◇逆転の序章

 月次御覧の翌日、志乃の名は大奥中に響いた。
 将軍の御前で自らの名を呼ばれ、称えられた女。それが、かつて“替え玉”と嘲られた妹・志乃であることを、皆が知った。

 「桂木志乃様……あれほど病弱で静かだった方が……」

 「まるで別人のようね。あの目……あれはただの影じゃない」

 女たちのささやきは、今や嫉妬と畏怖に満ちていた。

 その中心で、姉・蓮華は静かに息を吐く。

 「……影が、光を奪うなんて」

 爪をぎゅっと立てたその手は、扇をかすかに裂いた。






 「志乃、おまえは――本当に、ただの“妹”か?」

 ある夜、将軍様はふとそう言った。
 庭に咲く薄紫の花を眺めながら、静かに、だが確かに。

 「おまえの目は、人を見下す目ではない。だが、何よりも……人を恐れていない」

 わたしはその言葉の意味を深く感じていた。

 将軍様は孤独だった。
 強くあらねばならぬ立場で、人の本性に晒され続けてきたのだ。

 「恐れることはあります。……でも、逃げません」

 その答えに、将軍様の目がゆるんだ。


 「ならば、そばにいてくれ」

 ――それが、恋文よりも熱い誓いに思えた。