「一紗! 本家の屋敷に来なさい!」
寝不足でふらふらしながら庭で掃除をしていた一紗は、母に声をかけられ立ちすくんだ。
口を強く引き結んだ母の厳しい表情に胸が冷える。
「……はい」
余計なことを言えば、暴力を振るわれるかもしれない。
一紗はびくびくと母の後について本家の屋敷に上がった。
屋敷の中では使用人たちが慌ただしく行き来し、ピリピリした空気が広がっていた。
(何があったの……?)
奥の間に入った一紗は息を呑んだ。
座敷にずらりと榊家の親族たちが並んで座っていたのだ。
上座に座る父を含め、皆の表情が固い。
皆、一紗を見ると、一様に眉をひそめた。
白い髪のせいだけではない。ボロボロの着物や痩せ細った体がみっともなく見えるのだろう。
一紗は体を縮ませ、言われるままに座布団の上に座った。
「一紗、おまえに――」
父が言いかけたときだった。
「このっ……!」
いきなり座敷に入ってきた二葉が、一紗にお茶をぶちまけた。
「あっ……!!」
幸いお茶は冷めていたが、一紗は体をすくませた。
「なんであんたがッ!! あんたばっかり!!」
殴りかかろうとする二葉を、周囲の大人たちが必死に止める。
「二葉、やめなさい!」
父の一喝がビリビリと座敷に響いた。
暴れ牛のようだった二葉が、ようやく動きを止めた。
だが、興奮さめやらぬ様子で、フーッフーッと毛を逆立てた猫のような吐息を漏らす。
その鬼のような形相に、一紗は怯えるしかなかった。
「いいか、これは東ノ国から来た正式な書状なんだ」
父が白い封書を取り出す。
わけがわからず、一紗はおろおろと父を見た。
「一紗、よく聞きなさい」
父がまっすぐ一紗に向き合うのは久しぶりだった。
「東ノ国の皇太子、将也様がおまえを嫁にしたいと言ってきた」
「え?」
父が書状を開いて一紗に見せる。
そこには間違いなく、『榊一紗殿を妻として迎えたい』との言葉が書いてあった。
「私が……?」
一紗はようやく皆の表情が強張っている理由がわかった。
それには、国同士の取り決めが大きく関係していた。
一紗たちが住むのは、日ノ輪大陸の中央に位置する中ノ国だ。
小国でさしたる産業や生産物もない、貧しい国だ。
しかも中央に位置するため、他国からの侵略に常に怯えねばならなかった。
そんなとき、隣の大国である東ノ国が同盟を結ぼうと持ちかけてきた。
それは中ノ国に代々伝わる異能、『整気』のおかげだった。
整気は中ノ国の貴族の女性のみに発現する力で、体内の気を安定させ、制御することができる。
強大な気を持ってはいるが、制御に苦労していた東ノ国にとって必要な力だった。
そこで二国は同盟を結び、東ノ国は中ノ国を侵略から守る代わりに、中ノ国の整気ができる娘を嫁入りさせていた。
つまりは人質のようなものだが、整気の能力を持つ令嬢は丁重に扱われ、嫁入り先で気に入られれば贅沢三昧の生活を送れるとあって、嫁入りを熱望する令嬢も少なくなかった。
二葉もその一人だ。
上昇志向の強い二葉は、整気の才能があった。
それに比べ、双子でありながら一紗にはまったく力がなかった。
「で、でも私……整気ができません」
「だが、こうして名指しで来ているのだ」
「何かの間違いでは……」
「そうよッ!」
意気揚々と二葉が声を上げる。
「きっと私と間違えたのよ! 双子だから!」
一族の間にざわめきが生じた。
「だが、こうして正式な申し込みがあった以上、一紗を送るしかない」
「ちょっとお待ちください。申し込んできたのは皇太子の将也様なんですね?」
兄の零が口を挟む。
「将也様と言えば、気難しい人物で自国の令嬢との縁談をすべて断ったと聞いている。そんな所へ能力のない世間知らずの一紗が行っても不興を買うだけでは?」
一紗も噂で聞いたことがある。
皇太子である将也は、能力が高いせいで安定せず、気性が荒く問題児だという。
そんなところに無能の自分が嫁いだらどうなるだろう。
一紗はぞっとした。
役立たずとして、今よりもっとひどい折檻を受けるかもしれない。
「私、無理です……」
