水平線に夕日が溶けようとしている。

金色の光にきらめく海は、内核が爆発するなんて想像がつかないほど美しい。

「きれいだね」
 
屋上で椅子に座ったままおばあちゃんが言った。

「うん」
 
空には徐々に月が主張しはじめている。十八時二十分、間もなくそのときがやってくる。
 
家族で過ごしたい人たちはそれぞれの教室にいて、お酒を飲みたい人は調理室で盛りあがっている。屋上にいるのは、五人くらい。

「こないだ、家に帰りたいなんて言ってごめんね」
 
まぶしそうに目を細めながらおばあちゃんが言った。
 
ずっと気にしてたんだろうな……。
 
誰だって、住み慣れた家にいたいと願うもの。これが最後じゃないと信じていてる私だって、家に戻りたい気持ちがないわけじゃない。

「帰りたいね」
 
そう言うと、おばあちゃんは静かにうなずいた。

「雪音」
 
お母さんがドアのところに立っていた。

「おばあちゃんも教室に戻りましょう。調理室からご飯いただいてきたの」

「お父さんは?」

「いるぞ」と、うしろからお父さんが顔を出した。

「ケーキはないけど、菓子パンがあるからクリスマス会やろうぜ」
 
いよいよこれから、ってときなのに、すっかり気が抜けているみたい。
 
まあ、これがお父さんのいいところなんだよね……。

「先に行ってて。あと、調理室にいる人たちって、火を使ってないよね」

「火は使わないように言ってるが、念のため、宴会をしてる人たちはほかの場所に移動させた。高川のおやじ、文句言いまくってたけどな」
 
おばあちゃんの腕を支えるお父さんに、「ねえ」と声をかけた。

「私、この町に来て、人を信じることって難しいと思ってたけど、信じてもらうことも難しいって知ったよ」

「そうだな。誰だって自分の身にふりかかる悪いことは信じたくないからな。でも、お父さんのおかげで学んだんならよし。信じる者は救われるのであーる」
 
おどけるお父さんを、ドンとおばあちゃんが押した。

「調子に乗ってんじゃないよ。雪音ちゃんたちがいたおかげで、みんな避難できたんだから感謝しなさい」

「なんで俺が――」
 
ブツブツ文句を言うお父さんに思わず笑ってしまった。

「はいはい。ふたりともそのへんにして戻りますよ」

お母さんが敬語になったことに気づいたおばあちゃんが、慌てて校舎のなかに消えた。

そのときだった。
 
一階のあたりから叫び声が聞こえた。
 
柵に駆け寄り見下ろすと、校門に向かってダッシュしている人が見えた。
 
……冬吏だ。

「冬吏!」
 
が、冬吏は気づかず坂道に消えてしまう。遅れて桜輔が校舎を飛び出した。

「おい!」とお父さんが声を出すと、桜輔は足に急ブレーキをかけた。

「なにかあったのか!? 」
 
柵から身を乗り出すお父さんに、

「港です! 港に船が到着したんです!! 」
 
冬吏のあとを追い、桜輔の姿も暗闇に消えた。

「君は戻りなさい! ――ダメだ」
 
踵を返し、お父さんが駆け出した。

「私も行く」

「ダメだ」と足を止め、お父さんが言った。

「でも……」

「お父さんが車を出すからここに残りなさい。母さん、頼んだ」
 
お母さんが私の腕をつかむのを確認すると、お父さんは階段をおりていく。

「ほら、教室に戻るわよ」
 
でも、でも……。

「港にたくさん人がいたら? お父さんの車に乗り切れなかったらどうするの?」

「それでも絶対にダメ。お願いだから言うことを聞いて」
 
心配してくれているのは痛いほどわかるけれど、このまま知らないフリをするなんてできない。

「もしも、小さな子どもがいたら? お母さんがその子の親だったら?」
 
腕から逃れようともがくけれど、見たこともないほど険しい表情でお母さんはつかんでくる。
 
どうしよう……。
 
先に階段をおりていたおばあちゃんが、

「雪音ちゃん、あきらめなさい」
 
そう言った。

「でも……!」

「親なら子どもの命を守りたいと思うのが当たり前。雪音ちゃんの気持ちはわかるけど、お母さんの言うことを聞きなさい」

「わかるよ。ふたりの言ってること、ちゃんとわかってる。でも、私は自分と約束したの。みんなで生き残るって……!」
 
けれどふたりは厳しい表情を崩さない。
 
どうしよう、どうすればいいんだろう……。
 
足音が聞こえ、踊り場に高川さんが現れた。すでに酔っているのか、薄暗いのに赤ら顔なのがわかる。

「あれ? 風岡のおやじさんは?」

「すみません。今、出ています」
 
お母さんが答えると、高川さんが急に難しい顔になった。

「困ったな。じゃあ、奥さんでいいや。調理場まで来てくれる?」

「今はちょっと行けそうにありません。なにかありましたか?」

「それがさ、調理室の壁が崩れてるんだ。前からのものなのか、最近起きたものなのかわからなくて、ガス管も近いし……」

「え、そうなんですか? 形状は?」
 
腕をほどいたお母さんが、階段を一段おりた。

「じいさんばっかりで誰もわかんねえ。奥さん、一度見てもらえないかな」

「行っておいで」とおばあちゃんが言った。

「雪音はわたしが連れてくから。壁が崩れてるのなら、体育館とかに移動しなくちゃいけないだろ?」

「でも……」
 
私を心配そうに見るお母さん。
 
おばあちゃんが、「聞きなさい」と声を低くした。

「火事や爆発でも起きたら大変です。それともなんですか? 年寄りの言うことは信用できないっていうことですか?」

「そんなことありません。高川さん、行きましょう」
 
逃げるように高川さんと階段をおりていった。
 
お母さんが怒るときのサインは、どうやらおばあちゃんを見て学んだことのようだ。

「さて」と、おばあちゃんが私に背を向けた。

「わたしはじいさんの写真とお話でもしてようかね。悪いけど、じいさんとふたりっきりにしてもらいたいんだけど?」

「……え? それって私たちの教室で?」

「校舎が崩れでもしたら、最後にじいさんと話をしなかったことを後悔しそうだからね。雪音ちゃんも、後悔をしないようにね」
 
ニッと笑っておばあちゃんは階段をおりていく。
 
私を自由にしてくれるってこと? ひょっとして、高川さんも私たちの会話を聞いていて、お母さんから離してくれたの……?

