◇桂木志乃として
月次御覧の日が近づくにつれ、大奥の空気は張り詰めた糸のように緊迫した。
噂はもはや隠しきれぬほど広がり、皆がささやく。
――“蓮華”が二人いる。
美貌と高貴さを備えた本物の姉と、病弱で名も持たぬ、妹の影。
「志乃様、本当に……“ご自分の名”で出られるのですか?」
梅の問いに、わたしは静かにうなずいた。
「はい。もう、誰の影でもありません」
将軍様からの命はたしかにあった。
「蓮華ではなく、“志乃”として出ろ」
それは、偽りの仮面を脱ぎ捨てる命令。
名を持たぬ妹が、大奥の中心で“自分”として立つ機会だった。
***
前夜、蓮華様がわたしの部屋を訪れた。
白い肌に紅を差し、薄紫の打掛をなびかせるその姿は、やはり息をのむほど美しい。
「……志乃、少しは骨があると思っていたけれど」
彼女は扇で唇を隠し、ふっと笑った。
「この御覧で、あなたは終わるわ。今まで“妹”として守られていたものが、すべて剥がれる」
「恐れているのですか? 本物のわたしに」
そう返すと、姉の微笑みが一瞬だけ崩れた。
「……その言葉、後悔しないことね」
その夜、部屋に届いた煎じ薬に、かすかな異臭が混じっていた。
――眠り薬。いや、もっと強いものか。
梅が顔色を変えて叫んだ。
「志乃様! これはきっと、蓮華様が……!」
けれど、わたしは静かにそれを受け取った。
「構わない。この毒も、わたしの一部。……飲んだ上で、舞ってみせます」
庭に張られた白絹の舞台に、満月の光が降り注ぐ。
数百の女たちの視線の中、わたしは薄紅の舞衣をまとい、ひとり立った。
将軍様の御簾の奥、その気配が確かにある。
心臓が高鳴る。体は重く、視界がにじむ。
けれど、わたしの中に火が灯っていた。
――志乃として、咲く。
扇を広げ、静かに足を踏み出す。
姉のような華やかさはない。けれど、揺れる指先には意志が宿る。
月と、夜風と、火灯りと。
舞のすべてが、わたしの存在を描いていた。
終わった瞬間、息が切れ、足元が崩れる。
けれど、倒れる直前、将軍様の声が響いた。
「――よく、舞った。桂木志乃」



