◇姉、狂乱す


 志乃が将軍の御寝所に呼ばれたことは、翌朝には大奥中に知れ渡った。

 「とうとう、あの妹が……!」

 「姉上様のお顔が青ざめておいでだとか……」

 蓮華の居室にて。
 彼女は鏡の前に座し、無言のまま髪を梳いていた。

 「……志乃が、上様の腕のなかにいた」

 繰り返す言葉は、呪詛のようだった。

 鏡のなかの自分の顔が、歪んで見える。

 「わたしが……あの子に、負けた……?」

 床に置かれていた香炉が、蓮華の手で弾き飛ばされた。
 香が砕け、甘い匂いとともに、張り詰めた空気が散る。

 「いいえ。まだ終わっていない。 “あの子”から、すべてを奪い返すわ」



  ***

 それから数日、大奥の空気は静かに狂いはじめた。

 女中の急死、膳の毒混入、部屋の火種――
 あらゆる不穏が「偶然」を装って、志乃の周囲に起き始めた。

 「誰かが、命を狙っている」

 あやめが口を閉ざしたまま、冷たい瞳でそう告げた。
 彼女はついに筆を取り、こう書いた。

 《桂木蓮華の動きにご注意を》

 すでに姉は、女としての誇りすら捨て、すべてを燃やそうとしていた。

 だが、わたしは恐れなかった。

 「わたしは、誰の“後ろ”にも戻らない。
  あの方の隣に、共に立ちます」

 そう言って振り返ったとき、御簾の奥から、あの人の声が響いた。

 「ならば……すべての影を断ち切れ」