「おばあちゃん……ありがとう」

「なんのことかわからないけど、お母さんが戻る前に教室に戻ること。でないと、嫁姑問題に発展しちまうからね」

笑い声を残し、おばあちゃんは廊下の向こうに消えた。
 
階段を駆けおり、靴を履くのももどかしく外に飛び出すと、目の前をお父さんの車が通った。

「お父さん!」
 
急ブレーキをかける車に駆け寄り、助手席に座った。

「おい、お前……」
 
不機嫌そうに言ったあと、今はそれどころじゃないと気づいたのか、私がシートベルトを締めるのを待ってからアクセルを踏んだ。
 
シルエットになった木々がうしろへ流れていく。

「いいか、作戦はこうだ。港にいる人を、車に乗せられるだけ乗せる。お前たちは残りの人を徒歩で案内しろ。学校でおろしたらすぐにまた迎えに戻るから」

「わかった」

「荷物は全部置いていくように言うんだ。文句を言うヤツがいても相手にするな。説得する時間のぶん、ほかの人や雪音の友だちを危険にさらすことになる」

「うん」

「雪音」お父さんが横目で私を見た。

「必ず生き延びろよ」

「――約束する」
 
夕暮れを割るように、車は猛スピードで進んでいる。
 
小学校の校庭に入ると、臨時の港が見えた。桜輔と千秋が何人かの人たちと歩いてくる。ヘッドライトに照らされ、いっせいに足を止めた。

「千秋!」

「雪音! 来てくれて助かった~。この子たちをお願い」
 
千秋が連れているのは、小学生や中学生くらいの男女四人。

運転席から飛び出したお父さんが、荷台を開けた。

「みんな早く乗れ。君たちも早く!」
 
千秋が小学生の子を乗せながら、港をふり返った。

「あたしは大丈夫。まだ港に何人かいるんです」

「乗れ!」
 
お父さんの(ほう)(こう)に、小学生の女の子がビクンと体を跳ねさせた。

「君たちはもうじゅうぶんやった。ひとりでも多くの人を助けたいのはわかるが、君たちも救助されるべきひとりなんだ」

「あ、いたいた」

夏海が子どもたちの親らしき人を連れてきた。

「ラッキー。車があるならみんなで乗れるじゃん」
 
夏海はそう言うと、さっさと自分だけ荷台に乗ってしまった。親たちも子どもたちを荷台に乗せはじめる。
 
お父さんと(たい)()するように立った千秋は、納得できないらしく怒った顔をしている。

「あたしは港に戻ります。まだ時間はあるし、いざとなったら走るから」

「千秋」私が反対すると思ったのだろう、千秋はプイと横を向いてしまった。

「じゃあ、一緒に行こう」

「な……!」
 
千秋より先にお父さんが悲鳴のような声をあげた。

「さっきお父さんと約束しただろ。いいから乗れ」

「お父さん。お願いだから行かせて」
 
一瞬ぽかんと口を開けたお父さんが、ブルブルと首を横にふった。

「ダメに決まってるだろ。ほら、さっさと――」

「必ず生き延びるから早く行って。千秋、行こう」
 
うれしそうにほほ笑み、港に向かって駆け出す千秋。
 
その前に、桜輔が立ちふさがった。

「……車に乗ろう」

「は? ちょっと、こんなときにふざけないでよね」

「ふざけてない。学校に戻ろう」

いつもの陽気さもなく、低い声で言う桜輔。

「待ってよ。だってみんなで助けるって――」

