そしてまた、後輩だ。この数十分だけで一体何度目か、今度はメイド服のコスプレをした女子二人が揃って彼方兄さんに駆け寄ってきた。
「おひさしぶりでーす!」
「おう、久しぶり」
「先輩の友達ですか? え? え? めっちゃイケメンじゃないですか!? 顔綺麗すぎません!? イケメンの隣にはイケメンしか立てないんですか!? 類友ってそういう意味でしたっけ!?」
彼方兄さんがいれば大体自分は二の次にされるのだけれど、女の子の一人はテンションに任せた誉め言葉をまくしたてた。
「な、コイツ顔綺麗よな。でも俺の弟の幼馴染なんや、友達っていうか弟みたいなもん」
その後輩のイントネーションのせいか、彼方兄さんの口調が少し変わる。
「な!」
「だから弟になった覚えはないんだよね」
「声かっこよ! えーいいなー握手してください」
理解できないテンションだったので、差し出された手を握りながらも苦笑いしてしまった。自分が一回生だということを踏まえると、年上か、少なくとも同い年のはずなのだが。それはともかくとして、その彼方兄さんの後輩は俺との握手後は彼方兄さんに向き直った。
「先輩、もう焼き鳥買いました?」
「買った買った。ちゃんと貢献してきたから許して」
「えー、私から買ってくださいよー。私と先輩の仲じゃないですかー」
「そこはさえちゃんが俺に真っ先に会いに来てくれんと」
「そんなー」
「というわけで、俺以外のヤツに売ってきて。打ち上げで会おうな」
「ざーんねん。失礼しまーす」
一言も喋らない友達を連れ、その“さえちゃん”とやらは俺達に会釈をして立ち去った。彼方兄さんはその後ろ姿ににこにこしながら手を振っている。
「……絶対分かってないじゃん」
「え?」
「さっきの話。博愛主義は厳禁だよっていう」
「あぁ、それな。さすがの俺もこの年になれば理解した、今の彼女は本気や」
気が緩み始めたのか、後輩と話していたことの延長か、彼方兄さんの口調は中途半端なままだった。
「今までも全部本気だって言ってたじゃん」
「んー、そのつもりだったんだけど」
でも、すぐに昔からの喋り方に戻る。
「もしかしたら今までのって愛情だけで恋情じゃなかったのかもって思った」
「なんだそれ」
次から次へと彼女ができるのに、付き合った期間の最短記録は片手で数えられる日数、それでも「本当に好きだったんだけどなぁ」が口癖だった。実際、軽薄だけどいい加減な人ではないから、本当に好きではあるんだろうけど、どうも博愛の域を出てないんだろうな、とはたからみて思ってはいた。
「やー、なんかさ、好きなんだけどさ。別に他の女の子のことと同じ好きだなって」
何をいまさら言ってんだコイツ、と白い目を向けてしまった。他の女の子に向ける好きと同じ好きを彼女に向けてるっておかしいだろ、誰がどう考えたってそれ恋じゃないだろ、と。
「付き合ってないとキスとかしようとか思わないし、しないし、だから彼女のことだけ好きって整理してたんだけどさ」
「それただの理性じゃん」
「そうなんだよ」
アンタ自分が何歳か分かってんのか、とやっぱり冷たい目を向け続ける羽目になる。中学生のほうがまだマシなレベルまで恋愛の自覚症状がある。
「俺、独占欲とかないタイプだと思ってたんだよねー」
「まぁ、今までなさそうだったよね」
「今までの彼女の中で、今の彼女だけは、他の男に振り向かれるの嫌だなーって思った」
焼き鳥の串をビニール袋に入れ、今度は鯛焼きを取り出して頬張りながら、彼方兄さんは呟くように続けた。
「今まで思ったことなかったんだけどね。別に、他にいい男がいるのは仕方ないし、それで選ぶのは自由だって思ってた」
「全く恋じゃないよね、それ」
「総くんは独占欲強そうじゃん、俺はそういうタイプじゃないんだと思ってたの」
他の男の話をされても笑って頷けて、他の男と遊びに行っても気にならなくて、他の男のもとへ走っても引き留める気にはならない。そんなのは独占欲があるとかないとかじゃなくて、相手に興味がないだけだろうと、この人の恋愛を見ていて思っていた。
「俺ねー、生まれて初めて告白したんだ」
「は?」
「生まれてこのかた告白されたことしかなかったんだけど」
何を莫迦なことを言い出したんだと、やっぱり呆れた目を向けようとしたけれど、思いの外、彼方兄さんが真面目な顔をしていたので、やめた。
「今の彼女だけは、うかうかしてる間に他の男が告白したらどーしよって思った。誰か別のヤツの彼女になったら、俺と一緒にご飯食べてくれなくなるんだろうなとか、俺は誰かと同じじゃなくて次になるんだろうなとか。そんなことを思ったわけですよ」
「……彼方兄さん、初恋まだだったんだ」
「ううん、二回目」
今までの彼女の中でって言ったじゃん、と返そうとして、口を噤んだ。初恋の相手と付き合っていないのなら、今までの彼女に独占欲が芽生えなくて、今の彼女が初めてその感情の芽生えた彼女だとしても、矛盾はないから。
