「何でも?」
「……疑うのはわかる。だけど、あの子には特別な力があった。たとえば――ねえ、カクテルパーティー効果って知ってる?」
「何だっけ?」
せっかくなので、ここまで無言の折笠さんに振る。折笠さんは僕を睨んでから、たどたどしく説明する。
「えっと……パーティー会場みたいな騒がしい場所で会話相手の声だけを拾って聞き分けられる現象のこと?」
「……そう」上水口さんは頷いた。「あの子は、そのカクテルパーティー効果が働きづらい子だったの」
「それはむしろ欠点じゃないかな」
「……普通ならそう。だけど、あの子の場合は話が違う。あの子は、耳に入ってくる声すべてを無差別に取り込み、処理することができた。そう、本人が言ってた。自分は聖徳太子の生まれ変わりかもしれないって」
「頭が良かったんだね」僕は言った。「そうか、それで教室にいるだけで同級生たちの情報を拾えたわけだ」
そうした強みがあるなら、占いが得意だったというのにも合点がいく。普通なら脳が無意識にふるい落としてしまう情報もすべて拾い上げて手札とすることができるのだから。
「……そう。だけど、それだけじゃない。あの子はもっと曖昧で、形のないものを感じ取る力があった。はじめて会う相手のことでも、シャーロック・ホームズみたいにずばずば言い当てることができた」
「それじゃ名探偵というより霊感者みたいだな」
「……そうじゃないと思う。あの子はただ、人間が持ちうる感覚を研ぎ澄ますことができたってだけ……なんじゃないかな。わたしはそう思う。ゾーンって言うのかな、占いの前はいつもそういう集中した状態になってた」
「ゾーン?」
再度、折笠さんに振る。
「人間の潜在能力が極限まで引き出される集中状態……みたいな感じ?」
「……わたしもはっきりと理解してるわけじゃないの」上水口さんは言った。「だけど、そう、ゾーン。あの子はそこに入ることができた」
「そんな方法があるなら、僕も試してみたいな」
「……無理だと思う。わたしも試したことがあったから。あれはあくまであの子の方法であって、他の人が真似ても意味がないんだと思う」
「その方法って?」
「……オルゴール」上水口さんは言った。「あの子が大事にしてるオルゴールがあったの。誰かにもらったものらしいんだけど……それ以外は何も特別なものではなかったと思う。ただの小さい、木製の箱だった。椅子に座って、深呼吸しながら、その音色を聞くと、あの子はゾーンに――あの子の言葉で言うと、海に入れるんだって」
「海?」
「……そうあの子はたとえてた。オルゴールの曲がドビュッシーの『海』だからって。あの曲を聞いていると、あの子はその海を感じることができたみたい。どこまでも静かで、波ひとつ立たない海。完全な凪。そういう世界に入れたんだって」
「海……か」どう反応したものか困る。麻耶は思った以上にスピリチュアルな世界観に生きていたらしい。その世界では、海は静かで優しく、僕はスサノオになれる。
「……わたしからも聞いていい?」
「もちろん」
「二人は付き合ってるの?」
僕と折笠さんは顔を見合わせた。
「いや、ないない」思わずと言った様子で、折笠さんが否定する。上水口さんはそれを見てくすっと笑う。
「……ごめん。でも心が通じ合ってるように見えたから。それに、二人とも修学旅行に来なかったでしょ?」
「ああ、折笠さんは去年行ってるから――」
「行ってない……」折笠さんはぼそっと言った。「わたし、長崎なんて行ってない」
初耳だった。
「あれ、行き先違ったっけ?」
「言ったでしょ。不登校気味だったって。そんな子が修学旅行に嬉々として参加すると思う?」
「思わないけど、あれ、でも前に行ったって言ってなかったっけ?」
いよいよ自分の記憶が信用ならなくなってくる。
「わたしだってプライドがあるんだよ」折笠さんは言った。「あのときはまだ葉月君と話すようになったばかりで、なんていうか、自分の弱いとこを見せたくなかったの。不登校気味だったこととか、修学旅行に行かなかったこととか」
「それを何でいまになって言うかな」
「知らない」折笠さんはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……お互い知らないこともあるよね」上水口さんがフォローするように言う。「わたしと麻耶もそうだった。わたしは麻耶のことを気づけなかったし……でも、あの子はわたしのことなんて何でもわかっちゃったかな」
重々しい沈黙が下りる。視線を逃そうにも、八方から殺人鬼や怨霊に睨まれている。
「そういえば、修学旅行について誰かに聞いたことなかったっけ」僕は話題を変えた。「向こうではどんな感じだったの? 箒木さんとも一緒に行動したんじゃない?」
「……うん。同じ班だったし」
「長崎と言えばいろんな名所があるよね」
「……そうだね」
どうにも口が重い。何かよくないことでもあったのだろうか。
「箒木さんは楽しそうだった?」
