◇姉上とわたし


 薄紅色の梅が咲く、春まだ浅い日だった。
 父の命で、わたしは蔵に閉じ込められていた。

「志乃は行かなくてよい。恥を晒すだけだ」

 そう言ったのは、わたしの父――桂木家の当主であり、勅任の重臣である桂木大納言だった。
 今日は、姉の蓮華が江戸城へと上がる日。将軍・徳川清暉様の御台所候補として、正式に大奥に入るという大切な節目だった。

 蔵の窓の隙間から、緋色の駕籠が見える。
 その中に座すは、姉上――蓮華様。

 白粉に紅を引いたその顔は、父譲りの鋭い目元に、母譲りの高い鼻梁。
 端正な顔立ちに映えるのは、桂木家の女として生まれ持った「美」の象徴。

 ――けれど、わたしには何もなかった。

 幼いころから虚弱で、病に倒れては月の半分を床に臥せ、習い事もほとんど続かなかった。
 扇の舞も、箏の音も、書の筆さえも姉に比べては拙く、誰もが口をそろえてこう言った。

「姉上に比べて、なんと哀れな妹でしょう」

 だから今日、わたしは屋敷の外にも出してもらえなかった。
 姉の晴れ舞台を「陰が差す」と言われたのだ。

 わたしの名は、桂木志乃。
 桂木家の“忘れられた”妹だ。



  ***



 蔵の中はひどく冷たかった。
 古びた木の香り、積もった埃の匂い、誰にも触れられぬ空気。

 だけどわたしは、ここが嫌いではなかった。
 誰にも見られないなら、泣いてもいいから。

「わたしだって……大奥に……行ってみたかった」

 思わず漏れた声に、自分で驚く。
 わたしの中に、こんなにも強い“願い”があったのかと。

 煌びやかな緋の十二単、香の薫る御殿、何百人もの女たちが熾烈に競う場所。
 ――きっと、姉上には似合う世界。

 でもわたしだって……わたしだって……

「志乃様!」

 突然、蔵の扉が勢いよく開かれた。
 顔を出したのは、使用人の梅だった。わたしより三つ年下で、いつも忙しなく動き回っている小女。

「大変です! 姉様の乗った駕籠が……途中で狙われて……!」

「え?」

「中の方が替え玉だったそうです。本物の蓮華様がいなくなって、上様のお目通りが……!」

「それって……」

 梅が息を呑んだ。

「――志乃様、急ぎましょう。蓮華様の代わりに、志乃様が上様にお会いしなければ!」