜はまたも言葉を失った。「ねえ、どうしてなの? どうして忘れちゃったのよ」
「そうだね、矛盾してる。だからどっちかが間違ってるんだと思う。僕の心と、君の妹の日記のどちらかが」
「妹は――麻耶はそんな意味のない嘘を吐く子じゃなかった」真理亜は体の前で手をぎゅっと握り合わせた。「そう、だったはず。むしろあまりに純粋で素直すぎて――だから、だからあの日――」
 そのまま倒れるようにしてしゃがみ込んでしまう。俯いて目元を覆う。
「わたしが、わたしが止めなきゃいけなかった。お姉ちゃんだから。わたしの方がしっかりしてたから。なのに、わたしは逆にあの子に飲み込まれてしまった。自分の役割を見失った。導くべき相手に惑わされた」
「それはどういう――」
「わたしのせいなの。あの子が見捨てられたのは。わたしがしっかりしてなかったから、だから――」
「真理亜!」僕は彼女の名を呼んだ。「しっかりして」
 真理亜ははっとしたように顔を上げた。瞳が涙に濡れている。
「立てる?」僕は手を伸ばした。しかし、彼女はその手を掴むことなく立ち上がり、橋の手すりに手をかけた。
「ごめんなさい。みっともない姿を見せた」
「ああ、うん」素直に謝るものだから戸惑ってしまう。「なんというか、君は高潔なんだな。僕みたいなのが相手でも謝れるなんて」
 僕が率直に言うと、真理亜は逆に驚いたように目を丸めた。しかし、すぐどこか気まずそうになり、視線を逸らす。川の水面を見下ろす。
「ずっと、そうなりたかった。立派な姉に。だけど、無理だった。だから、全部だめになった。あの子の人生も、わたし自身の人生も」
 彼女は穏やかな口調で言った。まるでもう全部、とっくのむかしに諦めがついていたとばかりに。
「……よかったら話してくれる?」僕は切り出した。いまの彼女なら、話してくれる気がした。「君と妹のこと」
「そうね」彼女は視線を川に向けたまま、「わたしはきっと自分の感情を持て余していたのね。それをあなたにぶつけてしまった。そうするには絶好の相手だったから」そこまで言って、僕に視線を合わせる。「だから、もう少しだけ付き合ってくれる? わたしの懺悔に」