小六のときに引っ越してきた平屋建ての家は、もともとはお父さんの幼なじみが住んでいたそうだ。その家族は、私たちと入れ替わりに東京へ引っ越した。

リノベーションしてあるので、外見の古さからは想像がつかないくらいきれいだし、狭いながらも私の部屋は確保されている。
 
夜ご飯は、お母さんがスーパーで買ってきた(そう)(ざい)()()(しる)とサラダ。お父さんはいつものように缶ビールを飲んでいて、すでに顔が真っ赤に染まっている。

(いの)(くま)先生ね、今月いっぱいで閉院するんですって。お()()さんの受診、来月からは海北町の病院に行かないといけないのよ」
 
ため息交じりにお母さんが()(のみ)を手で包んだ。お父さんは缶ビールを片手に惣菜を食べている。

「まあ、あの先生も歳だからな。息子のやってる病院の近くに引っ越すんじゃないか?」

「息子さんは精神科医よ」

「同じようなもんだ。どうせ、おふくろの通ってる歯科医院は、海北にあるんだろ?」

ちっとも同じじゃないと思う。
 
ひと呼吸置いて、お母さんは「そうだけど」と声のトーンをわずかに下げた。

「月に二回も船に乗るのは大変だ、って言ってるの」
 
さっきより、湯呑を強く握るのがわかる。

「同じ日に病院を予約すれば一回船に乗るだけで済む。別に大したことじゃないだろ」
 
お父さん、その言い方はまずいよ。
 
チラッとお母さんを見ると、ゆっくりと背筋を伸ばし、口を一文字に結んでいる。
 
お父さんも気づいたらしく、ハッと目を見開いたけれど、もう遅い。

「受診が大変じゃない、っておっしゃったのですか?」

「あ、いや……」

「秋生さんは、お義母さんの受診のつき添いをしたことがありますか?」

背筋を伸ばすのは、お母さんの怒りのレベルが1のとき。敬語で話すのはレベル2のとき。お父さんのことを名前で呼ぶのは、レベル3のマックス。つまり、かなり怒っているということだ。

「送り迎えをしたことがしないから、そういうことが言えるんです。船に揺られたあと、ふたつも病院を受診したら、お義母さんがかわいそうでしょう」

「いや……まあ」

「『大変だけどたのむな』とか、『受診の日の夜ご飯は任せろ』とか、やさしい言葉をかけることはできないのですか?」

「う……」

しどろもどろのお父さんに、さらなる攻撃が続く。

「だいたい今日だってあなたのほうが先に帰ってきたのよね? なのに、作業着は脱ぎっぱなし、干してある洗濯物も――」

お母さんの声を遮り、スマホがアラーム音をかき鳴らした。

『緊急速報。地震です。強い揺れと衝撃に備えてください』
 
テーブルに置かれた皿がガタガタと震えている。食器棚がきしむ音を立てた。

「避難!」
 
お父さんの合図でいっせいに席を立ち、玄関へ走る。ガタガタと家が不規則に揺れはじめている。
 
靴を履き、外に飛び出た。すぐに揺れは収まったらしく、家がきしむ音も消えた。
 
周囲の家で、私たちみたいに避難している人はいない。

「みんなすっかり慣れてるよな。まあ、今のは震度2くらいってとこか」
 
お父さんの手には避難道具の入ったスーツケース、お母さんは防災リュックを背負っている。

「今月に入って二回目よね。大丈夫かしら……」

「どんどん頻度が増えてるよな」

さっきの小言を忘れ、お母さんはお父さんの腕にしがみついている。
 
家のなかに戻ってからも落ち着かない。さっきのが余震で、これから本震が起きる可能性だってある。

「ほら、俺の言ったとおりだろ?」

お父さんが自慢げに言ってきたけれど、聞こえなかったフリをした。代わりにお母さんが大きくうなずく。

「お父さん、昔から言ってたものね。この暑さは温暖化のせいだけじゃなくて、地核のせいだって」

「世界が夏だけに支配されてるのは、地核の回転が狂ってきたからだ。そのせいで地震が頻発している」

「その話はもういいって」
 
ボソッとつぶやいてもムダなこと。酔っぱらうと止められないことは、長年の経験でわかっている。

「地球の中心の構造は〝地殻〟と〝マントル〟と〝核〟にわかれている。卵に例えるなら、殻が〝地殻〟で白身が〝マントル〟。黄身の部分は――」

「〝核〟ね」
 
意気揚々とお母さんが答えた。

「そのとおり。地面から一キロ深くなるごとに温度は二〇度から三〇度上昇する。五〇キロ深いところでは一〇〇〇度、中心部の温度は五七〇〇度となり、太陽の温度とあまり変わらないんだ」
 
一字一句覚えている。私は冷めた総菜を箸でつまんで、ポトリと落とした。せめてもの反抗にも気づかず、赤ら顔でお父さんは続ける。

「核の回転が二〇〇九年に一時停止し、逆回転に変わったことが発表された。その後はめちゃくちゃな角度で回転してる。そのせいで通常は下がるはずの核の温度があがり続けているんだ」
 
