「長い話になったね」ウルフカットはカップを揺らしながら言った。「箒木さんがどういう人か、なんとなくでもわかった?」
「うん。まあ」僕は言った。「僕が会ったときとはまた印象が違う気もするけれど」
あの日の真理亜は、ひどく感情的だった。命の恩人に礼を述べることすらせず、怒りをぶつけてきた。目の前のカップルが語った、無口無表情な真理亜像とはまるで重ならない。実は箒木姉妹は三つ子で、僕が出会ったのは真理亜ではない別の姉妹――たとえばムハンマドの母親に倣って亜美奈とか――という方がすんなり飲み込めるだろう。
「そうだね」ハーフアップが同意した。「うちも箒木さんがそんな感情的になる姿なんて想像できない」
「本当に箒木さんだった?」ウルフカットが問う。
「そう言われると少し自信を失うけれど――でも、妹とそっくりだったよ。それに胸に君たちと同じ校章があった」
それから、僕たちはしばらく無言で黙々と残ったケーキやコーヒーを消化した。折笠さんはというと、少し辟易した様子でパフェの底に残ったクリームをさらっている。甘いものをこれだけ一気に食べたらこんな表情にもなるだろう。僕の柴三郎に謝ってほしい。
「本当にありがとう」僕は礼を述べた。「話を聞かせてくれて。それにいい店を教えてもらったよ」
「それはどうも」
各々、退店と会計の準備をしはじめる。僕は折笠さんの分も持たなければならない。これであとからキャラメルフラペチーノも奢れと言われなければいいが――そんなことを考えていた、そのときだった。
窓の外を、見覚えのある影が横切った。
「ごめん。折笠さん。先に払っといて」
「え?」折笠さんがおそらく、数十分ぶりに口を開いた。
「後で返すから!」
僕は店のドアから飛び出した。カランコロンと鳴るドアベルの音を聞きながら、さっき横切っていた影の進行方向を見やる。黒のミディアムボブ。ついさっきまで間近で見ていた、女子校の制服。僕は駆け出した。思わず、影の名を呼ぶ。
「真理亜!」
影が振り向いた。そこには、あの日川で出会った少女の顔があった。驚きに目を丸めている。商店街の真ん中で、僕らはあの日以来、ふたたび向かい合う形になる。
「ごめん。呼び捨てにして」僕は詫びた。「でも、話がしたくて」
真理亜は言葉を失った様子だった。薄い唇をわずかに開いたまま、いかな音も発さない。
「改めて言っておく。僕は君の妹のことはほとんど知らない。話したこともない。ただの同級生の一人でしかなかった。僕と恋人だっていうのは、きっと何かの勘違いだよ」
背後でドアベルが鳴る。カップルと折笠さんが退店したのだろう。しかし、僕は振り向かず、そのまま真理亜を見つめ続けた。目を離した隙にいなくなってしまわないように。
「勘違いなんかじゃない」真理亜はようやく口を開いた。「わたしは――妹の日記を見たんだから。日記には、あなたの名前があった。あなたとその……恋人らしいことをして、親しげに話したって。それも一回じゃない。何度も」
ようやく誤解の原因らしきものに行き当たった。麻耶の日記。いったいどんなことが書いてあったのだろう。どうして、話したこともない僕の名前が書かれていたのだろう。
「本当に? そんな日記があるの?」
「ええ、かつてはあった。あの子のスマホの中に。だけど――あの子が川に飛び込んだとき、川に沈んで……」
「じゃあ、もう読めないんだね」
「だからって、日記がなかったことにはならない!」真理亜は叫んだ。「わたしがあの子の日記を読んだのは本当のこと。勝手に読んだ。我ながら酷いことをしたと、そう思う。だけど、それとこれとは別のこと。あなたの名前が書かれていたのは本当。あなたがあの子の光だったのは……あの子のスサノオだったのは……」
「スサノオ?」
不意に出てきたファンタジックな単語に鼻白む。
「そう書いてあったのよ。『葉月君はわたしのスサノオだ』って」真理亜は声のトーンを落として言った。「わたしだってどういう意味かはわからない。だけど、スサノオっていうのは神様なんでしょう? 英雄なんでしょう? あの子にとって、あなたはきっとそういう存在だった」
