「今日は遅かったね」
 その夜、舞に指摘された。子供部屋前のスタディスペースで二人並んで宿題をやっつけている最中のことだった。どっちかの部屋に入り浸っていると、叔父さんたちに僕らの関係を勘繰られてしまう。隙を見てそれとなくいちゃつくのにうってつけの場所がスタディスペースだった。
「友だちと喫茶店で一服してきたからね」
「折笠さんと?」
「うん、まあ彼女も含めて、ね」
「怪しい」
 またはじまった。僕はペンを走らせる手を止めて、この嫉妬深い従妹と向き合った。肩口にかかるかかからないかのボブカットに包まれた丸顔。天保山のように低い鼻、とろんとした垂れ目。俗に言うたぬき顔の、かわいい従妹。
「怪しいって何がさ」
「お兄ちゃんに折笠さん以外の友だちなんていない」
「昨日まではね」
「どんな人?」舞が一足飛びに問う。
「カップルだよ。女の子同士のね。四人席で楽しくおしゃべりしたよ」
「お兄ちゃんの友だちは女の子ばっかりなんだね」
「なんでだろうね」
「女好き」ジト目で睨んでくる。
「逆だよ、逆」僕は弁解した。「舞以外の女の子をそういう目で見てないから友だちとして付き合えるのさ」
「嘘吐き」舞は拗ねるように言った。「お兄ちゃん、レムリアのキャラも女の子ばっかり集めてるじゃない」
「ああいうゲームは女の子の方が多いんだよ。舞もやってるんだからわかるでしょ」
「それにしても偏ってるって言ってるの」舞は吐き捨てるように続ける。「おっぱい大きいキャラばっかり」
 脳裏にパーティー編成画面が浮かぶ。キャラクターのバストアップが表示される画面だ。胸部装甲の厚さを一望できる画面。
「ああいうゲームはおっぱいが大きい女の子の方が――」
「はいはい、わかりました」舞は言った。「えっち。スケベ。おっぱい星人」
「ごめんて」
 僕は舞の頭にポンと手を置き、撫でた。恒例のご機嫌取りだ。舞は黙ってされるがままにする。これでどうにかなる分には、あんまり怒ってないということだ。
「お兄ちゃんは次のガチャ引くの?」
「引きたくても石がないよ」
「アンドロメダ引いたからでしょ」舞は指摘する。「ペルセウスはどうでもいいんだ。ふーん」
 アンドロメダはおっぱい大きかったもんね、とでも言いたげだ。ペルセウスは野郎だし、そもそも眼中にないのだろう、と。
「お兄ちゃん、スサノオも特効持ちで強かったのに引かなかったもんね」
 スサノオ。
 その単語が呼び水となって、彼女の言葉が思い出される。
 ――そう書いてあったのよ。『葉月君はわたしのスサノオだ』って。
「スサノオも胸板は立派だったけどね」冗談めかして言う。しかし、こう付け足さずにはいられなかった。「僕とは違って」
「なんで張り合おうとしたの?」舞が怪訝そうにする。「わたしは別にマッチョ好きじゃないけど……」
「そうだね、比較にもならない。する意味もない。ナンセンスだよね、まったく」
 舞はますます困惑した様子だったが、僕が何度か促すと勉強に戻った。
 僕も自分の宿題と向き合いながら、考える。
 あの胸板の厚いスサノオはあくまでゲームの中のスサノオだ。イラストレーターによる現代的解釈で描かれた偶像にすぎない。だけど、彼の武勇伝から想像される姿として、そう逸脱したものではない。荒々しく、力強い、まさに男の中の男。大蛇を屠った英雄。それが須佐之男命だ。どう考えたって、現代的もやしっ子の僕とは結びつかない。
 だけど、おそらくは世界でただ一人、麻耶は意見を異にしていたらしい。傍から見た僕の姿にスサノオの姿を重ね、何かを期待していた。日記の記述を、真理亜の証言を信じるなら、そういうことになる。
 箒木麻耶。
 彼女はいったい、何者だったのだろう。もしも、彼女がキリストのように蘇えり、すべての事情を解き明かしてくれたらどれだけ助かるだろう。どれだけの誤解が解け、どれだけの人が救われるだろう。僕に折笠さん、真理亜、Aさん。関係者の名前が続々と浮かぶ。
 聞きたいことがたくさんある。どうしてAさんを突き落としたのか。どうして自ら死を選んだのか。どうして日記に僕のことを書いたのか。
 だけど、聖書なんてただの嘘っぱちだ。死人は蘇えらないし、ただの水がワインに変わることもない。海が割れることも、神様が進むべき道を教えてくれることも、ない。
 時は戻らない。川の流れが不可逆であるように、物事は前から後にしか進まない。そういう形でしか、僕らは世界を観測できない。
 だけど、過去に何が起こったかを知ることはできるはずだ。たとえば、見沼の貝塚から、かつてそこに海があったことがわかるように。
 数学の問題集を解き進めながら、考える。
 僕が本当に向き合うべき問題を。
 その謎をつまびらかにする方法を。