「……俺より小さいよね?」
「は?」

 それが、何の話なのか分からないくらい唐突なセリフを繰り出されたせいで、また変な声が出た。そんな私に構わず、松隆は顎に手を当てて、まじまじと私を見る。

「いや、さっきから思ってたんだけど、多分、姫城さんのほうが俺より視線下なんだよね。この間は一六五センチって言ったけど、あれ盛った?」
「盛るって……別に持ってもないし四捨五入もしてないぞ」
「んー? じゃあ俺また伸びた?」

 一歩、松隆が近づいた。ぎょっとして後ずさろうにも、背後は下駄箱。

「いや知らないけどそんなこと」
「んー、だってさ……」

 更に一歩、松隆が近寄る。ドックン、と今までで一番大きな音を立てた心臓が、そのままバクバクと大音量で鼓動を続けた。今、松隆は手を伸ばすよりも近い位置にいる。ともすればこの心臓の音も聞こえてるんじゃないかと、思った。

 松隆の手が伸びる。何だ。何。何をされるんだ。ドッ、ドッ、ドッ、と心臓は更にうるさくなって。

「ほら、ね?」

 ぽん、と松隆の手が、頭上に乗せられた。

 下手に触れられるより、ドキリとした。どうやら松隆は私の身長が背後の下駄箱のどのあたりなのか確認しているらしい。現に、すぐに自分も下駄箱の前に──私の隣に移動して、自分の頭上から手を伸ばして、下駄箱との比較で私との身長差を測ろうとしている。

 そんなことは分かっても、頭に乗せられた手の感触は消えなかった。体温を感じたわけではなかったけれど、ちょっとだけ控えめに、それでもその手のひらの大きさは分かるくらいにはしっかりと載せられた手の感触が、消えなかった。

「俺のほうがちょっと高くない?」

 そんな、ほぼ目分量みたいな測り方で数センチの差なんて分かるはずないのに。

 勝ち誇ったように、少年のように笑う表情が、あまりにも可愛くて、憎まれ口しか叩けない。

「……馬鹿じゃないのか、松隆」

 好きが、溢れてしまう気がした。そんな無邪気な顔を見たことなんてないのに、きっと幼馴染くらいにしか見せない特別な表情だろうに、そう思うからこそ、秘密にしていた特別な感情が溢れてしまいそうだった。

 松隆の特別にはきっとなれないけど、絶対になることはできないけれど、特別に仲が良い友達に見せてくれる表情をずっと見ていたいと思った。

 本当に、馬鹿みたいに、私は松隆のことを好きになってたんだ。

「いやいや、大事だよ、男にとっての身長はね」
「でも、一年生のときチビだったんだろ? でもってモテてたって噂は聞いてたし、あんまり関係ないんじゃないか」
「それはまだみんなポテンシャルを信じてるから。中学卒業するまではいいけど、多分高校卒業する頃にはあと十五センチはないと」

 松隆の目算が間違っているとしたら、私と松隆は同じ身長のまま。あと十五センチ松隆が伸びれば、私と理想のカップルの身長差。

 ──なんて、馬鹿馬鹿しい、発想。

「やけに具体的だな。というか、男子の平均身長って一八〇センチもないだろ、十五センチも伸びる必要ないんじゃないか」
「高いにこしたことはないでしょ」
「さあ、そこは好みなんじゃないのか」

 触れられそうなくらい近づかれて、実際──身長を測るためとはいえ──触れられて、気付いたことは、私は自分でも気付かないくらい松隆のことを好きになっていて、松隆はきっと私のことを存外いい友達に思ってくれていて。

「好みねぇ。伸びた後に高過ぎて嫌だって言われても困るし、それはなんともしがたいな」

『……姫城さんから貰ったら、まあ、ちょっと困るかな』

 そして、私が、今の距離感を壊してまで松隆に近付くことはできない。

「そういえば姫城さん、チョコは大丈夫だった?」

 諦めても、どうやらまだ少しは心がざわつくらしい。“チョコ”としか松隆は言っていないのに、すぐに恋愛イベントを想起し、武田先生に没収されたかどうかという質問なのだと気づいてしまう。まあ、まだイベント当日だからすぐに分かってしまったということにしておこう。

