「神であろうと何であろうと、汝の涙は私の心を乱す。それで十分だ」


 葵の頬が熱くなり、言葉に詰まった。焔夜は続ける。


「神子選定の儀式、汝は行かぬつもりか?」


 葵は首を振った。


「行きたい…でも、着物もないし、継母が許してくれないんです。神殿に行くなんて、私には夢みたいな話で…」


 焔夜の瞳が鋭く光った。


「人間の決めた門など、私には関係ない。汝が望むなら、道は開ける」


 彼は葵の手を取り、川辺の桜の木の下に導いた。
 木の根元に、まるでそこにあったかのように、折り畳まれた一着の着物が置かれていた。淡い桜色の地に、金糸で桜の花が刺繍されたそれは、神殿の巫女でさえ着ないような美しいものだった。


「これは…?」


 葵が息を呑むと、焔夜は静かに言った。


「桜ノ神の加護を受けた着物だ。汝が神殿に立つ資格を、これが証明する」


 葵は震える手で着物を触り、涙がこぼれた。


「こんな…私なんかが着ていいものじゃない…」


 焔夜は葵の肩に手を置き、初めて優しく微笑んだ。


「汝こそが相応しい。私の目には、そう映る」


 その夜、葵は納屋に着物を隠し、胸の高鳴りを抑えきれなかった。継母や姉妹に見つかれば、着物は奪われ、罰を受けるだろう。それでも、焔夜の言葉が彼女に勇気を与えていた。


「神様が…私のことを見ててくれるなんて…」
 
 彼女は藁の上で着物をそっと抱きしめ、眠りについた。夢の中では、桜の花びらが舞い、焔夜の赤い瞳が優しく彼女を見つめていた。だが、翌朝、葵が納屋に戻ると、隠していた着物がなくなっていた。代わりに、美桜が庭でその着物を手に持ち、嘲るように笑っていた。


「こんな綺麗な着物、どこで盗んできたの、葵? まさか、神子選定に行こうなんて思ってたんじゃないでしょうね?」


 葵の顔から血の気が引いた。美桜は着物を振り、貴代に言った。


「母様、この子、なんて大胆なの! こんなものを隠してたなんて、罰を与えないと!」


 貴代の冷たい目が葵を射抜いた。


「葵、納屋に閉じ込めなさい。儀式が終わるまで出てくるんじゃないよ」