「そうです、一紗には無理です! 一紗はずっとこの家にいるべきなんだ!」
零が興奮したように声を上げる。
だが、父は首を振った。
「こちらに断る権利はない。これは榊家だけでなく、国の存亡が掛かった盟約なのだ」
「で、でも……」
「私が行くわ! 一紗として!」
二葉の凜とした声に、座敷に衝撃が走った。
「いや、二葉。おまえは芦田家に嫁ぐと……」
「あんな縁談、どうでもいいわ!」
二葉は父の言葉を一蹴した。
「東ノ国の縁談のほうが大事でしょ! 私なら整気ができるし、顔だってよく似てるもの!」
「だが――」
言い淀む父に、二葉が追撃する。
「一紗を大国に嫁がせてどうするの? 機嫌を損ねたら同盟を破棄されるかもしれないわよ?」
「ううむ……」
父が渋い顔で顎を撫でる。
溺愛してきた二葉の願いと、東ノ国からの申し出の間で揺れているのがわかった。
「じゃあ、こうしましょう。私が一紗の振りをして行く! でも、万一のために一紗も連れていくのはどう? それならいいでしょう?」
「相手を騙すことになるのでは……」
「貴族の血を引く、能力のある娘を相手は欲しているのでしょう? 私なら期待に応えられます! 名前が違うなんて瑣末なことよ。双子なんだし」
二葉が堂々と胸を張った。
「心配は無用ですわ、お父様。私なら、きっと気に入ってもらえます!」
座敷にざわめきが広がる。
自信満々の二葉の言葉に、皆の心が揺れるのがわかった。
「確かに二葉なら美しいし賢い。能力も申し分ない」
「二葉に任せたほうがいいのでは……」
「双子だし、一紗と二葉の名前を間違えたのでは?」
親族からぽつぽつと賛成の声が上がる。
「うむ……。では、二葉を花嫁とし、一紗は万一の時の保険としてついて行かせるか」
「は? 絶対にダメです!!」
異論の声を上げたのは、零だった。
「一紗はこの家から出しません!」
「零、そういうわけにはいかないのだ。一紗は指名されているのだから」
父の言葉も零にはまったく響いていないようだった。
零は大きくかぶりを振った。
「二葉だけで充分でしょう!?」
零がいきなり一紗の両肩をがしっとつかんできた。
「な! 一紗も東ノ国なんかに行きたくないよな!? な?」
零の目は血走っており、興奮しているのか息は荒い。
一紗は零の変貌ぶりに驚いて声もなかった。
「やめさない、零。家督を継ぐ長男としてみっともない!」
見かねた父の声に、零がようやく一紗から手を離す。
「二葉と一紗の二人を東ノ国に行かせる! これは家長としての決定だ!」
父の言葉に引き下がりはしたものの、零はまだ未練たらしく一紗を見ていた。
「一紗、絶対に戻ってこいよ。でなくば連れ戻しに行くからな……!」
怨念のこもった声に、一紗は震え上がった。
兄がこんなにも自分に執着していたとは気づかなかった。
優しかった兄の面影は今や微塵もない。
「いい加減にしなさい!」
見かねた親族たちが、零を一紗から引き離す。
父が額に手をついてため息をつく。
「とにかく、二葉と一紗は出立の用意をするように! わかったな?」
勝手に話が進んでいくのを、一紗は呆然と見守るしかなかった。
二葉が一紗を睨みつけてくる。
「いい? あんたはただの侍女として来るのよ!? 絶対にでしゃばらないでね? 私の嫁入りが無事に決まったら、さっさと家に戻りなさい!」
「はい……」
一紗はうなずくしかなかった。
いつも事態は一紗を無視して動いていく。
自分は激流の中の木の葉のように流されていくしかできない。
(これでいいんだわ。大国の皇族の妻なんて私には務まらないし。そもそも整気ができないし……)
一紗は自分の無力さを噛みしめながらうつむいた。
寝不足でふらふらしながら庭で掃除をしていた一紗は、母に声をかけられ立ちすくんだ。
口を強く引き結んだ母の厳しい表情に胸が冷える。
「……はい」
余計なことを言えば、暴力を振るわれるかもしれない。
一紗はびくびくと母の後について本家の屋敷に上がった。
屋敷の中では使用人たちが慌ただしく行き来し、ピリピリした空気が広がっていた。
(何があったの……?)
