◇将軍の試し

 ある日、突然に「上様よりの御下命」と言われた。

「桂木蓮華は、舞を披露せよ」

 ――それは、姉が得意とした芸のひとつ。
 誰もが彼女の舞姿を絶賛したという。
 だが、わたしは……足の震えが止まらなかった。

「無理をなさらぬでください。あの方は、志乃様の弱さをご存じのはずです」

 梅の言葉は、優しい。

 けれど、わたしは首を振った。

「舞えなくてもいい。ただ、真っ直ぐに向き合いたいの」

 ――“わたし”として、将軍様に。

 その夜、月明かりの庭に設えられた舞台に立った。
 白き舞衣に身を包み、扇を持ち、静かに一歩を踏み出す。

 動きはたどたどしく、扇も指に滑る。
 でも、瞳はただ、将軍様だけを見ていた。

 その視線が、わたしの心を貫く。

 「なぜ……そこまでして踊ろうとする」

 舞が終わると、将軍様はわたしの前に立ち、そっと扇を受け取った。

 「おまえのような、傷だらけの花は――」

 言葉の先を、彼は告げず、ただ静かに言った。

 「……嫌いではない」

 わたしはその夜、涙をこぼした。
 姉ではなく、“志乃”として見つめられた気がして。

 だが、静かな夜は長くは続かなかった。

 姉・蓮華の失踪は、実は「桂木家の策略」と噂され始めていた。
 将軍の寵が妹に傾き、姉が嫉妬のあまり姿を消した――そう流言が広がっていたのだ。

 やがて、大奥内に小火が起こる。

 将軍の御台所付きの部屋が焼け、その火元に「志乃」の香包が落ちていた。

「志乃様、これは罠です! 誰かが……!」

 わたしは動じなかった。
 むしろ、すでに分かっていたのだ。

 ――これは、姉からの“挨拶”だと。

 「わたしはまだ、ここにいるわよ。志乃」

 燃え残った襖の向こう、残された一輪の桔梗。
 それは、かつて姉が最も好んだ花だった。