「生きてほしいから。千秋に生きていてほしいから」
 
桜輔の声は震えていた。

「待ってよ。なんでそうなるの?」
 
千秋は泣いていた。大粒の涙が薄暗い世界で宝石のように光る。
 
理不尽さに怒っているというより、覆せない現実を悲しんでいる。そんなふうに思えた。

「桜輔が残るなら、私もそうさせて。だってやっとわかり合えたのに。やっと、伝えられたのに……」

「必ず戻るから」

「イヤ! お願い、お願いだから……私も……っ!」
 
足を踏ん張る千秋を軽々と持ちあげると、桜輔は荷台に乗せた。

「夏海、あとはたのむわ」

「任せて」
 
夏海が降りようとする千秋を強引に座らせた。
 
私を見て桜輔が、あごで荷台を示してきた。

「雪音も乗ってくれ」

「それはできない。私は港に行く」

「雪音!」

 腕を伸ばすお父さんをかわし、あとずさった。

「どうしても港に行かなくちゃいけないの。そこに……私の好きな人がいるの。今、会わないと一生後悔するから」
 
抵抗していた千秋が、動きを止めた。

「雪音……」

「千秋、ごめんね。お父さんも、ほら早く行って」
 
そう言ってから走り出す。

港はすぐ先だ。そこに私の大切な人がいる。

「なあ」と並走しながら桜輔が言った。

「ひょっとして雪音の好きな人って、冬吏のこと?」

「そうだよ。冬吏のことが好き」
 
なぜ悲しくないのに涙があふれるのだろう。
 
きっと心が冬吏を求めているからだ。大好きな人に会えるしあわせを、心が感じているからなんだ。
 
船が見えてきた。冬吏のうしろ姿が頼りない照明に照らされている。
 
操縦士らしき若い男性が、冬吏を怒鳴っている。
 
コンクリートの上には泣くじゃくっている三歳くらいの女の子と、困った様子で立ちすくむ母親が見える。

「冬吏を入れて四人だな」
 
桜輔が言ったと同時に、足元がぐらついた。
 
地響きのような音が()いあがってくる。
 
操縦士が慌てて船からおり、こっちに向かって走ろうとして派手に転んだ。
 
――ゴゴゴゴゴ!
 
鈍い音とともに、海が激しく波を打つ。まるで地面がトランポリンになったように跳ね、あっけなく転がってしまった。

「雪音!」
 
冬吏が左右に体をふられながら駆けてくるのが見えた。

「冬吏!」

体を起こすが、揺れはさらにひどくなっている。校庭の木々が揺れ、羽音を激しく鳴らした。建物のきしむ音、なにかが崩れる音がいたるところから聞こえる。

泣いている女の子に、母親が覆いかぶさってその身を守っている。
 
操縦士が校舎へ逃げようとするのを、桜輔が止めた。

「ここは海に沈む。山の上の高校へ!」

「山にのぼれって!?  ……わかったよ」
 
地理感がないのか、操縦士が違う道に駆けていこうとするので、桜輔が先導した。
 
ひときわ激しい揺れが起きたと思ったら、さっきまで転んでいた場所から蒸気が音を立てて噴き出した。湯気がもうもうと立ちこめる。

「なによ、なによこれ!」
 
パニックになった母親が泣き叫ぶ。
 
――ゴゴゴゴゴ!
 
すぐそばで地球が叫んでいる。地中から突きあがる揺れに、動くことができない。
 
冬吏が何度も転びながら母親のもとへ向かう。私も、這うような格好で急いだ。
 
――ガシャン!
 
