宮廷兵がやってきたのは、それからすぐのことだった。クラリッサが治療した相手に宮廷官吏の子がおり、その話を聞きつけた皇帝がクラリッサの捜索を命じていたらしい。クラリッサは無理矢理家から連れ去られ、エーヴァルト皇子の妃候補という名目で宮廷に閉じ込められた。

 クラリッサの両親はもちろんそれに対抗し、クラリッサを返すまで皇族含め宮廷官吏に調剤しないと主張した。しかし、皇族にとって“聖女”の力とは垂涎もの、両親の反抗により“聖女”の力を発揮しないのであればと、エーヴァルトは皇帝に代わってグラシリア家の薬草庫の焼却命令を下した。クラリッサはすぐさま“聖女”の力を使うことを決め、懇願したが、薬草庫は燃やされた。次は一族を処刑すると脅された。

 そうして、クラリッサはエーヴァルトに命じられるがままに次々と貴族を治療し始めた。皇族は、有力貴族から財産を巻き上げ、その蓄えられた力を削り、皇族の地位を盤石なものとしていった。

 そんなある日、ある貴族が、クラリッサが帝都から逃られる手引きをした。彼は、過去に治療をしてくれたお礼に、宮廷で窮屈に暮らすクラリッサを助けたいのだと言った──それがこの地の辺境伯だった。クラリッサは彼の手引きにより帝都を抜け出し、この地へ逃れた。

 そうして、グラシリア家は離散し、いまや家族はどこにいるのか、生きているのかも分からない。

「皇族が、代々“聖女”の力を必要としてきたことは、宮廷にいる間に嫌というほど耳にしました。でも当然ですよね、さきほどエーヴァルト殿下がおっしゃったように、“聖女”がいれば永遠の命が手に入るのです。常に治世の壁として立ちはだかってきた病を、|代償(・・)を|払(・・)うこ(・・)とな(・・)()克服できる。常に手元に置いておきたい存在でしょう」

 でも、とクラリッサは続けた。

「それでも私は、死んでしまうことが怖かったのです」

 利己主義者め、とエーヴァルトはクラリッサを罵った。

 “聖女”の力はなぜ与えられたと思う。他人を、皇族を治し続けるためだ。その昔、皇族は多大な犠牲を払い、女神の加護を受ける権利を手に入れた。だから皇族にはその血を絶やさず帝国を治め続け、また絶えず生まれる“聖女”は皇族に傅かねばならない。大体、“聖女”に選ばれたのなら、自らに帝国史に残る役割を与えられたことを誇りに思い、真っ先に陛下のもとへはせ参じるべきであった。それをしなかったばかりでなく、その責務を放棄し、死ぬのが怖いなどと言い訳をして力を渋るなど、売国奴に等しい……。

 そう言われたことを、昨日のように思い出す。ただ、幸か不幸か、“聖女”に選ばれる者に法則がないため、皇族はいつも“聖女”探しに苦労しており、クラリッサを手放さないために、手を変え品を変え言葉で脅してくるだけだった。寿命が削れては困ると、拷問されることもなかったし、体力が削れぬように、なんなら寿命が延びるようにと食事もずいぶんといいものを与えられた――まるで出荷前に太らされる家畜のように。

 それでも、いやむしろ、そうして消費される家畜として見られていたからこそ、クラリッサには、皇族のために命を削る決断ができなかった。

「臆病な愚か者でしょう」

 ただ、皇族以外の大臣やその家族を含めて、クラリッサが自らの命惜しさに治療を渋ったのも事実。

 “聖女”を嫌悪していないとしても、それだけで幻滅しただろう。クラリッサは自嘲したが、ユリウスはにこりとも笑わずにいることに気付き、笑みを引っ込めた。

「……そう思いませんか?」
「思わんな。死が怖くない者などいるものか」

 それは“聖女”を姉に持ったゆえか、戦線に身を投じる騎士ゆえか。

いずれにしろ、ユリウスはクラリッサの恐怖を馬鹿にはしなかった。

「死など怖くない、恐れるものか、そう口にする者はいるが、大にしてあれは、死の淵に立つ自らを鼓舞するためだ。何より、“聖女”のように、代償に自らの命を明確に削ることなど、そうありはしない。そんな力を手に喜んで尽くそうなど、偉丈夫でも思うまい。年端のいかない少女となれば、なおさらだ」