奥の間に入った一紗は息を呑んだ。
座敷にずらりと榊家の親族たちが並んで座っていたのだ。
上座に座る父を含め、皆の表情が固い。
皆、一紗を見ると、一様に眉をひそめた。
白い髪のせいだけではない。ボロボロの着物や痩せ細った体がみっともなく見えるのだろう。
一紗は体を縮ませ、言われるままに座布団の上に座った。
「一紗、おまえに――」
父が言いかけたときだった。
「このっ……!」
いきなり座敷に入ってきた二葉が、一紗にお茶をぶちまけた。
「あっ……!!」
幸いお茶は冷めていたが、一紗は体をすくませた。
「なんであんたがッ!! あんたばっかり!!」
殴りかかろうとする二葉を、周囲の大人たちが必死に止める。
「二葉、やめなさい!」
父の一喝がビリビリと座敷に響いた。
暴れ牛のようだった二葉が、ようやく動きを止めた。
だが、興奮さめやらぬ様子で、フーッフーッと毛を逆立てた猫のような吐息を漏らす。
その鬼のような形相に、一紗は怯えるしかなかった。
「いいか、これは東ノ国から来た正式な書状なんだ」
父が白い封書を取り出す。
わけがわからず、一紗はおろおろと父を見た。
「一紗、よく聞きなさい」
父がまっすぐ一紗に向き合うのは久しぶりだった。
「東ノ国の皇太子、将也様がおまえを嫁にしたいと言ってきた」
「え?」
父が書状を開いて一紗に見せる。
そこには間違いなく、『榊一紗殿を妻として迎えたい』との言葉が書いてあった。
「私が……?」
一紗はようやく皆の表情が強張っている理由がわかった。
それには、国同士の取り決めが大きく関係していた。
一紗たちが住むのは、日ノ輪大陸の中央に位置する中ノ国だ。
小国でさしたる産業や生産物もない、貧しい国だ。
しかも中央に位置するため、他国からの侵略に常に怯えねばならなかった。
そんなとき、隣の大国である東ノ国が同盟を結ぼうと持ちかけてきた。
それは中ノ国に代々伝わる異能、『整気』のおかげだった。
整気は中ノ国の貴族の女性のみに発現する力で、体内の気を安定させ、制御することができる。
強大な気を持ってはいるが、制御に苦労していた東ノ国にとって必要な力だった。
そこで二国は同盟を結び、東ノ国は中ノ国を侵略から守る代わりに、中ノ国の整気ができる娘を嫁入りさせていた。
つまりは人質のようなものだが、整気の能力を持つ令嬢は丁重に扱われ、嫁入り先で気に入られれば贅沢三昧の生活を送れるとあって、嫁入りを熱望する令嬢も少なくなかった。
二葉もその一人だ。
上昇志向の強い二葉は、整気の才能があった。
それに比べ、双子でありながら一紗にはまったく力がなかった。
「で、でも私……整気ができません」
「だが、こうして名指しで来ているのだ」
「何かの間違いでは……」
「そうよッ!」
意気揚々と二葉が声を上げる。
「きっと私と間違えたのよ! 双子だから!」
一族の間にざわめきが生じた。
「だが、こうして正式な申し込みがあった以上、一紗を送るしかない」
「ちょっとお待ちください。申し込んできたのは皇太子の将也様なんですね?」
兄の零が口を挟む。
「将也様と言えば、気難しい人物で自国の令嬢との縁談をすべて断ったと聞いている。そんな所へ能力のない世間知らずの一紗が行っても不興を買うだけでは?」
一紗も噂で聞いたことがある。
皇太子である将也は、能力が高いせいで安定せず、気性が荒く問題児だという。
そんなところに無能の自分が嫁いだらどうなるだろう。
一紗はぞっとした。
役立たずとして、今よりもっとひどい折檻を受けるかもしれない。
「私、無理です……」
「そうです、一紗には無理です! 一紗はずっとこの家にいるべきなんだ!」
