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 それは、初恋の話。

「そういえば、栄一って、何がきっかけで私のこと好きになったの」
「ん?」

 コーヒーを飲みながら、栄一は首を傾げた。

「言ったことなかったっけ」
「あったかも。でも覚えてない。だから教えて」
「んー、麗華が教えてくれたらいいよ、教えても」
「私が教えるって何が」
「麗華が俺を好きになったきっかけ」

 同じくコーヒーを飲んでいた私は、ぐっと詰まった。嫌な交換条件だったからだ。

「…………栄一が」
「ものすごく嫌そうに切り出さないでくれるかな」
「……私の読んでる本を、面白そうって、言ったこと……」
「……。……え? それだけ?」
「……ご不満?」
「……それだと、別の男が麗華に近寄って『その本、面白いですよね!』とか言ったら口説かれるってことになるよな」
「ならないけど」
「なるだろ?」
「……別に、栄一だったからだと思うけど」

 正確には、きっと、 “そんな本を読むなんて”と、私を嗤わなかったことだと思う。あの頃の私は、とにかく他人に指をさされることに敏感で、嗤われたくない一心で、無駄な虚勢を張っているところがあった。

「で、私は答えたんだから、栄一は」
「んー? んー、字が達筆だった」
「は?」

 多分、十年前と何も変わらない声音の「は?」だ。そして、十年前と何も変わらず、栄一は私の頓狂な声に動じない。

「ほら、昔って、本の裏に貸出カードついてたじゃん。名前書くやつ」
「ああ……」
「俺が読もうと思った本を、麗華が先に借りてたんだけど、めちゃくちゃ達筆で。なんか、姫城麗華って丸文字で書いてありそうな名前なのに、ヒメシロレイカって感じだったから」
「ちょっと何言ってんのか分からない」

 要は適当に崩れた鋭い字だったと言いたいんだろう。自分の筆跡からそう結論づけた。

「あとは、まあ、ありがちにね。自分と同じ本を読む人だから、趣味が合うのかなと思ってた。で、彼方(かなた)に姫城さんって知ってるか、って聞いたら、丁度麗華が通りかかって、すごく姿勢のいい子だなって思った」
「姿勢は、まあね、昔から言われる」
「で、同じクラスになったときに、きちっと背筋伸ばして、静かに座ってるのが、綺麗だなって思った」
「友達少なかったからね」
「で、みんなが真面目にやらない問題を、当てられて、なんでもないような顔でさらっと答えるのが綺麗だったから」
「クソ真面目だったからね」
「俺はそれで好きになった」
「……ふぅん」
「ご不満でも?」
「いや、何も」
「ちょっと嬉しいんだろ」
「……うるさいな」

 図星だった。普通にやることがクソ真面目でつまらないのだと、あの頃は言われたことがあって、それを気にしていたから。

「麗華はさ、きっと、あの頃見た目に気遣ってあれこれやってたらめちゃくちゃモテてただろうから。髪もろくにセットしないで言葉遣い悪くて愛想も悪いみたいな麗華でいてくれてよかった」
「なにそれ、貶してんの」
「喜んでるの」
「……ふぅん」
「だから、俺は麗華を捕まえることができて、ざまーみろって気持ちだった」
「なにそれ、何に対する」
「お前ら姫城さんの可愛さ気付いてないだろ、気付く前に俺が捕まえてやったぜ、ざまーみろみたいな」

 ……そこまで言われても、もう昔みたいに顔から火が出るほど照れることなんてない。

 代わりに、嬉しくないなんてことも思わない。ただ、少々むずがゆい気持ちに陥りながら、でもこういう人だから好きなんだろうな、なんて思うだけだ。

 そう思う自分を、恥ずかしいと思うことは、もうなくなった。

「栄一の中の私、過大評価されすぎでしょ」
「彼女が一番可愛いのは当たり前だろ」
「……そういえば、毎年恒例ですが」

 でも、まだ、すべて受け入れて「知ってるよ」とまで言うことはできず。代わりに、わざとらしいほど不自然に話題を変えて、ソファの脇に置いていた紙袋から箱を取り出し、差し出した。

「ハッピーバレンタイン。十年記念日です」

 もう、惨めな自分はいなかった。