救助員が千夏ちゃんと母親の体をロープで固定した。

不安そうな千夏ちゃんが、夏海を見つけて手を伸ばした。

「あとで会える?」

「会えるさ。しっかりつかまってなよ」

「うん」
 
同じ漢字を名前に持つふたりは、すっかり仲良しさんだ。

「本当にありがとうございました」
 
何度も頭を下げながら、ふたりは上昇していく。
 
千夏ちゃんのお父さんの無事がわかり、救助隊がそこまで運んでくれるそうだ。
 
お父さんが設置したライトのおかげで、屋上は昼間のように明るい。

「あとは高川さんを運んでもらうだけか。まさか階段で転ぶなんてな」

夏海がそう言って、「痛い!」と足首を押さえている高川さんを見やった。

「夏海は大丈夫?」

「平気平気。ていうかさ――」と、土埃で汚れた頬を拭った。

「雪音と知り合ってそんなに経ってないのに、一生ぶん冒険した気がしてる。いろいろサンキュ」

「これで終わりじゃないよ。学校が再開したら、一緒に授業受けるんだから」

「まあ、な」
 
風を巻き起こし、高川さんを乗せたヘリコプターが遠ざかっていく。

「なんの話してんの? あたしも入れてよ」
 
私たちの肩を抱く千秋に、

「なんでもねえよ」
 
と夏海が答えた。
 
そう、なんでもないこと。
 
毎日のなかに転がっているいいことや悪いこと。つまらないことも、悲しいことも、非日常の世界では輝いて見える。
 
なんでもないことがどれほど大切だったかがわかった。そして、誰よりもそばにいたい人にも気づくことができた。

「桜輔に想いを伝えられてよかったね、って話」

そう言うと、千秋は一瞬で顔を真っ赤にした。

「あたしからじゃないもん。桜輔が先に……でもまあ、なんていうか……しあわせだよ」

「はいはい」
 
やってられないと肩をすくめ、夏海はトイレに行ってしまった。

「雪音の恋はどうなの?」
 
上目づかいで千秋が尋ねた。

「明日になったら伝えるつもり」

「えーマジで! あたしもこっそり見させて!!」

「冗談でしょ。そんなの絶対にダメ」
 
興奮する千秋をなだめていると、
 
――ジジ。
 
校舎のスピーカーから音が聞こえた。

『皆さんにお知らせします』

「冬吏の声じゃね?」

千秋のもとにやってきた桜輔が言った。

「うん……」
 
いつの間に行ったんだろう。
 
屋上に残っている人が、動きを止めて耳を澄ませている。

『校舎内の壁が崩れていること、柱にヒビが入っていることがわかりました。崩落の危険性があるため、校舎にいる人はすぐに避難してください。体育館の安全を確認し終わるまで、校庭にて待機してください』
 
放送が終わると、みんな素直に屋上から避難をはじめた。冬吏の言葉を信じてくれていることがただうれしかった。

校庭に出ると、まだ雪のような灰が降り続いていた。
 
たくさんの人が夜空を見あげている。ポケットのなかから、学生証の裏に挟んである『私との約束』を書いた紙を取り出した。



お父さんに謝る

みんなで生き残る

『ラ・カンパネラ』を弾けるようになる
 
冬吏に想いを伝える



残る約束はふたつ。そのうちのひとつは、明日――ううん、今日にでも冬吏に伝えたい想い。
 
向こうから夏海がなぜかダッシュで駆けてきた。

「なあ、今思い出したんだけど――」
 
言葉を切り、はあはあと荒い呼吸をくり返した。

「雪音のお父さんって、風岡秋生って名前?」

「そうだけど、なんで?」

「やっぱりそうなんだ。これ見ろよ」
 
夏海がスマホを開き、写真フォルダを表示させた。

「母親の遺品を写真に撮って保存しててさ。そこに、風岡秋生って名前が書いてあることを思い出したんだ」
 
この資料は見たことがある。『全国高温化防止会議』のメンバーがひとりずつ写真つきで載ってある。今の無精ヒゲが信じられないくらいスッキリした顔のお父さんが笑っている。夏海が指さす写真には、前髪だけ赤い色の女性が映っていた。

「おじさんの顔、どっかで見たことあるなって思ってたんだよな。うちの母親と同期だったなんて、すごくね?」

「すごい偶然……。私、当時の夏海に会ったことあるのかな」

「それはないね。母親がメンバーに加わったのは、おじさんがクビ……辞職する直前だったし。それに、当時は離婚訴訟が長引いてたし、ウチは父親に半分監禁されてたような状況だったから」
 
顔をしかめる夏海に、「ごめん」と謝った。

「謝ることないよ。過去は変えられないし、気にしてない」
 
それはうそだと思った。傷ついた経験が、夏海をひとりぼっちにさせた。ひとりでいることを選ばせたのだから。
 
夏海の傷を()やせたらいいな。この町に人が戻ることはないかもしれないけれど、一緒に夏海と残りの高校生活を送りたい。

「そんな顔すんなよ。雪音だっていろいろあったんだろ?」

「覚えてるけど、夏海と一緒でもう気にしてない」

「真似すんな」
 
クスクス笑う夏海。遠くからヘリコプターの音が聞こえてくる。

「小学生のときにいじめられたことは忘れない。でも、それが原因でお父さんの主張する説を信じてあげられなくなったの」

「これから信じてあげればいいんじゃね?」

「そうだね。過去は変えられないけど、今は変えることができるもんね」
 
さっきから冬吏の姿が見えない。
 
集まる人を見渡していると、大地さんがお父さんに近づき、なにか話しかけている。と、思ったらふたりは強く握手を交わした。

「……え?」
 
まるで懐かしい友だちに会ったかのように、お父さんも大地さんも顔をクシャクシャにして笑っている。
 
――大地。
 
冬吏のお父さんの名前である大地という名前を、ついさっき見た気がする。
 
そう……夏海が見せてくれた写真だ。

ひょっとして、お父さんと大地さんは同期だったの?

「夏海…… さっきの写真、もう一度見せて」

「ん? いいよ」
 
画面にお父さんの名前と写真が表示されている。ほかのメンバーの名前をひとりずつ目で追っていく。
 
大地さんの名前を見たのは気のせいだったの?
 
急がないと。画面を目で追っていると、ようやく大地さんの名前があった。
 
それを見た瞬間、最初は意味がわからなかった。

「そんな……」
 
つぶやく声を、校庭に着陸したヘリコプターの爆音が吹き飛ばした。

「手伝ってくるよ」
 
夏海がスマホを手に駆けていくのをぼんやり見送る。
 
世界がこわれるほどの衝撃が襲ってくる。
 
息をするのも忘れるくらい、じっと考えているうちにひとつの答えが浮かんだ。それは、私が想像もしていなかった真実だった。
 
――冬吏に会わなくては。
 
会って、彼の口から本当のことを聞かなくちゃ……。