「大丈夫か」

 怯えて震えている一紗(かずさ)に、将也(まさや)が手を延ばす。

「はい……」

一紗はそっと将也の手を取った。
 将也の手はがっしりしており、皇太子だが戦士でもあるという立場を裏付けていた。

「震えているな」
「だ、大丈夫です……」

 一紗はそっと将也を見上げた。

「あ、あの私……」
「俺のことを覚えていないか」
「は?」

 将也がじっと一紗を見つめてくる。

「俺は子どもの頃、一度中ノ国(なかのくに)を訪れているんだ」
「えっ……」
「忘れもしない。あれは十年前の春だった。中ノ国のパーティーで、俺は気分が悪くなって庭の隅でうずくまっていた。その時、声をかけてくれたのがおまえだ」

 一紗は記憶を探った。
 確かに他国の皇族たちを招いた大規模なパーティーが開かれたのを覚えている。
 当時、自分はまだ八歳だった。
 一応、榊家の令嬢ということで招かれたのだ。

「あの時の……?」

 華やかなパーティーに出席したのはあれが最初で最後だった。
 両親たちは綺麗に着飾った二葉(ふたば)と長男の(れい)だけを挨拶に連れていき、一紗は放置された。
 賑やかなパーティーに気後(きおく)れし、庭で一人寂しく過ごしていたのを思い出す。

「ああ。庭に咲いた桜の木が満開で、それは美しい光景だった。だから、着物にも桜を入れてもらったんだ。おまえとの思い出だから」
「……!」

 あの着物を見たときに、なぜあんなにも惹かれたのかわかった気がした。
 自分の中にある風景と重なったからだ。

(そうだわ、満開の桜に囲まれて、とても幻想的な光景だった……)

 一人ぼっちの無聊(ぶりょう)を桜たちが慰めてくれた。
 そして、木陰(こがげ)でうずくまっている男の子に出会ったのだ。

「あのとき、俺は気が暴走して苦しんでいた。おまえが背中をさすってくれたら、楽になったんだ」
「そ、そうなんですか?」

 苦しむ男の子の背中をただ夢中でさすったことしか覚えていない。

「それはよかったです……」
「だから、おまえは整気(せいき)の力を持っている」
「えっ……」
「間違いない。俺は実際に体験したのだから」
「で、でも私……」

 整気の力があるかどうかは、水を使って試される。
 水に手をかざし、自在に動かせれば能力があるとわかるのだ。

「何度も調べましたが、私は力がない、と……」
「それは間違いだな」

 信じられない思いで一紗は将也を見つめた。

「試してみるか?」

 ぐいっと手を引かれ、一紗は将也の胸に倒れ込んだ。

「あっ……」

 将也がそっと優しく一紗の体を支える。

「俺の胸に手を当ててみろ」
「は、はい」

 一紗はドキドキしながら、そっと将也の胸に手を当てた。
 見た目よりもずっとがっしりとした筋肉の感触に驚く。
 手から将也の熱が伝わってくる。

(しゅ、集中しなくちゃ……)

「どうした、緊張しているのか?」

 体を強張(こわば)らせた一紗に、将也がささやく。
 その甘い響きに、一紗は体を震わせた。
 まるで壊れ物のように一紗を丁寧に扱ってくれる人などいなかった。

「だ、だめです……」

 胸が高鳴って、とても気を巡らせることなどできそうもない。
 怒られるのではないかと、一紗は体をすくませた。
 だが、将也は一紗の肩に優しく手を置いた。

「そうか。長旅で疲れているのだろう。悪かったな、来た早々に」
「い、いえ……」
「部屋で休むといい。案内させる」

 使用人を呼ぼうとする将也に、一紗は思わず尋ねた。

「あのっ……私、ここにいていいんですか?」

 将也が驚いたように目を見開く。

「なぜだ?」
「あの、私、こんな白い髪で、それに異能も……」
「綺麗な髪ではないか。何か問題があるのか?」

 そっと髪を撫でられ、一紗は思わずびくっとした。
 あまりに心地(ここち)よかったのだ。

「おまえは中ノ国へ帰りたいのか?」

 将也の言葉に、一紗は反射的に強く首を横に振っていた。

「いいえ……いいえ!」

 一度家から出た今ならわかる。
 あの家の(いびつ)さに。虐げられていた自分の惨めさに。

「なら問題ないな。俺がおまえを選んだんだ。おまえは俺の妻になる。つまり、この屋敷の女主人だ」
「……っ!!」

 この先進的な大国の皇族の女主人。
 言葉の重みがずっしりとのしかかってくる。

「でも、私、女学校にも行っていなくて。令嬢としての行儀作法も……」
「ずいぶん心配性なのだな」

 将也がからっと笑う。

「おまえは俺の妻になるんだ。何も心配することはない。気に掛かることがあれば、一つずつ解決していこう。一緒に」

 将也がぎゅっと手を握ってくれる。
 それだけで心にまとわりついていた不安が消えていくのがわかった。

 揺るがない黒い瞳。
 これほどまでに安心感を覚えたのは初めてだった。
 将也が握った手を持ち上げ、そっと一紗の手の甲に口づけをした。

「っ!!」
「よく来てくれた。感謝する」

 将也の言葉に、一紗は涙ぐんだ。
 自分などふさわしくない。そんな卑屈な気持ちが溶けていく。

「大事にするから……そばにいてくれ」
「はい」

 するっと素直な感情が口からこぼれた。

「いい返事だ」

 将也がにこりと笑う。

「これから、新しい国で生活していくことになるが、決して後悔させないと誓う」

 将也に手を取られ、一紗はすっくと立ち上がった。
 まるで自分が生まれ変わったかのように、背筋が伸びた。
 顔を上げ、一紗は一歩を踏み出した。