下校時間になっても、町はまだ昼間の暑さを抱えこんでいる。
遠くの海に沈みゆく太陽が、最後の攻撃だと言わんばかりに光を放っていて、まぶしくて目を細めてしまう。
何度考えても、日本に四季があったなんて信じられない。毎日こんなに暑いのに、寒くて震える季節なんて本当にあったの?
千秋と帰るのは久しぶりだ。部活がない日以外は、ひとりで帰ることが多いから。
「でね、カナダとかノルウェーとかでは、紅葉も見られるし、冬には雪が降ることもあるんだって。まあ、レアケースらしいけど」
スマホの画面を印籠のように見せてくる千秋。画面には、雪だるまを作る現地の子どもが映っている。
「千秋は海外に行ってみたいの?」
「そういうわけじゃなくって、消えてしまった季節を体験してみたいだけ。あたしたちの年代って、夏以外の季節に関する名前がついてる子が多いじゃん。桜輔の桜は春、あたしが秋で、雪音と冬吏は冬。それなのに、自分の名前の季節を見たことも感じたこともないなんて不幸だと思わない?」
逆に、夏に関する名前はこの町では『不吉だ』と言われている。たしかに珍しい名前だけれど、東京にいたころは普通にいたし、悪く言われることはなかった。
「でもさ」と千秋がハンカチで汗をぬぐった。
「カナダもノルウェーも遠すぎるから、とりあえず卒業旅行で『SEASONS PARK』に行こうよ。あそこなら確実に秋を体験できそうだし」
坂道の途中にある四つ角に差しかかった。この町に数個しか設置されていない信号機が、黄色で点滅している。
「じゃあ、また――」
軽く手をあげかけた千秋が、なにかに気づいたように動きを止めた。
ふり返ると、軽トラックがのんびりしたスピードで坂道をのぼってくる。
「秋生さんじゃん」
千秋は誰でも名前で呼ぶクセがある。秋生は、私のお父さんの名前だ。
大きく手をふる千秋の腕をつかもうとしたけれど、ときすでに遅し。軽トラックは私たちの前で停車した。
助手席の窓を開け、お父さんが「おう」と白い歯を見せて笑った。
潮風と日差しに焼かれた肌は、土のように黒く、無精ヒゲがあごに影をつくっている。髪はいつものようにオールバック。にこやかな目元には、笑いジワがくっきりと刻まれている。
「今、帰りか。千秋ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったな」
「こんにちは。秋生さんは、真っ黒に焼けてるね」
「そうか?」と、自分の腕を眺めるお父さん。
「毎日、パネルをつけてちゃ黒くもなるよな。雪音、帰るなら乗ってくか?」
「……いい」
返事を予想していたのだろう、お父さんは「ん」と短く答え、車を発進させた。
トラックが去っていくのを見て、無意識に体に入れていた力をほどいた。
「雪音ってほんと、秋生さんに冷たいよね。まだ反抗期の真っ最中って感じ?」
「そういうわけじゃないよ。照れくさいだけ」
「あたしも、お願いごとがあるときだけパパにやさしくしてあげるから、一緒だね」
全然違う、と思ったけれど、笑顔の仮面をつけたままさよならをした。
家のほうへ向かう足を意識して止める。お母さんは午後、おばあちゃんの受診につき合うと言っていた。今、家に戻ればお父さんとふたりきりになってしまうだろう。
なるべくお父さんと顔をつき合わせたくない。
坂道をさらに下り、町外れにある君沢湖へ寄ることにした。大きな湖のすぐ下にある道路は途中でぷっつり途切れていて、海面が押し寄せている。そのあたりにあった家は海水に浸かっていて、かろうじて水際に残っている家も、そのほとんどが無人だ。
これ以上海面が上昇したら、君沢湖は海と同化してしまうだろう。
今日は穏やかな湖面。朱色に染まる水に流れる雲が映り、風が吹くたびに湖面を揺らしている。
やっと呼吸ができたような気分になる。
水に手をつけてみると、お湯に近い温度。昔は、海も川も湖も冷たかったなんて信じられない。
「あ……」
思わず声が出た。最近取り壊された家の敷地に、同じ高校の制服を着た男子が湖に向かって立っている。
風にやわらかそうな髪を泳がせているのは――冬吏だ。
微動だにせず湖面を見ていた冬吏が、ふと私のほうをふり向いた。
――ヤバい。
じっと見つめていたなんて、まるでストーカーだ。
気づかないフリをするには、あまりにも長く視線が合ってしまった。
当たり前のように冬吏が近づいてきた。
私の前に来ると、彼は軽く首をかしげるた。
「なにしてんの?」
笑顔の仮面をつけようとしても、なぜか表情を作ることができない。
教室だと愛想よく話しができるのに、お気に入りの時間を邪魔されたような気分。
それに、今朝も冷たくされたし……。
「そっちこそ。今日は部活でしょ」
そっけなく返し、湖に視線を戻す。遠くの海に夕日が落ちかけている。
水平線を燃やしながら消えゆく太陽。キラキラ輝く海も美しいと思うけれど、秒ごとに色の変わる空を映す湖のほうが好き。
「こんなきれいな空の日は、部活をサボるしかないから」
見あげた冬吏の瞳のなかに、空があった。呪文にかかったように視線を外すことができないまま、なんとか口を開く。
「なんで空がきれいだと部活を休むことになるの?」
「湖に映る空を見るのが好きなんだ」
私と同じだ……。意外すぎる共通点に、気づけば息を止めていた。
冬吏は目を細め、「で」と続けた。
「今日の夕焼けは、この数ヶ月でいちばんきれいだと思った。だから、こっそり逃げて来た」
「桜輔、怒ってなかった?」
「先生に呼び出されてたから大丈夫。たぶん茶髪のことだろうな。さすがに染めすぎだし」
「ああ……そうだね」
「普段はもう少し西のほうから見てるんだけど、日暮れに間に合いそうもなかったからここにした」
ふたりきりでこんなに長く話したことがなかった。冷たい態度しか取られたことがないのに、なぜやさしく話をしてくれるの?