校舎の窓ガラスが割れる音が何度も聞こえる。揺れは収まるどころか激しさを増し、砂埃が視界を悪くした。

「誰か、誰かっ!! 」
 
母親のもとに駆けつけた冬吏が、無理やり立たせようとする。

「止めて! 誰か助けてっ!? 」

「落ち着けって。早く逃げないと」

パニックなった母親の下で、女の子は火がついたように泣いている。

「大丈夫だよ」と声をかけた。

「お姉ちゃんが抱っこして、山の上まで走るからね」
 
まだ泣き続ける女の子を抱きかかえ、もと来た道へ急ぐ。
 
母親もやっと緊急事態に気づいたのだろう、冬吏に支えられ走り出した。
 
が、すぐに激しい揺れに足を取られそうになる。
 
坂道まで戻ると、町から光が消えていた。
 
電柱は倒れ、いくつかの家が崩壊し白い煙をあげている。遠くに出火している家も見える。

「雪音、代わるよ」

私の腕から女の子を抱き取ると、冬吏は坂道をのぼっていく。
 
前方から「そっちじゃない!」と桜輔の声がしている。さっきの操縦士がまた道を間違えたのだろう。
 
いつの間にか泣きやんだ女の子が、私を見ていることに気づいた。

「大丈夫? どこも痛くない?」
 
そう尋ねるが、サッと冬吏の胸に顔を隠してしまった。

足を速めて並ぶと、やっと冬吏の顔がちゃんと見ることができた。

「みんなは無事か?」
 
自分のことよりいつも周りのことを考えている冬吏。彼がヒーローになりたいと言っていたことを思い出した。

「お父さんの車で向かってる。おろしたら迎えに来てくれるはず」

「間に合うといいな……」
 
前へ進みながら、冬吏は何度もうしろをふり返っている。
 
風もないのに木々が激しく揺れている。

「千夏」母親が腕を伸ばし、女の子を受け取ると強く抱きしめた。

「ごめんね。大丈夫だからね」
 
千夏ちゃんがまた私をそっと見ていることに気づいた。

「千夏ちゃん。いい名前だね」

「…………」
 
胸に顔をうずめたあと、千夏ちゃんは上目遣いで私を見てきた。

「でも、みんなヘンだって言うの」

「ちっともヘンじゃないよ。千夏ちゃんにとって特別な名前なんだよ」
 
パチパチとまばたきしたあと、

「とくべつってなに?」

と、あどけない声で千夏ちゃんが尋ねた。

「しあわせになりますようにって、パパとママが一生懸命考えてくれたの。そういうの、特別って言うんだよ」

「夏の名前なのに?」

「お姉ちゃんの友だちにも、夏海って名前の子がいるの。夏の海っていう意味なの。素敵な名前だと思わない?」
 
しばらく考えたあと、

「思う」
 
と、千夏ちゃんが答えた。

「パパもね、褒めてくれるの」

「そっか。特別な名前だもん」
 
母親の表情から緊張が解けているのがわかった。
 
歩き出すお母さんと千夏ちゃんのうしろから、冬吏と並んで歩く。
 
――ふと、風が止まった。
 
葉をこする音がピタリと途絶え、あたりが不自然なほど静まり返る。崩れた外壁、うなだれる街灯、ガラスの破片が月に光っている。
 
耳の奥で、自分の鼓動だけが妙に大きく響いている。

足元が、かすかに波打つように揺れた気がした。

「来る……!」
 
冬吏が突然私たちを抱きしめた。
 
これまでより強く地面が揺れはじめた。
 
ふり向くと、音を立ててアスファルトに亀裂が生まれている。

さっきまで歩いていた場所から、水蒸気を含んだ水が噴き出す。

「水位があがってきている。このまま走ろう」
 
月明りの下、小学校の校庭に海水が注ぎこむのが見える。一瞬で浸した海水が歩道に激流を生んだ。マグマを含んだ海水に呑まれたら、ひとたまりもない。

「うそ、うそでしょう……」

しゃがみこみそうになる母親から、冬吏が千夏ちゃんを受け取った。

「早く上へ! みんな走れ!」
 
が、母親は地面に接着剤で引っつけられたように動けない。腕を取るが、ブルブルと震えているだけ。

「千夏ちゃんのためにも生きなくちゃ。一緒に走って!」
 
ハッと顔をあげた母親が、やっと走り出してくれた。
 
街灯が消えた坂道は暗く、月の光もわずかにしか届かない。

――ゴゴゴゴ!
 
