いくつもの音が重なり、音楽室の壁に吸いこまれていく。

オーボエの憂いを帯びた音色、バリトンサックスの低音、トランペットは高らかに歌い、スネアドラムはリズムを刻んでいる。
 
もともと吹奏楽部に力を入れていたこの高校は、山の上に移築するときに、通常の何倍もの広さの音楽室を作ったそうだ。
 
千秋は同じクラリネット担当の子と、パートごとに練習をくり返している。

『クラリネットは、メロディパートを支える重要な楽器なので、ミスをするとほかの奏者にも影響が出てしまうんだよ』と、千秋が休憩のときに教えてくれた。

あいかわらず茶髪の桜輔は、三年生と意見を交わしている。一ノ瀬先生に髪色を注意されても、変えるつもりはないそうだ。
 
私は壁際に座り、部員の練習をぼんやりと眺めている。

まだ入部届は出していないけれど、千秋を助けるためなら仕方がないとあきらめている。
 
実際、部員は足りていない。ホルンとトロンボーンの奏者が足りないため、卒業公演ではOBが演奏することになったそうだ。
 
音楽室には二重サッシの窓があり、その手前にグランドピアノが置いてある。
 
吹奏楽にピアノは不必要だけど、演奏曲によっては使用することもあり、コンテストでは弾ける生徒が担当しているそうだ。
 
床の上でこっそり指を動かしてみる。考えなくてもメロディが頭のなかで生まれる。
 
千秋がこっちに歩いてきたので、空想の演奏を中断した。

「あー疲れた」
 
横にドスンと腰をおろす千秋。すでに汗だくだ。

「お疲れさま」

「卒業公演の曲、変えないといけなくてバタバタでさー。もう少しで終わると思うけど、ごめんね」

「大丈夫だよ」

ほほ笑みを浮かべていると、またいくつもの音が耳に届く。
 
ひときわ美しい音色なのが、冬吏の吹くフルートだ。
 
冬吏が指先を動かすたびに、クリアで()んだ音が生まれる。豊かであたたかい低音、明るく軽やかな高音。微妙な音の強弱が、いろんな感情を表していて、つい目で追ってしまう。
 
無口で無表情でそっけない姿が想像つかないくらい、生き生きとしたメロディが心にスッと入りこんでくる。

「千秋、こっち」
 
桜輔に呼ばれ、千秋がめんどくさそうに歩いていった。
 
フルートの音がふいに消えた。冬吏がフルートを手に歩いてくる。

「なにしてんの?」
 
君沢湖で話しかけられたときと同じ言葉だ。
 
ほほ笑みを浮かべるのと同時に、冬吏の言葉を思い出す。

『学校での俺たちはうそつきだから』
 
あれは、私が笑顔の仮面をつけていることを指していたのかもしれない。

「見学してるの」
 
どんな表情をしていいのかわからず、そっけなく答えた。

「入部するってこと?」

「音楽を好きな人としかやりたくないんだよね? 冬吏にとっては迷惑だと思うけど、千秋を助けたいだけだから」
 
仮面を封印して答えると、冬吏は驚いたように目を丸くした。

「反対しないよ。だって、雪音は音楽が好きだろ?」

「……好きじゃないし」

「へえ」と、冬吏は片膝をつき顔を近づけてきた。これまででいちばん近い距離に、思わずのけぞってしまい、壁に頭をぶつけてしまった。
 
細い黒髪、まっすぐな瞳と意志を感じる眉が視界いっぱいに映っている。

「な、なに……?」

「教室に忘れ物をしてさ」
 
予想外の言葉に戸惑ってしまう。
 
また仮面をつけようとする自分を押しとどめながら、

「……忘れ物?」
 
なんとか聞き返す。

「ウォーターボトルを置いてきたみたい。悪いけど取ってきてくれる?」

意味がわからず、しばらくポカンとしてしまう。
 
いいよ、と答えそうになる口をギュッと閉じる。

「自分で取りに行けばいいでしょ。私、千秋を待ってなきゃ」

「喉がカラカラなんだ。ほら、早く」

取りに行ってあげてもいいけれど、言い方が気に入らない。

「学校での私が嫌いなんでしょ。そんな人に頼みごとなんかしないでよ」

「嫌いとは言ってない。苦手だと言ったんだ」

「同じような意味にしか聞こえない。自分で取りに行きなよ」
 
話は終わり、と立ちあがった私に、冬吏はさらに距離を詰めてきた。

「ちょっと――」
 
焦る私の耳元に、冬吏は顔を近づけた。息遣いまで聞こえる距離で、彼はささやく。

「ピアノを弾けること、内緒にしとくからさ」

「……っ!」
 
驚きのあまり、短い悲鳴をあげてしまった。
 
私から離れると、冬吏は澄ました顔で首をかしげている。

「こないだ、君沢湖に行った帰りに、近くの家からピアノの音が聞こえてさ。気になって見に行ったら、ピアノを弾いている人がいた。まさか雪音だったなんて、驚いたよ」
 
すぐにごまかせばよかったのに、反応を返せないまま立ち尽くす。
 
冬吏は音楽室の扉を指さした。

「てことでよろしく。五分以内ね」

ニヤリとした笑みまで添えて。