「私も、ここから見る景色が好き。雨の日も、案外きれいなんだよ。雨が無数にダンスしてるみたいでかわいいの」
「それは知らなかった」
「でも、本当は雪が見てみたい。この町に雪が降るなんて想像つかないけど、一生忘れられないくらいきれいだと思う」
不思議だ。こんな話、千秋にだってしたことがないのに、勝手に言葉へと変換されていく。
雪なんて、もう何十年と日本では降っていない。てっきりバカにされると思ったけれど、冬吏が湖面を見つめる瞳は変わらずに穏やかだった。
「雪が降る光景は考えてもみなかった。俺たちの名前の季節だもんな」
「え……? あ、うん」
冬吏が私に視線を合わせた。こんなやさしい表情をすることもあるんだ……。
冬吏と雪音。私たちは、体験したことがない季節――冬の名前を持っている。
「そういえばさ」と、なにか思い出したように冬吏が言った。
「雪って、降るときに音がするんだって。どんな音かは知らないけど」
「まさか。雨と違って静かに落ちるって聞いたけど」
そう言う私に、冬吏は眉をひそめる。
「じゃあ、なんで雪音って名前をつけたんだろうな」
聞かれるまで考えたことがなかった。
「どうだろう。今度聞いてみる」
「この町に雪が降るところを、俺も見てみたい。クリスマスの時期とかなら最高だよな。冬という季節が残っていたころでも、クリスマスに雪が降ることは珍しかったんだって」
口の端に笑みまで浮かべる冬吏。普段と違いすぎる態度に違和感しか覚えない。
彼は……本当に冬吏なの?
「ひょっとして、冬吏のにせもの? 違うなら、えっと……双子とか?」
いつもなら嫌われないような言葉を選んでから話すようにしているのに、無意識にそう尋ねてしまっていた。
「にせもの? 双子?」
きょとんとした顔の冬吏が、次の瞬間、こらえきれない様子で噴き出した。
「そんなわけないだろ。にせものってなんだよ。それに俺、ひとりっ子だし」
「だよね……ごめん」
なに言ってるんだろう。外気よりも熱く顔が火照り、めったに出ない汗が伝った。
「違うの。ほら、教室ではあんまり話をしない、っていうか。……嫌われてると思ってたから」
一瞬、目を見開いた冬吏が、ゆるゆると首を横にふった。
「嫌ってなんかいない。ただ、少し苦手なだけ。雪音も俺のこと、同じふうに思ってるよね?」
やっぱりよく思われていなかったんだ……。
返す言葉が見つからないまま、気づけば視線が冬吏のお腹あたりに落ちていた。
「でも」と冬吏が声のトーンをあげた。
「学校での雪音は苦手だけど、ここでの雪音は苦手じゃない」
「私……冬吏になにかしたの?」
「なんにも」と、冬吏はさみしそうに笑う。
ひゅう、と音を立て、昼間の暑さを残した風が私たちの間をすり抜けた。
「ただ、学校での俺たちはうそつきだから」
「……え? それって、どういう意味?」
冬吏は、もうつま先を家のほうへ向けていた。
「別に意味はない。じゃあ、また」
私の返事も聞かずに、冬吏は長い影を従え、坂道をのぼっていく。
冬吏の上空に、夕焼けを追いやるように藍色が広がっていた。
今日もこの町に、もうすぐ夜がやってくる。
遠くの海に沈みゆく太陽が、最後の攻撃だと言わんばかりに光を放っていて、まぶしくて目を細めてしまう。
何度考えても、日本に四季があったなんて信じられない。毎日こんなに暑いのに、寒くて震える季節なんて本当にあったの?