零が興奮したように声を上げる。
だが、父は首を振った。
「こちらに断る権利はない。これは榊家だけでなく、国の存亡が掛かった盟約なのだ」
「で、でも……」
「私が行くわ! 一紗として!」
二葉の凜とした声に、座敷に衝撃が走った。
「いや、二葉。おまえは芦田家に嫁ぐと……」
「あんな縁談、どうでもいいわ!」
二葉は父の言葉を一蹴した。
「東ノ国の縁談のほうが大事でしょ! 私なら整気ができるし、顔だってよく似てるもの!」
「だが――」
言い淀む父に、二葉が追撃する。
「一紗を大国に嫁がせてどうするの? 機嫌を損ねたら同盟を破棄されるかもしれないわよ?」
「ううむ……」
父が渋い顔で顎を撫でる。
溺愛してきた二葉の願いと、東ノ国からの申し出の間で揺れているのがわかった。
「じゃあ、こうしましょう。私が一紗の振りをして行く! でも、万一のために一紗も連れていくのはどう? それならいいでしょう?」
「相手を騙すことになるのでは……」
「貴族の血を引く、能力のある娘を相手は欲しているのでしょう? 私なら期待に応えられます! 名前が違うなんて瑣末なことよ。双子なんだし」
二葉が堂々と胸を張った。
「心配は無用ですわ、お父様。私なら、きっと気に入ってもらえます!」
座敷にざわめきが広がる。
自信満々の二葉の言葉に、皆の心が揺れるのがわかった。
「確かに二葉なら美しいし賢い。能力も申し分ない」
「二葉に任せたほうがいいのでは……」
「双子だし、一紗と二葉の名前を間違えたのでは?」
親族からぽつぽつと賛成の声が上がる。
「うむ……。では、二葉を花嫁とし、一紗は万一の時の保険としてついて行かせるか」
「は? 絶対にダメです!!」
異論の声を上げたのは、零だった。
「一紗はこの家から出しません!」
「零、そういうわけにはいかないのだ。一紗は指名されているのだから」
父の言葉も零にはまったく響いていないようだった。
零は大きくかぶりを振った。
「二葉だけで充分でしょう!?」
零がいきなり一紗の両肩をがしっとつかんできた。
「な! 一紗も東ノ国なんかに行きたくないよな!? な?」
零の目は血走っており、興奮しているのか息は荒い。
一紗は零の変貌ぶりに驚いて声もなかった。
「やめさない、零。家督を継ぐ長男としてみっともない!」
見かねた父の声に、零がようやく一紗から手を離す。
「二葉と一紗の二人を東ノ国に行かせる! これは家長としての決定だ!」
父の言葉に引き下がりはしたものの、零はまだ未練たらしく一紗を見ていた。
「一紗、絶対に戻ってこいよ。でなくば連れ戻しに行くからな……!」
怨念のこもった声に、一紗は震え上がった。
兄がこんなにも自分に執着していたとは気づかなかった。
優しかった兄の面影は今や微塵もない。
「いい加減にしなさい!」
見かねた親族たちが、零を一紗から引き離す。
父が額に手をついてため息をつく。
「とにかく、二葉と一紗は出立の用意をするように! わかったな?」
勝手に話が進んでいくのを、一紗は呆然と見守るしかなかった。
二葉が一紗を睨みつけてくる。
「いい? あんたはただの侍女として来るのよ!? 絶対にでしゃばらないでね? 私の嫁入りが無事に決まったら、さっさと家に戻りなさい!」
「はい……」
一紗はうなずくしかなかった。
いつも事態は一紗を無視して動いていく。
自分は激流の中の木の葉のように流されていくしかできない。
(これでいいんだわ。大国の皇族の妻なんて私には務まらないし。そもそも整気ができないし……)
一紗は自分の無力さを噛みしめながらうつむいた。