スサノオ――須佐之男命は日本神話に登場する神の名だ。暴れん坊のお坊ちゃんだったらしく、それを憂いた姉は天岩戸に閉じこもり、彼自身は高天原を追放された。そして行き着いた村で出会ったのが後の妻となるクシナダヒメだ。彼女はヤマタノオロチへの生贄として捧げられるはずだったが、スサノオによってヤマタノオロチが討伐されたことでその役目から解放された。二人は晴れて夫婦となり、めでたしめでたし、というわけだ。
僕がスサノオだというなら、麻耶はクシナダヒメだろうか。その場合、僕が倒すべきヤマタノオロチとは何だろう。あるいはすでに倒してしまったのだろうか。麻耶の人生を縛る頸木のような何かを。
「あいにくと、まったく心覚えがない」僕は首を振った。「言いにくいけど、その日記は嘘だよ。あるいは日記ではなく創作だったのかもしれない。それでたまたま同級生の僕の名前を借りた」
「そんなわけない。だってあんなに具体的に――」しかし、言葉とは裏腹に、真理亜はだんだんと自信を失っているように見えた。「もういい。あなたとはこれ以上話しても無駄。わたしが一方的に許さない。それだけ」
「許さないって何を? 仮に僕が妹さんの恋人だったとして、それをすっとぼけてたとして、何を許さないっていうの?」
「嘘を吐いたこと」真理亜は言った。「妹は自ら死を選んだ。それは、妹自身の問題かもしれない。恋人のあなたには何の責任もないのかもしれない。だけど、妹とのことをなかったことにして逃げようとするなんて、許せない。そんなの――道理に合わない」
「なるほど」
「あなたに同意されたくない」
「じゃあいったい、どうすれば満足するのかな」
「知らない」真理亜は投げやりに言った。「言ったでしょ。わたしが勝手に、一方的に許さない。それだけ。だからもうかかわろうとしないで。これ以上、土足で踏み込んでこないで」
真理亜はそれだけ言い切ると、背を向けて走り出した。追うべきだろうか。そう一瞬だけ逡巡する。だけど、これ以上、彼女と何を話せばいいのかわからなかった。話す必要があるのかどうかも。
僕は踵を返した。少し後ろで、折笠さんとカップルが気まずそうに見守っていたらしいことに気づく。
「大変だったね」ハーフアップが気を遣うように言った。「あなたが出会ったのは、箒木さんで間違いないみたい」
「そうらしいね」
「どうするの?」ウルフカットが問う。
「さあ」僕は言った。「まったく見当がつかない」
「うん。まあ」僕は言った。「僕が会ったときとはまた印象が違う気もするけれど」
あの日の真理亜は、ひどく感情的だった。命の恩人に礼を述べることすらせず、怒りをぶつけてきた。目の前のカップルが語った、無口無表情な真理亜像とはまるで重ならない。実は箒木姉妹は三つ子で、僕が出会ったのは真理亜ではない別の姉妹――たとえばムハンマドの母親に倣って亜美奈とか――という方がすんなり飲み込めるだろう。
「そうだね」ハーフアップが同意した。「うちも箒木さんがそんな感情的になる姿なんて想像できない」
「本当に箒木さんだった?」ウルフカットが問う。
「そう言われると少し自信を失うけれど――でも、妹とそっくりだったよ。それに胸に君たちと同じ校章があった」
それから、僕たちはしばらく無言で黙々と残ったケーキやコーヒーを消化した。折笠さんはというと、少し辟易した様子でパフェの底に残ったクリームをさらっている。甘いものをこれだけ一気に食べたらこんな表情にもなるだろう。僕の柴三郎に謝ってほしい。
「本当にありがとう」僕は礼を述べた。「話を聞かせてくれて。それにいい店を教えてもらったよ」
「それはどうも」
各々、退店と会計の準備をしはじめる。僕は折笠さんの分も持たなければならない。これであとからキャラメルフラペチーノも奢れと言われなければいいが――そんなことを考えていた、そのときだった。
窓の外を、見覚えのある影が横切った。
「ごめん。折笠さん。先に払っといて」
「え?」折笠さんがおそらく、数十分ぶりに口を開いた。
「後で返すから!」
僕は店のドアから飛び出した。カランコロンと鳴るドアベルの音を聞きながら、さっき横切っていた影の進行方向を見やる。黒のミディアムボブ。ついさっきまで間近で見ていた、女子校の制服。僕は駆け出した。思わず、影の名を呼ぶ。
「真理亜!」
影が振り向いた。そこには、あの日川で出会った少女の顔があった。驚きに目を丸めている。商店街の真ん中で、僕らはあの日以来、ふたたび向かい合う形になる。
「ごめん。呼び捨てにして」僕は詫びた。「でも、話がしたくて」