背後で聞こえる音がどんどん近づいている。逃げようと走るけれど、大きく揺れるたびに転びそうになる。
 
冬吏も息を切らしながら走っているけれど、体力の限界に近いのがわかる。
 
そのとき、「冬吏!」と声が聞こえた。
 
暗闇から現れた桜輔が、冬吏から千夏ちゃんを受け取った。

「雪音、がんばって!」
 
千秋と夏海が駆けてきた。
 
みんな……戻ってきてくれたんだ。

「ダメだよ。みんなだけでも逃げなくちゃ……」
 
息切れしながら言うと、ふたりは「は?」とそろって眉間にシワを寄せた。

「なに言ってんの。ピンチのときこそ助け合わないと。ほら、がんばって!」

千秋が腕を引っ張ってくれた。
 
夏海は立ち止まりそうになる母親の背中を、歯をくいしばって押している。

水蒸気が押し寄せてきた。熱を含んだ煙に、木の焦げたようなにおいが含まれている。肌がチリチリと焼けるような熱気が押し寄せてくる。すぐそばまで海水が来ているようで、地鳴りよりも大きな波の音が聞こえる。
 
こんな高い場所まで海に浸かるなんて……。
 
地球がこわれる、という予想が今、現実のものになろうとしている。
 
今、この瞬間に世界中でたくさんの人が命を落としているのかもしれない。
 
すくみそうになる足を鼓舞して前へ進むけれど、高校まではまだ距離がある。

「雪音、しっかり」
 
冬吏が私の横に並んだ。

「冬吏……」

「毎朝のぼってる道だろ。ほら、がんばって」
 
冬吏が私の手を握るのを見て、千夏は桜輔のもとへ駆けていった。

「もうすぐ……海が。あのね……本当は明日になったら伝えたかったんだけどね……」

「その話はあとで。今は逃げることに集中しないと」
 
こんなときなのに、冬吏は笑っている。
 
すぐそばで町を呑みこむ音が聞こえている。
 
――あきらめたくない。
 
暗闇のなか、校舎が遠くに見えている。
 
なんとしてでもあそこまで逃げなくちゃ。自分の気持ちを伝えるのは、地球がこわれたあとでいい。
 
必死で坂道を急いでいると、坂の上から流星のような光が一直線に向かってくるのが見えた。

エンジン音を震わせ、お父さんの車が猛スピードでやってくる。

「危ないからみんな道の端に寄って!」
 
冬吏が叫んだ数秒後、お父さんの車が私たちの前で急停車した。
 
――それからのことは、あまり覚えていない。
 
コマ送りの映像のように、静止画の光景だけが頭に残っている。
 
荷台に乗りこむ姿。
 
冬吏が荷台から伸ばした手。
 
バックライトに照らされる海水。
 
走り出す車から見た月。
 
校門を越える車。
 
屋上にいた人たちがふるスマホのライトは、星空みたいにキレイだった。

「屋上まで走れ!」
 
冬吏の声に、静止画が途切れた。
 
昇降口で靴を履き替える余裕もないまま、階段をのぼる。
 
たくさんの人がバトンリレーのように千夏ちゃんをパスしていく。母親がそれに続く。
 
――ガシャン!
 
ガラスの割れる音にふり向くと、昇降口に海水が侵入していた。
 
破壊する音を引き連れ、どんどん水位があがり続けている。
 
生きる。私は私のために生きなくちゃ……!

