◇選ばれし夜


 秋の夜風が、金のすすきを揺らす頃。
 将軍・徳川清暉様より、正式な「御召し」が下された。

 ――桂木志乃を、御寝所へ。

 それは、大奥における最も明白な“寵”の証。
 将軍が一夜を共にする女として選んだこと。
 そして、女として“正室”への道が開かれる第一歩。

 「志乃様……!」

 梅は目に涙をためて、手を取り震えていた。

 わたしは、ゆっくりと口紅を引く。
 今宵は“妹”でも、“影”でもない。
 ひとりの女として、あの方のもとへ向かうのだ。



 御寝所は、香木と薄闇に満ちていた。
 障子をすべて閉ざし、灯りは柔らかな油火一つ。
 そのなかで、将軍様はすでに臥しておられた。

 「……来たか。志乃」

 呼びかけに、胸が熱くなる。

 緊張で、喉が焼けるように乾く。
 けれど、そのまま後ずさることはしなかった。

 「今夜、おそばにおります。……あなた様の、女として」

 わたしの震える指が衣の襟にかかると、将軍様がそっとその手を取る。

 「無理はするな。だが、逃げもしないのだな」

 その目に映るのは、わたしという一人の“命”。

 夜具のなか、手と手が重なり、温もりが伝わる。
 言葉より先に、肌が、心が触れ合っていく。

 「……志乃、おまえは、誰のものだ?」

 「あなた様のもの、です」

 頬を寄せ、唇を重ねた。
 甘く、切なく、求め合うように――




  ***


 夜が明けるころ、将軍様の腕の中で目を覚ました。

 あの人はもう起きていて、わたしの髪を静かに梳いていた。

 「……もう、あの姉上には戻れませんね」

 わたしの言葉に、彼は小さく笑った。

 「もうおまえは、誰かの影ではない。
  志乃という名が、わたしの記憶にも、この城にも刻まれた」

 優しい声で囁かれたその言葉に、胸がきゅっと鳴る。

 けれど、それは同時に――誰かにとって、決定的な“終わり”を意味していた。