真理亜は言葉を失った様子だった。薄い唇をわずかに開いたまま、いかな音も発さない。
「改めて言っておく。僕は君の妹のことはほとんど知らない。話したこともない。ただの同級生の一人でしかなかった。僕と恋人だっていうのは、きっと何かの勘違いだよ」
背後でドアベルが鳴る。カップルと折笠さんが退店したのだろう。しかし、僕は振り向かず、そのまま真理亜を見つめ続けた。目を離した隙にいなくなってしまわないように。
「勘違いなんかじゃない」真理亜はようやく口を開いた。「わたしは――妹の日記を見たんだから。日記には、あなたの名前があった。あなたとその……恋人らしいことをして、親しげに話したって。それも一回じゃない。何度も」
ようやく誤解の原因らしきものに行き当たった。麻耶の日記。いったいどんなことが書いてあったのだろう。どうして、話したこともない僕の名前が書かれていたのだろう。
「本当に? そんな日記があるの?」
「ええ、かつてはあった。あの子のスマホの中に。だけど――あの子が川に飛び込んだとき、川に沈んで……」
「じゃあ、もう読めないんだね」
「だからって、日記がなかったことにはならない!」真理亜は叫んだ。「わたしがあの子の日記を読んだのは本当のこと。勝手に読んだ。我ながら酷いことをしたと、そう思う。だけど、それとこれとは別のこと。あなたの名前が書かれていたのは本当。あなたがあの子の光だったのは……あの子のスサノオだったのは……」
「スサノオ?」
不意に出てきたファンタジックな単語に鼻白む。
「そう書いてあったのよ。『葉月君はわたしのスサノオだ』って」真理亜は声のトーンを落として言った。「わたしだってどういう意味かはわからない。だけど、スサノオっていうのは神様なんでしょう? 英雄なんでしょう? あの子にとって、あなたはきっとそういう存在だった」
スサノオ――須佐之男命は日本神話に登場する神の名だ。暴れん坊のお坊ちゃんだったらしく、それを憂いた姉は天岩戸に閉じこもり、彼自身は高天原を追放された。そして行き着いた村で出会ったのが後の妻となるクシナダヒメだ。彼女はヤマタノオロチへの生贄として捧げられるはずだったが、スサノオによってヤマタノオロチが討伐されたことでその役目から解放された。二人は晴れて夫婦となり、めでたしめでたし、というわけだ。
僕がスサノオだというなら、麻耶はクシナダヒメだろうか。その場合、僕が倒すべきヤマタノオロチとは何だろう。あるいはすでに倒してしまったのだろうか。麻耶の人生を縛る頸木のような何かを。
「あいにくと、まったく心覚えがない」僕は首を振った。「言いにくいけど、その日記は嘘だよ。あるいは日記ではなく創作だったのかもしれない。それでたまたま同級生の僕の名前を借りた」
「そんなわけない。だってあんなに具体的に――」しかし、言葉とは裏腹に、真理亜はだんだんと自信を失っているように見えた。「もういい。あなたとはこれ以上話しても無駄。わたしが一方的に許さない。それだけ」
「許さないって何を? 仮に僕が妹さんの恋人だったとして、それをすっとぼけてたとして、何を許さないっていうの?」
「嘘を吐いたこと」真理亜は言った。「妹は自ら死を選んだ。それは、妹自身の問題かもしれない。恋人のあなたには何の責任もないのかもしれない。だけど、妹とのことをなかったことにして逃げようとするなんて、許せない。そんなの――道理に合わない」
「なるほど」
「あなたに同意されたくない」
「じゃあいったい、どうすれば満足するのかな」
「知らない」真理亜は投げやりに言った。「言ったでしょ。わたしが勝手に、一方的に許さない。それだけ。だからもうかかわろうとしないで。これ以上、土足で踏み込んでこないで」
真理亜はそれだけ言い切ると、背を向けて走り出した。追うべきだろうか。そう一瞬だけ逡巡する。だけど、これ以上、彼女と何を話せばいいのかわからなかった。話す必要があるのかどうかも。
僕は踵を返した。少し後ろで、折笠さんとカップルが気まずそうに見守っていたらしいことに気づく。
「大変だったね」ハーフアップが気を遣うように言った。「あなたが出会ったのは、箒木さんで間違いないみたい」
「そうらしいね」
「どうするの?」ウルフカットが問う。
「さあ」僕は言った。「まったく見当がつかない」

