香の揺れる寝所に、静寂を破る音もなく一人の女が現れた。
緋色の外套はひらりと宙をはらい、白い肌と黒曜石の瞳を一瞬の月明かりが照らす。

その立ち姿に、雪白は胸を射抜かれた。
「あ……」

言葉にならないが、その瞳に映る姿は、王妃ではなく――彼の妃だった女、燈(あかり)だった。

雪白の心臓が、一瞬、止まった。

「雪白……ひさしぶりね」

その声は、採掘された氷のように冷たく透き通っていた。
心臓が、また跳ねた。




障子が開き、夜叉丸が入ってくる。
彼の黄金の眼が、燈と雪白とを往き来する。

「……燈、お前はなぜここに?」

夜叉丸の声音は抑えられていたが、怒りを必死に抑えているのが伝わった。

かつて燈は、夜叉丸の許へ冥界の妃となり、彼の心を支える存在だった。
しかしある夜、彼女は“冥を正す者”に変わり、神界の使徒として夜叉丸の元から立ち去った――。

今その姿を見るだけで、夜叉丸の胸には痛みが走る。

雪白は崩れ落ちそうな心を抱えながら、夫を見守った。