ピアノの前に座るだけで、波が引くように心が落ち着くのを感じる。

私とピアノだけしか存在しない世界で、そっと鍵盤に指を置く 。
 
最初は、黒鍵だけを左右四本の指で奏でる。
 
フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』は、ピアノを弾く人なら誰でも一度は挑戦するであろう難曲。
 
小学生のころから何度も挑戦してきたけれど、連続した速いオクターヴが多いこと、広い跳躍の幅が連続することがミスタッチを誘発させる。
 
高校生になった今でも指が届かず、けんしょう炎になりそうなときもある。

「またその曲かい」
 
おばあちゃんの声に、演奏を止めた。

そうだ。おばあちゃんの家に来てたんだ……。

「だって、全然うまく弾けないんだもん。どうやったら手が大きくなると思う?」

「女の子は小さいほうがかわいいでしょうに」
 
今年八十歳になるおばあちゃん。お父さんに茶畑を譲って以降、縁側から見える君沢湖を相手に過ごしている。
 
引っ越しのタイミングでピアノ教室に行くのをやめた私。家にあったピアノも売ってしまった。
 
おばあちゃんの家には昔からピアノが置いてある。というのも、私がピアノを弾くようになったのはおばあちゃんの影響が大きいから。
 
幼いころ、おばあちゃんが弾いてくれるピアノに憧れたことを覚えている。もうおばあちゃんはピアノを弾かなくなったけれど、私のために残しておいてくれている。
 
最初は弾くつもりなんてなかったのに、東京と違い、海に囲まれたこの島で遊ぶ場所なんてない。おばあちゃんの家に来ては、ピアノを弾かせてもらっている。

「麦茶でも飲みなさい」
 
縁側に置かれたちゃぶ台に、グラスが置かれた。

「もう少しだけ弾く。シャープのレ音が全然安定しないんだよね」
 
それから二回挑戦したけれど、どうしても右手の小指が黒鍵からすべり落ちてしまうので、休憩することにした。

「雪音ちゃんがピアノを弾いてることを知ったら、お父さんたち驚くね」

「絶対に言わないでよ」
 
麦茶を飲む私に、おばあちゃんはシワを深くして笑う。

「誰にも言ってないから安心して。それにおばあちゃん、ピアノを弾いてるときの雪音ちゃん、好きだから」

「なんで?」

「努力している人はみんな好きだよ」

 努力か……。

引っ越す前はピアノの練習に明け暮れていた。お父さんの仕事が忙しくても、お母さんが入院してもさみしさを感じることはなかった。

(いつき)くんとの約束だものね」
 
久しぶりに耳にする名前に、思わずグラスを落としそうになった。

「よく樹くんの名前、覚えてたね。でも、約束したわけじゃないから」

「はいはい。でも、いつか聴かせてあげたいね」

私よりひとつ年上で、いつもニコニコしている男の子だった。ランドセルが好きじゃない樹くんは、ジーンズ素材でできた手提げバッグを持っていて、それが彼をずっと年上に見せた。
 
樹くんのお父さんも学会のメンバーで、歳が近いこともあり、放課後は一緒に会議が終わるのを待っていた。
 
樹くんは、私がピアノを弾いている間、キラキラした目で見守ってくれていた。私がミスると、自分が失敗したように悔しがっていた。
 
ピアノを弾かないときは、たわいない話をして、それが自然のことだった。
 
樹くんの苗字は知らない。今じゃ、顔さえぼやけてしまっている。
 
お父さんのインタビュー動画が出回る直前のこと。ロビーでくり返し練習する私に、彼は言った。

『その曲、ちゃんと弾けるようになったらすごいね』、と。

『いつか聴かせてあげる』

『約束だね』

『約束だよ』
 
SNSが悪い意味でバズッてからは、家に閉じこもるようになった。それでも、すぐに落ち着くと信じていた。
 
ここに来て以来、樹くんには会えていない。
 
今でも『ラ・カンパネラ』を練習し続けている。二度と会えないとわかっているのに、どうしてもやめられない。

重い気持ちに支配されそうで、「それよりさ」と話題を変えることにした。

「海の水位、またあがったんじゃない?」

「昔は君沢湖だけ見えてたのにね、今じゃ海のはしっこが見えてるねえ」

少し先に見える君沢湖。その先に並ぶいくつかの廃屋のすき間から、海の青色が日に日に主張を濃くしている。

「地球温暖化の影響だよね。違うか、三年豪雨?」
 
そう尋ねる私に、おばあちゃんはゆっくり首を横にふる。

「地球がこわれる前兆だよ」

「お父さんみたいなこと言わないでよね。私、お父さんの言うこと、信じてないから」
 
つい口調がきつくなってしまった。

「雪音ちゃんはお父さんのせいでたくさん傷ついたもんね」

「別に……」
 
モゴモゴと口ごもりながら、残りの麦茶を飲み干した。

「地球がこわれるなんて信じられないよ。だいたい、この町に来てから五年経ってるのに、なんにも起きてないし。なんでおばあちゃんは信じてるの?」

「親は、自分の子どもを信じるものだからねえ」
 
間を置かずにおばあちゃんは当たり前のように言った。
 
私にはその言葉の意味がわからない。
 
それなら、お父さんだって私の『地球がこわれる日なんてこない』という意見を聞き入れるべきじゃないの?
 
ピアノの前に座って最初から弾いてみるけれど、さっきより鍵盤が固く感じた。