「雪音、あと少し!」

「うん」
 
水の音が遠くなるのがわかった。校舎の一階で水位の上昇は止まったようだ。
 
屋上にたどり着くと、たくさんの拍手が迎えてくれた。
 
今にも崩れ落ちそうな気持を奮い立たせ、手すりから下を覗きこんだ。
 
隣に立つお父さんが、懐中電灯で地面を照らしてくれた。

「水が……」

「ああ、もう引いてきてる。おそらく海水の上昇は収まってるが、まだ油断できない」
 
そう言うと、お父さんは「ったく」と呆れた声を出した。

「助かったからいいようなもんを、無茶しすぎだ。なにかあったらどうするんだよ」

「ごめんなさい」

「まあ……お父さんでも同じことをしただろうから、これ以上叱るのはやめておくか」
 
ニヤリと笑うお父さん。
 
荒い息を整えながら屋上を見渡す。
 
冬吏の姿を探すと、片膝をついて千夏ちゃんと話している。目を線にして笑う冬吏が私に気づき、小さくうなずいてくれた。
 
助かったんだね。助かったんだよ。
 
言葉を交わさなくても、伝わっていると思えた。
 
たぶん、私の気持ちを冬吏は知っている。彼も私への想いを抱いてくれている。
 
磁石のように私たちはお互いを求め合い、それが自然のことに思えた。
 
日付が変わったら、どちらからともなく言葉にするだろう。
 
お父さんのもとへ住民たちが次々にやってきた。誰もがお父さんに感謝の言葉を述べている。
 
お父さんだけじゃない。冬吏も桜輔も、千秋も夏海や住民のみんなだってそう。

今夜、誰もがヒーローだった。そう思った。

「雪音ちゃん」
 
おばあちゃんが手招きをしている。

「おばあちゃん!」
 
駆け寄って抱きつこうとする寸前、おばあちゃんが困った顔をしていることに気づいた。
 
そのうしろに立っているのは――お母さんだった。
 
背筋をピンと伸ばしているのは、怒っている証拠。お父さんも気づいたらしく、人をかきわけ駆けつけた。

「あの……」

「言いたいことはたくさんあります。お父さんにも、おばあちゃんにも、雪音にも。でも――」

ピンと張っていた背筋が、かすかに揺れる。お母さんがキュッと目を閉じ、顔をゆがませた。

「あなたたちが無事でよかった。ひとりだけ残されたらどうしようかと……」
 
声にせず泣くお母さんを、お父さんが抱きしめた。
 
私も「ごめんね」と言いながら抱きついた。

「ひとり残されたら、ってわたしもいるんだけどねぇ」
 
ぼやくおばあちゃんに、お母さんが手招きをすると、仕方なくという風に輪に加わった。
 
あたりに立ちこめていた水蒸気が消えていく。

「おい、見ろよ!」
 
誰かが叫んだ。
 
体を離し、みんなが指さすほうを見ると、南山が噴煙をあげていた。赤いマグマが山頂から噴き出している。
 
地響きが校舎を震わせても、誰ひとりとして悲鳴をあげることもなく、その光景を眺めている。
 
手すりに近づき目を凝らした。大丈夫、海北町からは遠いし、この島との間には海がある。
 
さっきまで襲われていた海が守ってくれているなんて、不思議。

「雪音」
 
隣に立つ冬吏の声がやさしい。

「冬吏」
 
私の声もきっとそう。
 
視界になにか映った。
 
見あげると、白い粒のようなものが私たちに降り注いでいる。

「約束をひとつ守れた」

「え?」

「クリスマスに雪を見せるって約束。これは火山灰だけど、似たようなもんだし」
 
白い歯を見せて笑う冬吏がかわいくって、私も笑ってしまう。
 
手のひらに舞い落ちる灰は、不謹慎だけど美しく思えた。
 
ほんの数分前まで、死と隣り合わせだったことが、嘘みたいに思えるほどに。

「いつか、本物の雪を見せるよ。それまではこれで我慢して」

「うん。新しい約束だね」
 
そのとき、反対側の空から夜を切り裂くような機械音が聞こえた。
 
エンジン音が近づき、暗闇のなかからヘリコプターが突然姿を現した。
 
地上を照らすライトが、屋上をまぶしく照らす。
 
歓喜の声をあげた住人が必死で手をふるなか、大地さんが冬吏のもとへ来た。

「俺も役に立つだろ?」

「え、あんたがヘリを呼んだのか?」

ふん、と大地さんが胸を張った。

「俺の予測が当たったら、真っ先にこの町の人を助ける、と約束させたんだ」

「でも、ここからどこへ行くんだよ。だって、親父が安全だと断言した場所だろ」

「もちろんここは安全だが、ケガ人がいたら救出してもらわんとな。あと、しばらくここで過ごすための食料や水とかを運んでくれている」
 
ニヤリと笑い、大地さんがヘリコプターに大きく手をふった。
 
冬吏がその背中に「親父」と声をかけた。

「……ありがとう」

「久しぶりに親父って呼ばれた。聞こえなかったから、もっと大声で言ってくれ」

「うるせえ」
 
そう言いながら冬吏が私の手を握った。
 
握り返すのに勇気なんて必要なかった。
 
離れた場所にいる桜輔が、親指を立てて笑っている。隣で千秋も指でVサインを作っている。
 
ヘリコプターのライトに照らされた灰が、キラキラと輝きながら降っていた。