結局、松隆と武田先生が戻ってきたのは授業が終わる時だった。松隆はチョコレートの詰まった紙袋は持たずに帰ってきた。携帯電話は知らない。武田先生は他の生徒から没収した物のことなんて忘れて、教卓前で、簡単に不要物を持ってくるなと再び叱って、終わった。

「ついてなかったなー、ケータイ見つかるとか」

 昼休み、絡まれた松隆は「ほんとになー」と疲れた顔をして笑っていた。

「でも、ギリギリなんとかなってよかった。やっぱり持つべきは贔屓してくれる先生だな」
「なにが?」
「生徒指導室、丁度江藤先生が使ってたからさ。携帯電話は防犯の観点から許すべきとか、一回目は見逃してあげていいとか、色々言ってくれて。江藤先生、めちゃくちゃ俺贔屓だから」
「うわ、お前ずるいなー」
「落ち武者も自分より上の先生に逆らえないからさー」
「チョコはどーしたよ」
「いっそのこと冷蔵庫で預かっといてくださいって言った」
「おい」

 ゲラゲラ笑う声が背後に聞こえて、ほっとする。誰も私のチョコレートのことなんて口にしない。よかった、松隆のハプニングのお陰で、もうみんな忘れてくれたんだ。

 松隆の携帯電話は無事、私の醜態も話題にされることなく無事。思わぬ結果に心底安堵して席を立ち、廊下に出て。

「つかさぁ、姫城、バレンタイン誰かにあげんのかな?」

 扉を閉めるか閉めないかの、その狭間(はざま)、その発言を耳にしてしまった。

 さっきまで見ていた光景が一瞬で脳裏によみがえる。松隆の周りにいた男子の空気が、一瞬で私を標的とした嘲笑を始めるのを察する。廊下にいるから見えているはずもないのに、その一言を皮切りに、好奇の目が一斉に向けられた気さえした。

「だって、あんなの持ってんの、おかしくね? 明らかに人に渡す用のだったじゃん」
「あー、いかにも店で買いましたみたいな、あれ」
「手作りよりマシじゃね? 手作りだと余計に怖いだろ」
「そーだっけ、見てなかったや、俺」

 松隆が、見ていなかったというのが、せめてもの救いだった。松隆に渡す予定のものではあったけれど、そんなの武田先生に見られるまでだ。もう松隆に渡すつもりはない。渡して恥をかくかどうかなんて話だったのに、松隆に渡すこともできなくなった今、見られるだけ見られて恥ずかしい思いをするなんて、ただの損だった。

「でもさー、マジで誰にあげんだろね、あれ」
「姫城だろ? 松隆じゃね?」

 ──ただの損どころじゃない。ドッと心臓がうるさくなり、指先まで震え始めた気がした。

「俺?」

 嫌だ。松隆を好きだなんてバレたくない。私が男子を好きなんて恥ずかしい。しかも、よりによって毎年何十個チョコを貰うか分からないなんてレベルでモテる男子を好きだなんて、そんなの、噂になるだけで恥ずかしくて生きていけない。

「だってよく話してんじゃん」
「あぁ、図書委員同じだから」
「お前が後から手挙げたからあれだけどさぁ、お前の後だったら確実にそうだよな」
「わかんねーよ、松隆が図書委員やるって知ってて先に手挙げたのかも」

 大体、松隆にどう思われるか分からない。ただ本の趣味が合うだけだったのに、女子として見たことなんてなかったのに、よく話してたから勘違いされたのか、図書委員の仕事もそんな下心でやってたのか──そんな風に思われるくらいなら、松隆と話せないほうがマシだ。

「貰ったらどうすんの?」
「貰うか分からないでしょ、そもそも」
「だーかーら、貰ったらどうすんだって話! だって相手、姫城だぜ?」

 本当は、今すぐこの場を立ちたい。見られたものは取り返しがつかない、噂なんて止められない、この話題は松隆の答えを聞くまできっと終わらない、それならいっそのこと聞きたくなかった。

 それができなかったのは、ただ単純な怖いものみたさのような気持ちがあったから。

 ……それから、色好い返事を──少なくとも、松隆の返事に、どこか何かを期待しているところがあったから。

「そうだなぁ……姫城さんから貰ったら、まあ、ちょっと困るかな」

 ──女子(わたし)は、どこか、夢を見ている。

 なんやかんや言って、自分はちょっと可愛いんじゃないかとか、こうすれば可愛く見えるんじゃないかとか、自分と楽しく話してくれる男子は自分のことを好いてくれるんじゃないかとか。

 そういう、一般的な女子に当てはまりそうなことが、自分にも当てはまるのが、恥ずかしい。

 松隆に期待をしていた自分が、恥ずかしい。

「だよなぁー」
「これで松隆にあげたらウケるけどな」

 その嘲笑を最後に、教室の前を立ち去った。

 自分が惨めだった。こんな性格なのに、恋愛なんて似合わないのに、男子を好きになったことも、それをクラスの男子に気づかれそうになったことも、あわよくば松隆が自分を好いてくれてるんじゃないかと、そんな自意識過剰な恋愛脳に溺れていた自分が恥ずかしかった。

 あげない。何もしない。バレンタインなんて、私には関係ないイベントだ。これは私が自分用に買ったんだ。それがたまたまカバンに入ってただけなんだ。──そんな苦しい言い訳でもいい、とにかく、松隆に渡すものなんだと思われさえしなければいい。これ以上、恥の上塗りをしたくない。

 駆け込むように逃げ込んだトイレには誰もいなかった。お陰で、わざわざ個室に閉じこもる必要もなく、ただぼんやりと入り口近くで立ち尽くしてしまった。

 ふと顔を上げて、鏡を見た。毎朝見る顔は、何度見たって、ある日突然可愛く変身したりしない。

「……ヒッドイ顔だな」

 恋愛をする資格のない顔に、うんざりしていた。