上水口さんはしばらく考え込むようにして、「……そう、だね。猫ばっかり追い回してた」
「猫?」
「……ああ、知らなかった? あの子、猫が好きだったの。家でも飼いたいけど、両親が許してくれないってよく愚痴ってたな。大きい猫のぬいぐるみで我慢してるんだって」
「にしても、猫なんて埼玉にもいるだろうに、わざわざ旅行先で?」
「……長崎の猫って特徴があるの。ほら、尻尾が曲がってて」
「ああ」と折笠さんが声を発する。「尾曲がり猫」
「……そう」上水口さんが頷いた。「写真、いっぱい撮ってた。実物を見てよっぽど気に入ったみたいで、こっちに帰ってきてからも尾曲がり猫がいないかって探してた」
「猫の尻尾に注目したことはないけど――そこらにいるものなの?」
尻尾が曲がってたって猫にとっては何の役にも立たないだろう。こうして人間に物珍しがられるのが精々なものだ。
「……それがいたの。ちょっと待ってて」上水口さんはそう言って、スタンドのスマホを取り上げた。タッチを繰り返し、こちらに見せてくる。どこかの路地裏の写真だった。そこには、まさに尻尾の先が鉤状に曲がった三毛猫が映っていた。
「これは箒木さんが?」
「……うん。送ってきた。やっと見つけたって。夏休みの最中だった」
「それって……」
「……うん。あの子があんなことになるほんの数日前のことだった」上水口さんは言った。「あのときはまさかあんなことになるなんて夢にも思わなかった」
「それはそうだろうね」
「……わたしのせい。わたしがちゃんと止められたら――」
「そんな」折笠さんが遮った。「違うよ。そんな風に思う気持ちもわかるけど、でも……」
言い出したものの、うまく言葉が継げなかったらしい。折笠さんはそのまま黙り込んでしまった。
「今日はありがとう」僕は礼を述べた。「いろいろと話してくれて。僕らはそろそろ帰るよ」
「葉月君」折笠さんがすがるような目で見てくる。何か、上水口さんの慰めとなるような言葉を求めるように。
「みんな心配してたよ。また学校に顔を見せに来てくれたらきっと、安心すると思う。もちろん、急ぐことはないけど、でも、あんまり休みすぎるとここにいる折笠さんみたいに留年しちゃうからね」
「葉月君」今度は責めるように睨んでくる。
「……うん。わかってる」上水口さんは弱々しく答えた。「心配ないって伝えておいて」
僕は折笠さんの腕を掴んで部屋を辞した。上水口さんはすぐには後を追ってこない。彼女の部屋からは静かにすすり泣く声が聞こえた。
「……疑うのはわかる。だけど、あの子には特別な力があった。たとえば――ねえ、カクテルパーティー効果って知ってる?」
「何だっけ?」
せっかくなので、ここまで無言の折笠さんに振る。折笠さんは僕を睨んでから、たどたどしく説明する。
「えっと……パーティー会場みたいな騒がしい場所で会話相手の声だけを拾って聞き分けられる現象のこと?」
「……そう」上水口さんは頷いた。「あの子は、そのカクテルパーティー効果が働きづらい子だったの」
「それはむしろ欠点じゃないかな」
「……普通ならそう。だけど、あの子の場合は話が違う。あの子は、耳に入ってくる声すべてを無差別に取り込み、処理することができた。そう、本人が言ってた。自分は聖徳太子の生まれ変わりかもしれないって」
「頭が良かったんだね」僕は言った。「そうか、それで教室にいるだけで同級生たちの情報を拾えたわけだ」
そうした強みがあるなら、占いが得意だったというのにも合点がいく。普通なら脳が無意識にふるい落としてしまう情報もすべて拾い上げて手札とすることができるのだから。
「……そう。だけど、それだけじゃない。あの子はもっと曖昧で、形のないものを感じ取る力があった。はじめて会う相手のことでも、シャーロック・ホームズみたいにずばずば言い当てることができた」
「それじゃ名探偵というより霊感者みたいだな」
「……そうじゃないと思う。あの子はただ、人間が持ちうる感覚を研ぎ澄ますことができたってだけ……なんじゃないかな。わたしはそう思う。ゾーンって言うのかな、占いの前はいつもそういう集中した状態になってた」
「ゾーン?」
再度、折笠さんに振る。
「人間の潜在能力が極限まで引き出される集中状態……みたいな感じ?」
「……わたしもはっきりと理解してるわけじゃないの」上水口さんは言った。「だけど、そう、ゾーン。あの子はそこに入ることができた」
「そんな方法があるなら、僕も試してみたいな」
「……無理だと思う。わたしも試したことがあったから。あれはあくまであの子の方法であって、他の人が真似ても意味がないんだと思う」
「その方法って?」
「……オルゴール」上水口さんは言った。「あの子が大事にしてるオルゴールがあったの。誰かにもらったものらしいんだけど……それ以外は何も特別なものではなかったと思う。ただの小さい、木製の箱だった。椅子に座って、深呼吸しながら、その音色を聞くと、あの子はゾーンに――あの子の言葉で言うと、海に入れるんだって」