「ああ、問題なかった。……松隆のお陰でとられずに済んだ、ありがとな」

 結局、今日さえと二人で話す時間がなかったから、まだお礼を言えてない。明日か明後日か、とにかく早いうちにさえにありがとうと伝えとこう。いや、なんなら、このチョコレートはさえにあげよう。本当はさえに渡す友チョコのつもりで用意してたんだけど、ああいうことがあった手前、当日は渡せなかったんだと、そう言おう。

「そう、それはよかった」
「松隆の前に没収された人も、全員取り返してた気がする。やっぱ武田先生は松隆から没収したかっただけなんだろうな」
「そんなんだから落ち武者なんだよな。山野谷さんとか、どう考えてもチョコレート持ってきてるって分かったはずなのに、カバンの中に入ってなかったらロッカーも調べないもんな。急に荷物検査始めるわりには筋の通らない話だよ」
「さえは武田先生のお気に入りだからな」
「同情するよ。ま、お陰で山野谷さんのケーキにみんな(あやか)れたんだけどね」

 いいな、さえは。さえの本心は分からないままだけれど、そうやって義理の体でみんなに配っても感謝しかされない。自意識過剰だの、女子力アピールうざいだの、似合わないだの、そんなことは言われない。

「姫城さんはしないんだね、そういうの」
「ああ、クラスの男子に配るみたいな。ま、柄じゃないしな」

 淀みなく答えながらも、心はずっと痛んでいる。こんな風に、自分が可愛いか可愛くないかなんてことを気にし始めたのは、松隆を好きになってからだ。つまり、心が痛む間は、私は松隆を好きなんだろう。

 ああ、こんな、いかにもな恋をしてる自分が、恥ずかしい。

「私がバレンタインにチョコ渡すとか、有り得ないだろ」

 そんな恥ずかしさを紛らわすように、自虐を上塗りした。“男勝り”という仮面は、私が女子であろうとすることを許さない。

 でも、高校になったら、もう少し大人しくしようかな。幸いにも進学先に知り合いは少ない。“男勝り”なんてレッテルを貼られなければ、その仮面を被る必要もない。“姫城麗華”なんて名前に釣り合うレベルとまではいわなくとも、女の子らしくしてもおかしくないくらいには、もう少し、性格とか、言葉遣いとか、直したいな。

「そっか」
「松隆は結局何個貰ったんだ?」
「あー、数えてない。というか、武田が職員室に置いてるの忘れてた」

 松隆のほうからチョコレートの話題を振ってきたくせに、今の今まで完全に失念していたらしい。しまった、と松隆は立ち止まった。あらゆる女子から貢がれたチョコレートだというのに、存外松隆は薄情だ。なんだか笑えてきて、自然に笑みが零れてしまった。

 ああ、いい距離感だ。私は、ずっと、松隆とのこのくらいの距離が楽しかった。図書委員の口実をよく使いはしたけれど、実は図書委員以外のことでもよく話をした。好きな本だけじゃなくて、松隆の幼馴染の面白い話とか、武田先生の悪口とか、昨日見たテレビとか、色々。その距離感にいる松隆を、好きになった。

 チョコレートの入ったカバンの取っ手を握りしめる。もし、松隆にチョコレートを渡して、はっきりフラれてしまったら、もうこの距離感は楽しめない。この距離感を失ったら、もう松隆を好きではいられない。一か八かの賭けに出る前に、賭けられないようにしていてよかった。

 お陰で、私はずっと、好きなだけ松隆を好きでいて、今のまま友達でいられる。

 なんなら、放課後、ほんの少しでも松隆と一緒に帰るなんてことができただけで十分だ。松隆と放課後一緒に帰れるだけで、今日の出来事がすっかりどうでもよくなってしまう、そんな単純な私には、バレンタインにチョコレートを渡す恋愛なんてまだ早い。所詮男勝りな自分には、この程度の恋愛が限界だった。チョコレートを渡すなんて、まだハードルの高い話だったんだ。

「早く取りに戻れよ。武田先生、委員会終わったら部活だろ」
「確かに。いないと返してもらえないよね」
「だと思うぞ、あの武田先生だし」

 いつか、この恋を振り返れるくらいの余裕を持てるようになって、その時に好きな人に、今度はチョコレートを渡せればいい。

「じゃ、また明日」

 今は、また明日も会えるくらいの恋愛で、十分だ。

「いやまあ、そういうの、正直どうでもよくて」

 そうして、私の中でエンドロールが流れ始める。中学生最後のバレンタインと、初恋の終わりを慰めるように。

「俺、姫城さんのこと好きだよ」

 ……慰める、よう、に……。