 この人が、帝国皇子であればよかったのに。クラリッサは笑ってしまった。たとえ慰めの言葉だとしても構わない。ユリウス様のような人が皇子であれば、きっとグラシリア家が離散することも、薬草庫が失われることもなかった。

 ……もしかしたらクラリッサも、ユリウスのためなら力を使ったかもしれない。クラリッサは、自分の掌を見つめる。いつかもう一度、この力を使うことがくるのだろうか。

 思い悩むクラリッサを前に、それに、とユリウスは付け加える。

「姉も、死を恐れて、気が触れてしまったのだしな」
「……でも、最後は勇気を出されたのですから」
「いや。もし姉が平時の状態であれば、俺を助けることはできなかっただろう」

 平時というと、“聖女”の力の代償を知る前だろう。ユリウスは過去を思い返すように、視線を虚空へ投げた。

「仲のいい姉弟だったと、俺は思っていた。俺の病も、流行病で後遺症が残る者も多かったとはいえ、命が助からないものではなかった。その病を、命を投げ出して治すというのは……もちろん、こうして五体満足で今の地位にあるのは姉が治してくれたお陰かもしれないと、感謝はしている。ただ、|姉上(・・)は、姉上を喪うことの寂しさを理解してくれない人だっただろうかと、たまに寂しくなる」

 たとえ片腕が動かなくなっても、共に生きてくれたほうがよかったのに。それを選べなくなるくらい、姉は追いつめられてしまっていたのかもしれない。ユリウスはそう続けた。

 ただ、クラリッサには、姉の気持ちが分かる気がした。聖女として力を求められ続け、求められるがままに、家族を養う金と引き換えに力を使ってきた。それなのに、自分の命が惜しくて逃げ出して、今度は弟が病に倒れた。

 もし弟の病が治らず死んでしまったら、自分が力を使わなかったせいでそうなってしまったのだと考えたとき、後悔せずにいられるだろうか。弟の命のために賭けに出たことを、周囲は咎めずにいるだろうか……。

「……長話をしてしまったな」

 クラリッサが相槌を打つ前に、ユリウスは背を壁から離した。

「……聖女は、その力を使わなければならない存在ではない。少なくとも俺はそう思っている」
「……それは」

 それは、姉に向けた言葉か、それとも、クラリッサに向けた言葉か?

 畳み掛ける前に「ところで」とユリウスがもう一度口を開いた。

「ローマンはきちんと薬草を受け取ったか?」
「え? え、ええ……約束したとおりに来てくださいました」
「そうか……」

 微妙な沈黙が落ちていた。そういえば、ローマンは昨日薬草を取りに来てくれたから、ユリウスは来るとしても三日後だと思っていた。

 それなのに今日、来てくれたのはどうしてだったのか。沈黙の中で、クラリッサの内側では期待が膨らむ。

「……しかし」

 不愛想な横顔には僅かに気まずさが滲んでいて、その期待がさらに高まった、が。

「君がグラシリア家の人間だったと知って、納得した。どうりで、君の薬は評判が良かったわけだ」

 ――薬! クラリッサは状況も忘れてがっくりと肩を落としそうになった。

 もちろん、その期待の正体は分かっている。しかしそれを口に出すことなどできるはずもない。

 クラリッサの気を知ってか知らずか、ユリウスは「まあ、多少飲んでも今までより楽だと考えた馬鹿どもが酒の量を増やして叱る羽目になったが」などと嘯く。

「辺境伯など、君さえよければこの村でなくもっと中心へ出てきてほしいなどと話していたが……君の事情を知ると、そんなことは言えないな」
「……ええ。ご遠慮します」
「もちろん、もとからそんな話にはならないと思うと答えておいた。だから心配はせずともいい、殿下のこともそうだ。辺境伯と殿下は微妙な関係であるしな……」
「……ありがとう、ございます」
「ではまた二日後」

 そして愛想のひとつ振りまくこともなく、それどころかいつもよりもさらに足早に、クラリッサが止める間もなく馬に乗って行ってしまった。

 ……引き留めればよかったのかしら。クラリッサはがっくりと肩を落としたものの、すぐに元気を取り戻す。

 しばらくは遠征があるとも聞いていないし、二日後に来ると言ってくれたし、またユリウスは三日置きに薬を受け取りに来てくれるようになる。すぐに会えるのだから、そうやきもきせずとも、数日の辛抱だ。

 皇子のことなどどうでもよくなるくらい、クラリッサの頭の中はユリウスでいっぱいだった。