千秋と帰るのは久しぶりだ。部活がない日以外は、ひとりで帰ることが多いから。
「でね、カナダとかノルウェーとかでは、紅葉も見られるし、冬には雪が降ることもあるんだって。まあ、レアケースらしいけど」
スマホの画面を印籠のように見せてくる千秋。画面には、雪だるまを作る現地の子どもが映っている。
「千秋は海外に行ってみたいの?」
「そういうわけじゃなくって、消えてしまった季節を体験してみたいだけ。あたしたちの年代って、夏以外の季節に関する名前がついてる子が多いじゃん。桜輔の桜は春、あたしが秋で、雪音と冬吏は冬。それなのに、自分の名前の季節を見たことも感じたこともないなんて不幸だと思わない?」
逆に、夏に関する名前はこの町では『不吉だ』と言われている。たしかに珍しい名前だけれど、東京にいたころは普通にいたし、悪く言われることはなかった。
「でもさ」と千秋がハンカチで汗をぬぐった。
「カナダもノルウェーも遠すぎるから、とりあえず卒業旅行で『SEASONS PARK』に行こうよ。あそこなら確実に秋を体験できそうだし」
坂道の途中にある四つ角に差しかかった。この町に数個しか設置されていない信号機が、黄色で点滅している。
「じゃあ、また――」
軽く手をあげかけた千秋が、なにかに気づいたように動きを止めた。
ふり返ると、軽トラックがのんびりしたスピードで坂道をのぼってくる。
「秋生さんじゃん」
千秋は誰でも名前で呼ぶクセがある。秋生は、私のお父さんの名前だ。
大きく手をふる千秋の腕をつかもうとしたけれど、ときすでに遅し。軽トラックは私たちの前で停車した。
助手席の窓を開け、お父さんが「おう」と白い歯を見せて笑った。
潮風と日差しに焼かれた肌は、土のように黒く、無精ヒゲがあごに影をつくっている。髪はいつものようにオールバック。にこやかな目元には、笑いジワがくっきりと刻まれている。
「今、帰りか。千秋ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったな」
「こんにちは。秋生さんは、真っ黒に焼けてるね」
「そうか?」と、自分の腕を眺めるお父さん。
「毎日、パネルをつけてちゃ黒くもなるよな。雪音、帰るなら乗ってくか?」
「……いい」
返事を予想していたのだろう、お父さんは「ん」と短く答え、車を発進させた。
トラックが去っていくのを見て、無意識に体に入れていた力をほどいた。
「雪音ってほんと、秋生さんに冷たいよね。まだ反抗期の真っ最中って感じ?」
「そういうわけじゃないよ。照れくさいだけ」
「あたしも、お願いごとがあるときだけパパにやさしくしてあげるから、一緒だね」
全然違う、と思ったけれど、笑顔の仮面をつけたままさよならをした。
家のほうへ向かう足を意識して止める。お母さんは午後、おばあちゃんの受診につき合うと言っていた。今、家に戻ればお父さんとふたりきりになってしまうだろう。
なるべくお父さんと顔をつき合わせたくない。
坂道をさらに下り、町外れにある君沢湖へ寄ることにした。大きな湖のすぐ下にある道路は途中でぷっつり途切れていて、海面が押し寄せている。そのあたりにあった家は海水に浸かっていて、かろうじて水際に残っている家も、そのほとんどが無人だ。
これ以上海面が上昇したら、君沢湖は海と同化してしまうだろう。
今日は穏やかな湖面。朱色に染まる水に流れる雲が映り、風が吹くたびに湖面を揺らしている。
やっと呼吸ができたような気分になる。
水に手をつけてみると、お湯に近い温度。昔は、海も川も湖も冷たかったなんて信じられない。
「あ……」
思わず声が出た。最近取り壊された家の敷地に、同じ高校の制服を着た男子が湖に向かって立っている。
風にやわらかそうな髪を泳がせているのは――冬吏だ。
微動だにせず湖面を見ていた冬吏が、ふと私のほうをふり向いた。
――ヤバい。
じっと見つめていたなんて、まるでストーカーだ。
気づかないフリをするには、あまりにも長く視線が合ってしまった。
当たり前のように冬吏が近づいてきた。
私の前に来ると、彼は軽く首をかしげるた。
「なにしてんの?」
笑顔の仮面をつけようとしても、なぜか表情を作ることができない。
教室だと愛想よく話しができるのに、お気に入りの時間を邪魔されたような気分。
それに、今朝も冷たくされたし……。
「そっちこそ。今日は部活でしょ」
そっけなく返し、湖に視線を戻す。遠くの海に夕日が落ちかけている。
水平線を燃やしながら消えゆく太陽。キラキラ輝く海も美しいと思うけれど、秒ごとに色の変わる空を映す湖のほうが好き。
「こんなきれいな空の日は、部活をサボるしかないから」
見あげた冬吏の瞳のなかに、空があった。呪文にかかったように視線を外すことができないまま、なんとか口を開く。
「なんで空がきれいだと部活を休むことになるの?」
「湖に映る空を見るのが好きなんだ」
私と同じだ……。意外すぎる共通点に、気づけば息を止めていた。
冬吏は目を細め、「で」と続けた。
「今日の夕焼けは、この数ヶ月でいちばんきれいだと思った。だから、こっそり逃げて来た」
「桜輔、怒ってなかった?」
「先生に呼び出されてたから大丈夫。たぶん茶髪のことだろうな。さすがに染めすぎだし」
「ああ……そうだね」
「普段はもう少し西のほうから見てるんだけど、日暮れに間に合いそうもなかったからここにした」
ふたりきりでこんなに長く話したことがなかった。冷たい態度しか取られたことがないのに、なぜやさしく話をしてくれるの?
