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樹くんは、いつも楽しそうだった。
 
初めてロビーで会ったときも、昔からの友だちみたいに話しかけてきた。
 
知らない友だちとのエピソードを、まるで私が知っている人かのように話し、ケラケラと笑っていた。
 
会議室への入室は禁止されているのに、突撃しては警備の人に捕まって、こってり絞られていた。
 
私がピアノを弾いているときは、目を輝かせ、感嘆の声をあげていた。

『雪音ちゃんなら「ラ・カンパニー」、絶対に弾けるようになるよ』
 
何度訂正しても、樹くんは『ラ・カンパネラ』の曲名を間違った。

『いいなあ。俺も楽器を弾いてみたい』
 
年上なのに同級生っぽくて、ときには弟のようにも思えることも。
 
明るくて、表情豊かで、おしゃべりな樹くん。一緒にいるだけで、ピアノの音色も違って聞こえた。
 
私たちの関係が終わったのは、ある日突然のことだった。

お父さんがインタビューで『地球がこわれる』と発言したことがSNSで広まり、世界中から非難を浴びた。当時は意味がわからなかった『不謹慎』という言葉で指さされることが増え、近所のおばさんは挨拶も返してくれなくなった。
 
お父さんは、大学と高温化対策室をクビになり、この島への移住を決めた。学校でいじめに遭っていた私にとって、それは希望の光だった。
 
あとになって気づいた。全部お父さんのせいでこうなったんだと。
 
その日、お父さんは対策室に最後の挨拶に向かった。メンバーから外されることはとっくに決まっていたし、引っ越しの準備も終えていた。
 
東京を去ることを告げたとたん、樹くんはボロボロと泣いた。これまでどんなに叱られても泣かなかった彼が、私のために泣いてくれている。

『絶対にまた会えるよ』と、樹くんは言った。

『「ラ・カンパニー」、弾けるようにがんばって』と、最後まで曲名を間違えたままだった。
 
そんな樹くんに、ひと目もはばからず私も涙をこぼした。
 
唯一心を許していた友だちとの別れが悲しかった。
 
もう二度と会えないことはわかっていた。あきらめというよりも、覚悟に近い感情で私は誓った。
 
神様、もしも願いが叶うなら、樹くんにもう一度会わせてください。
 
その日まで、私は笑っているから。樹くんのように、誰からも好かれるように笑顔で生きていくから。
 
私は神様ではなく、悪魔と契約したのかもしれない。
 
悪魔は私に仮面を渡した。それをつけていれば、新しい地に移ってから友だちもできたし近所の人ともうまくやってこれた。
 
でも、仮面が邪魔して、本当に会いたい人の姿を見ることができない。
 
いつしか、彼の笑顔さえうまく思い出せなくなっている。


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