「まー、結局、俺ってずっと初恋引き摺ってたのかもね」
「……引き摺ってたから、新しい恋をしたくなくて、適当に付き合ってたって?」
「別に、そこまでは言わないけど。あの子のこと好きだったなぁって気持ちがずっと忘れられなかったんだよなぁ、多分。あの子のことが、本当に堪らなく好きだった。一生好きじゃんこんなのって思ってた」
最初で最後の恋だと思ってたんだ、と、幼馴染の兄は照れ臭そうに笑った。ロマンチストに見えるのに、そんなクサイ台詞を自分が言うことになるなんて思ってもみなかった、そんな笑い方だった。
「でも、それが普通なんだって思ってた。初恋だから特別なだけで、俺の恋は愛情を注ぐような付き合い方をすることなんだろうなって思ってた」
「じゃ、彼方兄さんは今の彼女には恋したの?」
「うん、愛情注ぐとか呑気なこと言ってられなかった。付き合ってくれるまでめちゃくちゃに無様に追いかけた。なりふり構わず」
「へぇ、彼方兄さんが」
いつでも女の子には追いかけられる側で、へらへら笑いながらそれを受け入れるだけだったこの人が。
「だからさ、俺の恋って今の彼女が二回目なんだろうなって」
「でも今の感じだと、初恋はまだ引き摺ってるんじゃないの?」
「いやぁ、そういうわけじゃないよ。こんなに初恋のこと想えるのは、もう初恋が想い出だからだよ」
想い出になるのは、過ぎ去ったものだけだ。その意味では、彼方兄さんはもう初恋は過去だという。
「でも、初恋の想い出にはずっと恋できるかなぁ」
「想い出に?」
どうやって、想い出に恋をするんだよ。鼻で笑ったのに、彼方兄さんは気を悪くする素振りなどなく、メインストリートのほうへ顔を向ける。
「総くんは一回生だから、まだ何も思わないだろうけどさ。例えばこのキャンパスなんて、俺にとっては青春の全てが詰まってるわけですよ。一回生の頃は学祭でパイロットのコスプレして女の子ナンパしたなーとか」
「ろくでもない青春じゃん」
「いやほんとに。英語の一限遅れそうになって走ったとか、期末試験の日なのに開始時刻に目が覚めたとか。酒飲んだ後に友達とここに来て夜中のキャンパスを無意味に歩いたとか、講義室で今の彼女に手酷くフラれたこととか。本当、アホみたいにくだらないことだらけのこのキャンパスが、来年卒業する俺にとってはすげー懐かしいのよ」
そうなること自体は、頭では理解できた。大学生活四年間を過ごした場所は、きっといい想い出の場所になる。
でも、それは高校と変わらないような気もした。高校だって楽しかった、くだらないことだらけの青春も送った。だったら、今更上書きされる青春なんてないような気がした。
「そういう想い出をなぞるとき、なんていうか、凄く嬉しいような、哀しいような気持ちになるんだよ。あの時ここであんなことがあったな、って思うと、あの時の感情も思い出すような気がするし、でも結局思い出す限度でしか感じられないような気もするし……」
想い出に恋はできるんだよ、と彼方兄さんは諭すように繰り返した。
「こんなに大好きな場所だと、嫌なことも嫌なこととしては思い出せないんだよ。さっき言った、嬉しいような哀しいような、なんとも切ない気持ちだけ」
「……盲目的に?」
「そ。だから、あの頃に戻りたいって、めちゃくちゃ思うんだよなぁ」
それは勉強から逃げたい気持ちもあるんじゃないの、と茶化すと、それはマジでそうだわ、と笑われた。
「何の話してたんだっけ。……あぁ、本当に初恋の子のことが大好きだったんだって話か」
「うん、想い出がどうとか」
「そうそう。あの子と一緒に過ごした日々が大好きだった。だから、あの頃を想い出すのは、なんていうか、堪らなく胸が締め付けられるね」
「……ふぅん」
「でも、そんだけ」
初恋がいかに自分の中で大きいものだったか雄弁に語ったくせに、彼方兄さんはその一言に尽きさせようとした。
「あの頃の想い出はすごく愛しいなとか、あの子って今頃どうしてるかなって思うけど、まぁ、そんだけ。例えばさ、ほら、あの時見た銀杏ってすごく綺麗だったなって思うし、すごく感動したんだよなって思うんだけど、結局、今感動するのは今見てる銀杏で、あの時の銀杏じゃないんだよ」
ザァ、と、少し強い風が吹いて、黄色い両翼の輪郭がぼやける。まだ散るには早い銀杏は、ゆらゆらと優しく体を揺らすだけだった。
「ま、初恋は特別だってのもあるんだろうけどね」
「……そうだね」
「そういえば総くんの初恋っていつ? 総くん昔から顔綺麗だったし、足速かったし、モテただろ。苦い思い出なんてないだろうなぁ」
「中学のときだね。好きだなぁって思ってたら、アイツに告白してたよ」
「……なんかごめん」
漸く戻ってきた遼を指差しながら答えると、彼方兄さんは一瞬でばつの悪そうな顔になった。



