「そういう話じゃない、言葉の綾だよ」
「でも泣いてないのは事実」
「んじゃ抱き着いて離れなかったって言えばいいのか」

 それを言われるとぐっと押し黙るしかなかった。それは事実で否定できない。

「それは……そうかもしれないし、あの場で恐怖を感じてたことは否定はしないし、それにかこつけて雲雀くんに頼りきりになったことも悪かったとは思ってるけど」
「別に悪くねーけど」
「でもそれと恐怖の刷り込みは別で、そんなにトラウマっていうほどの……心理的外傷とか、そう言われるほど大袈裟なものは感じてない、です」
「……んじゃ三国は適当な男に抱きしめられても平気な顔できんのかよ」
「……それは……変質者だよね、心的外傷があってもなくても怖いと感じると思う」
「いや俺が言いたいのはそういうことじゃねーよ!」

 びっくり、目を丸くしてぱちくりさせてしまった。心なしか鈴虫までリン……と鳴くのをやめてしまったような気がする、そのくらい突飛な怒鳴り声だった。

 雲雀くんも「しまった」と感じたかのように唇を噛んで、その顔を広げた手で覆い隠してしまった。

「……九十三先輩の悪ふざけなら怖くないのか」
「え、うーん……まあ……そもそもよく知った人だし。悪ふざけなのが分かってるから変質者みたいないやらしさもないし……なんかスキンシップ激しいお兄ちゃんみたいな……」

 いやあんなに激しいスキンシップをとるお兄ちゃんなんて絶対おかしいし、なんなら私の傍若無人なお兄ちゃんがそうなったとしたら寒気が走るほど気味が悪いけど、九十三先輩はそういうポジションの人だ。

「……そう」
「……雲雀くんの質問に私ちゃんと答えてる?」
「……三国がイヤじゃないならいいよそれで」

 掌の中から溜息が聞こえた気がするけど、イヤじゃないならそれでいいと言ってるし、問題ない……だろうか。うーんと首を捻っていたけど「そういやこの間、庄内先輩と喧嘩になって」「え、また……?」「いやそういうガチのヤツじゃなくて、賽銭箱サッカーで勝敗決めたくらいにはどうでもいい話のヤツなんだけど」とわりと気になる話題にシフトしてしまったので、そのまま考える時間はなくなってしまった。

 家の前まで着いた後、雲雀くんは先輩達に言いつけられたとおり「じゃ」とさっさと踵を返そうとした。本当に律儀だ。

「……お茶くらい飲んでいく?」
「……いいよ夜遅いし」
「……でもここまで歩かせて家の前でじゃあバイバイっていうのもなんか悪い」

 とはいえ、じゃあ家に招き入れたところで何ができるのかと言われると、本当に文字通りお茶を出す以外できない。ピアノは……弾いてあげるよと恩着せがましく言うほど上手くないし、この時間なので近所迷惑にもなる。うーん、と首を捻る私と雲雀くんの距離は既に2メートルは離れていた。

 離れていた、はずだった。あまりにもスムーズに雲雀くんが距離を詰めるまでは。

 夏の夜の涼しさが乱暴に掻き消された。腰にまわされた腕によって、体の熱が閉じ込められた。

「……怖くない?」

 耳元で(ささや)かれ、ボッと顔が熱くなった。つい数日前と同じく、顔から火が出ているのではないかと錯覚するほどに顔が熱い。

「……怖く、はないけど……」

 蛍さんとも九十三先輩とも違う。雲雀くんだけが違う。

 桜井くんは、知らないけど。

「けど、なに」

 恥ずかしい。居たたまれない。照れくさい。離れたいはずなのに離れたいと思えない、奇妙な感覚に支配される。そしてそれを明け透けに口にできるほどの余裕さえない。