「私も、ここから見る景色が好き。雨の日も、案外きれいなんだよ。雨が無数にダンスしてるみたいでかわいいの」
「それは知らなかった」
「でも、本当は雪が見てみたい。この町に雪が降るなんて想像つかないけど、一生忘れられないくらいきれいだと思う」
不思議だ。こんな話、千秋にだってしたことがないのに、勝手に言葉へと変換されていく。
雪なんて、もう何十年と日本では降っていない。てっきりバカにされると思ったけれど、冬吏が湖面を見つめる瞳は変わらずに穏やかだった。
「雪が降る光景は考えてもみなかった。俺たちの名前の季節だもんな」
「え……? あ、うん」
冬吏が私に視線を合わせた。こんなやさしい表情をすることもあるんだ……。
冬吏と雪音。私たちは、体験したことがない季節――冬の名前を持っている。
「そういえばさ」と、なにか思い出したように冬吏が言った。
「雪って、降るときに音がするんだって。どんな音かは知らないけど」
「まさか。雨と違って静かに落ちるって聞いたけど」
そう言う私に、冬吏は眉をひそめる。
「じゃあ、なんで雪音って名前をつけたんだろうな」
聞かれるまで考えたことがなかった。
「どうだろう。今度聞いてみる」
「この町に雪が降るところを、俺も見てみたい。クリスマスの時期とかなら最高だよな。冬という季節が残っていたころでも、クリスマスに雪が降ることは珍しかったんだって」
口の端に笑みまで浮かべる冬吏。普段と違いすぎる態度に違和感しか覚えない。
彼は……本当に冬吏なの?
「ひょっとして、冬吏のにせもの? 違うなら、えっと……双子とか?」
いつもなら嫌われないような言葉を選んでから話すようにしているのに、無意識にそう尋ねてしまっていた。
「にせもの? 双子?」
きょとんとした顔の冬吏が、次の瞬間、こらえきれない様子で噴き出した。
「そんなわけないだろ。にせものってなんだよ。それに俺、ひとりっ子だし」
「だよね……ごめん」
なに言ってるんだろう。外気よりも熱く顔が火照り、めったに出ない汗が伝った。
「違うの。ほら、教室ではあんまり話をしない、っていうか。……嫌われてると思ってたから」
一瞬、目を見開いた冬吏が、ゆるゆると首を横にふった。
「嫌ってなんかいない。ただ、少し苦手なだけ。雪音も俺のこと、同じふうに思ってるよね?」
やっぱりよく思われていなかったんだ……。
返す言葉が見つからないまま、気づけば視線が冬吏のお腹あたりに落ちていた。
「でも」と冬吏が声のトーンをあげた。
「学校での雪音は苦手だけど、ここでの雪音は苦手じゃない」
「私……冬吏になにかしたの?」
「なんにも」と、冬吏はさみしそうに笑う。
ひゅう、と音を立て、昼間の暑さを残した風が私たちの間をすり抜けた。
「ただ、学校での俺たちはうそつきだから」
「……え? それって、どういう意味?」
冬吏は、もうつま先を家のほうへ向けていた。
「別に意味はない。じゃあ、また」
私の返事も聞かずに、冬吏は長い影を従え、坂道をのぼっていく。
冬吏の上空に、夕焼けを追いやるように藍色が広がっていた。
今日もこの町に、もうすぐ夜がやってくる。



