バレンタインの日、クラスは心なしか浮足立っていた。そんな様子に気づかないふりをするために、いつも通りに平静を装って、本を読む。

「あの、松隆くんいますか?」

 でも、その声は、読書に遮断されることなく、はっきり聞こえた。冷やかすような男子の声と、ちょっとだけ困ったような顔をして呼ばれるがままに廊下に出る松隆。いつの間にかその様子を追っていて、知らない女の子から松隆がチョコレートを受け取る様子を、しっかり見た。

「相変わらずモテんなー、アイツ」
「毎年何個貰ってんだよ」
「年の数の二倍はあるって去年言ってた」
「有り得ねー! 漫画じゃねーんだからさぁ」

 いいな、松隆に、堂々とチョコレートを渡せて。紫色の小さな紙袋を引っ提げて戻ってきた松隆が「告白?」「だった」「廊下ですんのかよ!」「それは俺も思ったけど、まあ、バレンタインのチョコなんて告白と同義だしね」「で、どうした?」「いや断ったけど」「即答かよ」「だって知らない人だったよ」と遣り取りするのを、一言も漏らすまいとでもするように、目の前の活字はただの風景としか認識せずに聞き耳を立てていた。

「お前はさあ、いいよなあ、年中モテてるし。バレンタインに貰うチョコの数なんて気にしたことねーだろ」

 うちの学校はお菓子持参禁止なのに、そんな校則知りませんみたいな顔で松隆は大量にチョコを貢がれる、その噂は聞いたことがあった。ちなみに、うちの学年で一番モテる男は松隆と、もう一人、桐椰(きりや)という松隆の幼馴染だ。この二人がうちの中学史上一のモテ男で、学年問わずあまりに大量に貢がれてしまうことと、あまりにイケメンで女の先生が甘くなってしまうことから、二人へのチョコレートは二年間看過されてきた。世の不条理というやつだろう。

「でもさ、今年、学年主任変わったじゃん、武田に」
「あー、あの落ち武者な」

 武田先生は、今年から来た体育の先生だ。年は四十歳手前で独身だと聞いた気がする。頭部の側面を残して禿げていて、みんな陰でこっそり「落ち武者」と呼んでいる。

「武田、バレンタインはチョコ絶対禁止、没収するって息巻いてたよね」
「げ、じゃあ持ってきてる女子少ないじゃん」
「つかみんな担任みたいに緩くやれよ。今朝『イベントはこっそりね!』って言ったとき、マジ最高の担任って思った」
「このクラスでよかったって思ったもんなー」

 そして、武田先生は、自分が陰で落ち武者と呼ばれていることに気づいていた。なんなら、実はその命名は松隆と桐椰によるもので、その事実まで武田先生は知っていた。結果、武田先生は目の敵とばかりに松隆と桐椰のコンビにやたら厳しく当たるようになった。が、松隆と桐椰はどこ吹く風という感じで、武田先生に難癖をつけられたところ「怒髪天(どはつてん)()くってこのことだな」「髪だけにな」なんてわざとらしく(ささや)き合い、廊下中に響き渡るくらいの怒鳴り声で二時間近く説教されたことがある。

 そんなこともあって、武田先生は、前回の体育の授業で「バレンタインがあるけど、不要物は持ってきたら没収だからな。チョコレートは不要物って分かるよな?」とチョコレート没収宣言をしていた。何人かの女子は「武田は媚びればいけるから、武田に渡せば没収されないで済むって」と画策していたけれど、おそらく、松隆と桐椰に渡されるチョコレートは問答無用で没収廃棄されるだろう。

 きっと、今日の松隆は一日中武田に張り付かれて、チョコレート貰ってるのを見つけられた瞬間に没収されるんだろうな。

 ──その想像は、随分と呑気なものだったのだと、保健の授業の開始時、思い知った。