「海?」
「……そうあの子はたとえてた。オルゴールの曲がドビュッシーの『海』だからって。あの曲を聞いていると、あの子はその海を感じることができたみたい。どこまでも静かで、波ひとつ立たない海。完全な凪。そういう世界に入れたんだって」
「海……か」どう反応したものか困る。麻耶は思った以上にスピリチュアルな世界観に生きていたらしい。その世界では、海は静かで優しく、僕はスサノオになれる。
「……わたしからも聞いていい?」
「もちろん」
「二人は付き合ってるの?」
僕と折笠さんは顔を見合わせた。
「いや、ないない」思わずと言った様子で、折笠さんが否定する。上水口さんはそれを見てくすっと笑う。
「……ごめん。でも心が通じ合ってるように見えたから。それに、二人とも修学旅行に来なかったでしょ?」
「ああ、折笠さんは去年行ってるから――」
「行ってない……」折笠さんはぼそっと言った。「わたし、長崎なんて行ってない」
初耳だった。
「あれ、行き先違ったっけ?」
「言ったでしょ。不登校気味だったって。そんな子が修学旅行に嬉々として参加すると思う?」
「思わないけど、あれ、でも前に行ったって言ってなかったっけ?」
いよいよ自分の記憶が信用ならなくなってくる。
「わたしだってプライドがあるんだよ」折笠さんは言った。「あのときはまだ葉月君と話すようになったばかりで、なんていうか、自分の弱いとこを見せたくなかったの。不登校気味だったこととか、修学旅行に行かなかったこととか」
「それを何でいまになって言うかな」
「知らない」折笠さんはぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……お互い知らないこともあるよね」上水口さんがフォローするように言う。「わたしと麻耶もそうだった。わたしは麻耶のことを気づけなかったし……でも、あの子はわたしのことなんて何でもわかっちゃったかな」
重々しい沈黙が下りる。視線を逃そうにも、八方から殺人鬼や怨霊に睨まれている。
「そういえば、修学旅行について誰かに聞いたことなかったっけ」僕は話題を変えた。「向こうではどんな感じだったの? 箒木さんとも一緒に行動したんじゃない?」
「……うん。同じ班だったし」
「長崎と言えばいろんな名所があるよね」
「……そうだね」
どうにも口が重い。何かよくないことでもあったのだろうか。
「箒木さんは楽しそうだった?」
上水口さんはしばらく考え込むようにして、「……そう、だね。猫ばっかり追い回してた」
「猫?」
「……ああ、知らなかった? あの子、猫が好きだったの。家でも飼いたいけど、両親が許してくれないってよく愚痴ってたな。大きい猫のぬいぐるみで我慢してるんだって」
「にしても、猫なんて埼玉にもいるだろうに、わざわざ旅行先で?」
「……長崎の猫って特徴があるの。ほら、尻尾が曲がってて」
「ああ」と折笠さんが声を発する。「尾曲がり猫」
「……そう」上水口さんが頷いた。「写真、いっぱい撮ってた。実物を見てよっぽど気に入ったみたいで、こっちに帰ってきてからも尾曲がり猫がいないかって探してた」
「猫の尻尾に注目したことはないけど――そこらにいるものなの?」
尻尾が曲がってたって猫にとっては何の役にも立たないだろう。こうして人間に物珍しがられるのが精々なものだ。
「……それがいたの。ちょっと待ってて」上水口さんはそう言って、スタンドのスマホを取り上げた。タッチを繰り返し、こちらに見せてくる。どこかの路地裏の写真だった。そこには、まさに尻尾の先が鉤状に曲がった三毛猫が映っていた。
「これは箒木さんが?」
「……うん。送ってきた。やっと見つけたって。夏休みの最中だった」
「それって……」
「……うん。あの子があんなことになるほんの数日前のことだった」上水口さんは言った。「あのときはまさかあんなことになるなんて夢にも思わなかった」
「それはそうだろうね」
「……わたしのせい。わたしがちゃんと止められたら――」
「そんな」折笠さんが遮った。「違うよ。そんな風に思う気持ちもわかるけど、でも……」
言い出したものの、うまく言葉が継げなかったらしい。折笠さんはそのまま黙り込んでしまった。
「今日はありがとう」僕は礼を述べた。「いろいろと話してくれて。僕らはそろそろ帰るよ」
「葉月君」折笠さんがすがるような目で見てくる。何か、上水口さんの慰めとなるような言葉を求めるように。
「みんな心配してたよ。また学校に顔を見せに来てくれたらきっと、安心すると思う。もちろん、急ぐことはないけど、でも、あんまり休みすぎるとここにいる折笠さんみたいに留年しちゃうからね」
「葉月君」今度は責めるように睨んでくる。
「……うん。わかってる」上水口さんは弱々しく答えた。「心配ないって伝えておいて」
僕は折笠さんの腕を掴んで部屋を辞した。上水口さんはすぐには後を追ってこない。彼女の部屋からは静かにすすり泣く声が聞こえた。