地球の誕生後、核の温度は長い年月をかけて下がっていくとされていた。核の回転がおかしくなったせいで、温度があがり続けているというのがお父さんの主張だ。

「さすがお父さんね。そんな大変なことが起きているのに、なんで対策室の人たちは信じてくれなかったのかしら」
 
お父さんは昔、大学で地質学の教授をしていた。

「俺だって何度も主張したさ。防衛省の高温化対策室のメンバーに選ばれたときは、やっと俺の主張を信じてくれるって期待したのになあ」
 
あれは私が小学校五年生だったとき。お父さんが高温化対策室のメンバーに選ばれた。タイミングが悪く、お母さんはそのとき、交通事故に遭い入院していた。
 
放課後は、対策室の秘書の人が車で迎えに来るのが常で、会議が終わるまでの時間を、大きな建物のロビーで過ごした。
 
そこには目を見張るほど立派なグランドピアノがあって、それを弾くのが楽しみだった。お母さんが退院しても、小六のときにこの町に引っ越すまで、会議がある日はピアノを弾きに行っていた。

「結局、誰も信じてくれなかった」
 
お父さんが遠くを見るような目をした。

「ひどいわよね。あんなに主張したのに」

「根拠が薄いと言われたが、そんなことはない。おそらくあいつらも薄々は俺が正しいと知っている。トップシークレットにして、国民がパニックにならないようにしているんだろう」

あのころを思い出せば、苦いものが口のなかに広がっていく。
 
私の気持ちなんて知らずに、お父さんは「なあ」と私をまっすぐに見た。

「いずれ、地球はこわれる。お前も周りの子たちにそのことを――」

「やめてよ!」
 
とっさにテーブルを(たた)いていた。食器がさっきの地震よりも激しくさわいだ。

「地球がこわれるなんてありえない。そもそも国が認めてないんだよ」

「だからこそ、俺が伝えなくちゃいけないんだよ」
 
信じられない。まだお父さんは自分の説が正しいと思ってるんだ……。
 
お父さんが『地球がこわれる』という言葉を口にするたびに、関係が悪くなる。何回くり返したら理解してくれるんだろう。

「お父さんがインタビューで、『地球がこわれる』って言ったときの動画がまだネットに残ってるんだよ。そのせいで、私がなんて言われたか覚えてないの?」

「それは、まあ……」
 
眉間のシワを深くし、お父さんが缶ビールを持つ手に力を入れた。

「みんなから『うそつき』っていじめられて学校に行けなくなった。仲のいい友だちにもムシされて、陰口を言われて……」
 
世間は目立つ人を攻撃する。
 
ネットにさらされたお父さんの言葉は、何百万回も再生され、〝おかしなことを言う人〟として世間に広まった。
 
近所の人たちは陰口どころか、『ここに住まれてると迷惑なんだけど』と直接言ってくる人までいた。学校でも居場所がなくなり、誰もが冷ややかな目線を向けてきた。
 
転校することを告げた朝。みんなのホッとした顔が忘れられない。
 
逃げるようにこの町に引っ越してきた。そのときにはもう、愛想笑いの仮面を手に持っていた。

「悪かったと思ってる。でも、お父さんの言ったことは本当のことなんだ。この町にいればきっと助かる。今日も丈輝さんとこの息子が来たから話したけど、信じてもらえなかった」

「うそでしょう? この町の人にも言ってるの? あの動画を見られたらどうするのよ。また学校に行けなくなったら……」

「大丈夫だ。もうすぐ俺の説が本当のことだってわかるから」
 
ビールのおかわりを取りに席を立つお父さん。
 
あんなことを言わなければ、いじめられることも転校することもなかったのに。
 
お父さんが席につくのと入れ替わりに立ちあがった。

「もういらない。ごちそうさま」
 
反抗期なんかじゃない。お父さんが主張する説のせいで、人との関係にひびが入った。家族の関係までも、こわれようとしている。
 
どんなに私が苦しかったか、悲しかったか。
 
お父さんとわかり合える日なんて、きっと永遠にこない。
 
部屋の椅子に座り、スマホで地震速報を確認する。君沢町は震度2。ほかの町では震度3のところもあるようだ。
 
お父さんは、おばあちゃんのいるこの町への引っ越しを強引に決めた。海以外なにもない島では、過去のお父さんの発言に気づいている人はまだいない。

でも、時間の問題かもしれない。
 
あの動画を見られてしまったら、千秋に嫌われてしまう。桜輔だってそうだし、冬吏はもっと冷たくなるだろう。
 
いじめられたことがない人に、私の気持ちは絶対にわからない。教室で誰かが笑うだけで、自分のことを話しているように感じる。すれ違うときの視線でさえ、氷のように冷たく思える。

『学校での俺たちはうそつきだから』
 
冬吏はなぜ私が仮面をつけていることに気づいたのだろう。『俺たちは』ということは、冬吏も私と同じように仮面をつけているの?
 
考えごとをしていると、無意識に指が机の上で踊る。見えない(けん)(ばん)があるかのように、あの曲――『ラ・カンパネラ』を弾く。
 
もしあの日に戻れるなら、グランドピアノなんて弾かずに、インタビューを受けるお父さんの口を塞いでいただろう。
 
それならお父さんが、大学や高温化対策室をクビになることも、私がいじめられることも、転校することもなかったのだから。
 
私は信じない。地球がこわれる日なんて、絶対にこない。