二時間目が終わった後、三時間目の数学が始まる前に、さえはノートを返してくれた。
「ひーめ、ノートありがと」
「ん」
「ね、前から思ってたけどさぁ、松隆くん、姫城とよく話すよね?」
私の机の隣に屈みこんで、机に腕を載せて、小首を傾げて笑って見せる。そんな仕草だけでも可愛いし、狙ってやってるとしてもさえなら許せてしまうレベルの可愛さだ。
「図書委員だからだろ、いつも話してるのも図書委員の話だしな」
「そーかな? だって前の学期、松隆くんから私に話しに来ることなんてほとんどなかったよ?」
前学期、松隆とさえが学級委員だった。見てて眩しくなるくらいの美男美女学級委員で、カップルと言われてもきっと誰も疑わなかった。こちらが惨めになるくらい、お似合いだった。
「あんま用事なかったんじゃないか」
「むしろあったけどなー。松隆くん、先に一人でやっちゃうから、二人で話し合う時間なかったんだよねー」
ぷっくりと頬を膨らませてむくれて見せる、そんなの、私がやったら放送事故だ。
「……本の話が好きなんじゃないの」
「でもねー、私、『ショコラスイート』が好きだよって話したのに、松隆くん、読んだことないなーの一言で終わらせたんだよねー」
さえの言う『ショコラスイート』は携帯小説原作で映画化したほど著名とはいえ、恋愛ものだ。松隆が好きだと挙げる本の中に恋愛ものはほとんどないし、松隆が英語以外で横書きの小説を読むイメージがなかった。そのせいだと思ったけれど、何も言わずにおいた。
英語もたまに読むんだけど、恥ずかしいから秘密ね──そう言われたことを思い出したから。私しか知らない松隆の秘密は、宝物だったから。
「あーあ、私も松隆くんの好きな小説読んでみようかなあ。何か知ってる?」
さっき、『コバルト・ブルー』が好きだって言ってたよ、『Everlasting Last Words』も読んでみたいんだって──そう教えることはできた。
「さあ。松隆に聞いてみればいんじゃね」
それなのに、言わなかった。さえが『コバルト・ブルー』を読んだら、今度は好きな小説だから、松隆はきっとその感想の話でさえと盛り上がるから。もし、松隆の言う通り、『コバルト・ブルー』が映画化されたら、以前その話で盛り上がった二人で、ごく自然に映画に行けるだろうから。さえが『Everlasting Last Words』を買って話せば、松隆とその本の貸し借りができるから。そうすれば、松隆とさえが、仲良くなるから。
あぁ、ド汚い、醜い。そう罵ることは、心の中でしかできなかった。松隆にとってはプラスでしかない事象が起こることを、私は拒んで、止めた。さえみたいに可愛い子と話が盛り上がれば、松隆だって嬉しいだろうに、私はそういう松隆を見たくなかった。私と、『コバルト・ブルー』の話をしてほしかった。私が買った『Everlasting Last Words』を見て、今度貸して、と言ってほしかった。恋愛をしてる自分が恥ずかしいと思うのは、恋愛をしてる自分が、酷く自分勝手だからでもあった。
「もー、ヒメもさぁ、折角松隆くんと同じ委員会なんだから、少しは愛想よくすればいいのに」
「そういうの向いてないんだよ、私は」
「えー。私なんか、だって、悩んでるんだよねー。来週、バレンタインじゃん」
ツキリと、胸の奥が針で刺されたような気がした。同時に、ドクンと心臓が慌てた。
「クラスで義理チョコ配ろうと思ってたんだけど……。……今年で最後だもんなぁ、松隆くんに会えるの……」
松隆は、巷で有名なお金持ち高校に進学することが決まった。元々親にそう言われていたとかで、受験勉強の苦も全く感じさせず、余裕のままするりと受験して、するりと合格。結果、九割九分九厘の女子は松隆と離れ離れになることになった。私とて例外ではない。
「あーあ。どうしようかなぁー」
ただ、そんなことはどうでもよくて。さえが松隆を好きだなんて、寝耳に水だった。
「さえって」
「ん?」
松隆のこと、好きなの?
中学生英語で簡単に言えてしまうほど、簡単な質問だ。それなのに喉に閊えて、出てこなかった。
だって、「好き」って聞いたら、もう、私は身動きがとれなくなるから。何も聞いていなければ“知らなかった”で言い逃れできるけど、さえが松隆を好きだと知りながら、協力しないどころか自分が優位に立ちたがるなんて、性悪の権化以外の何物でもないからだ。
「……いや、別に」
「ねー、ヒメ、一緒にバレンタインチョコ作らない? バレンタイン月曜日だから、日曜日に作ろ?」
「私が料理できるわけないだろ……性に合わないし」
お菓子作りと料理を一緒くたにしてしまうくらいには、私は不器用だった。男勝りに育って、専業主婦の母親に甘えて家の手伝いもろくにしないのに、私に何ができるわけもない。
「何より、別に、渡す相手もいないし」
そもそも、私なんかが、松隆にチョコレートを渡すなんて、末代までのお笑い種だ。
「えー。でもさー、折角のバレンタインなんだからさぁ、ケーキとか焼いて、ちょっとずつ配るのでもいいじゃん?」
ケーキを焼くなんて、字面からして私には似合わない。思わず笑い飛ばしたくなった。
「いや、私はやんない」
「ちぇーっ」
……一瞬、松隆にチョコレートを渡す自分が、脳裏によぎった。月曜日は委員会があるから、自然と松隆と二人にはなる。でもって、図書委員でお世話になったから、なんてそれっぽい理由をつけられる。徹頭徹尾義理にしか見えない義理チョコを、自然に渡せる。
そうだ、それがいいかもしれない、とさえの前では否定しておきながら、自分を説得した。
どうせもう、高校を卒業すれば松隆に会うことなんてないし、義理だって言って渡せば、傷つかなくて済むし。義理の理由もついていれば、冷やかされても言い訳ができるから。



