一ノ瀬先生の指揮に合わせ、みんなが音を重ねていく。空気を切るように指揮棒をふりながら、一ノ瀬先生は楽しげに目をカーブさせている。

チャイコフスキーの『くるみ割り人形』のなかでも、特に有名なのが、今演奏している『花のワルツ』。

壮大さとせつなさを含んだメロディは、チャイコフスキーが亡くなった妹に(ささ)げる曲だと言われている。

バレエ音楽として有名なこの曲を、高校に避難している部員とOB、中学の吹奏楽部の中学生と、その母親という臨時の小編成で演奏している。
 
トランペットがリードしながら〝下降の旋律〟と呼ばれる部分を演奏する。
 
音楽室に集まった人たちは椅子に座ったり、壁際に腰をおろしたりと、自由な恰好で演奏に耳をかたむけている。
 
お父さん、お母さん、おばあちゃん以外にも、たくさんの人の視線を感じる。
 
不慣れな楽譜を目と指で追っていると、ようやく右手だけのパートに入った。
 
フルートを吹く冬吏と目が合った。目を細めてほほ笑む冬吏に、軽くうなずきを返すと、指先から固さが消えた。
 
いよいよクライマックス。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットなど、たくさんの楽器が、終止符に向かっている。
 
みんなと一体になる高揚感。その最高潮で指揮棒が止まり、演奏が終わった。
 
鍵盤から手を離すと、拍手が音楽室を満たした。演奏する側も、聴く側もみんな笑顔をほころばせている。
 
鳴りやまない拍手のなか、一ノ瀬先生が一歩前に出た。

「ありがとうございました。まさかこの人数で演奏できるとは思っていませんでした。そして、聴いてくださった皆さんにも感謝します。この場にいる皆さんにもう一度拍手を!」
 
拍手をする人のなかには、奥さんの遺影を抱く森内さんもいる。
 
昼過ぎになり、高校に到着した森内さんは、『高川のじいさんに弱みを握られててな。今日だけはここにいるよ』と照れたように笑っていた。
 
一ノ瀬先生に紹介され、桜輔が頭を下げた。

「吹奏楽部、部長の太河です。今日はありがとうございました」
 
久しぶりに桜輔の苗字を聞いた気がした。知り合ったとき、『太河って名前みたいな苗字だな』と思ったことを覚えている。
 
千秋がやさしい瞳で桜輔を見つめている。頬が赤いのは、演奏を終えただけが原因じゃない。
 
友だちの恋が叶ったことが本当にうれしい。
 
私も想いも伝えたい。今日を乗り切ることができたら、きっと……。
 
拍手の音に我に返ると、冬吏が今日の予定について話しはじめていた。
 
誰もが、今日地震が起きると信じてくれている。真剣な表情でうなずくみんなを見ていると、胸がじんわりと熱くなった。

「ちょっといいか。実は困ったことになってな」
 
腕を組んだ田後さんが前に出た。

「さっき双眼鏡を覗いて気づいたんだが、海北町の臨時港にうちの住民が集まってるようだ。おそらく、海北の連中がボートに乗せて運んでくるだろう」
 
昨晩になり、日本でも安全と思われる地域が政府より発表された。そのニュースを見た人が慌てて戻ってきているのだろう。

「それはまずいですね。これから港へ行き、危険だと伝えましょう」
 
冬吏がそう言い、私と夏海を昼食準備の担当から外した。残りの人は、水位の上昇に備え、窓ガラスの内側からテープを貼るそうだ。
 
外に出て、港までの道を田後さん先頭でおりていく。が、少し進んだところで田後さんが足を止めてふり返った。

「静かすぎないか?」
 
言われて気づいた。島全体が異様な静けさに包まれている。セミも鳥もおらず、風さえも身を潜めているようだ。
 
田後さんの横に並んだ夏海が、

「予兆だよ」
 
当たり前のように言った。
 
誰も反応しないことが不満なのか、「だから」と夏海が腰に手を当てた。

「大きな地震が起きる前は、地球が静かになるんだよ。こないだの地震が起きて以来、一度も揺れてないこと気づいてないの?」

「知らん」

「まあ、諸説あるから絶対とは言えないけど、リミットが近いって証拠。ほら、急ごう」
 
前髪を揺らして先を急ぐ夏海を、田後さんが追いかけていく。
 
私と冬吏が並んでおりる形になった。

「演奏会、うまくいってよかったね」

「ぶっつけ本番に近かったけど、まあまあの演奏だった。部員が戻ってきたら、卒業公演の練習をはじめないとな」

「うん」
 
明日からも毎日は続いていく。そう言われた気がしてうれしくなった。

「あと、『ラ・カンパネラを弾けるようになる』ってのもな」

当たり前のように言う冬吏に、

「ああ……うん」
 
口ごもってしまう。

「『私との約束』なんだろ? あまり乗り気じゃない感じ?」
 
首をかしげる冬吏に、「逆だよ」と答える。

「最近ピアノを弾けてなかったから、今日の演奏会、すごくたのしかった。もっと練習したいって思ってる。うん……冬吏に聞いてもらうためにがんばるよ」

「樹くんにもだろ?」
 
言われるまで樹くんのことを忘れていた。もともとは樹くんとした約束だったんだ……。
 
頭も心も冬吏でいっぱいになっている。それが心地いいと思える私がいる。

「冬吏も私との約束、守ってよね」

「俺、約束なんかしたっけ?」

「クリスマスに雪が降るのを見せてくれるんでしょ?」

あのころはまだ、冬吏をこんなに近くに感じていなかった。

「それは雪音の夢だろ? 約束した覚えはないけど、まあ……考えておくよ」

「じゃあ、私も考えとく」
 
小学校の校庭が見えて来た。臨時で作った港にボートが二台停まっている。荷物をおろした乗客に夏海たちがなにか話している。
 
いつ地震が起きるかわからないから、急がないと。
 
駆け出した瞬間、冬吏に手をつかまれた。

「……え?」
 
ふり向くと、真剣な表情の冬吏がいた。

「もしも……違う。俺たちは必ず明日を迎えることができるはず」
 
握った手のあたりを見つめながら冬吏が言った。

「そうだよ。そうに決まってる。だから早くみんなを避難させなくちゃ」
 
けれど、冬吏はじっと動かない。意を決したように冬吏が私の目をまっすぐに見つめた。

「明日を迎えられたなら――話したいことがある」

「え……?」
 
ひょっとして、と期待してしまいそうになる気持ちを脇に押しやった。

「また北極へ行くなんて言わないでよね」

「言わないよ」

「私も話したいこと、あるよ」
 
――冬吏のことが好きです。
 
本気で好きになったら、作戦や駆け引きなんて必要なく、ただ気持ちを伝えたくなると知った。
 
全部、冬吏が教えてくれたんだよ。
 
わかった、と冬吏がうなずく。

「日付が変わったら、話をしよう」

「そのためにも、早く助けに行かなくちゃ」
 
手を握ったまま冬吏が歩き出す。好きな気持ちが、冬吏に伝わってしまいそう。
 
ニッと笑う冬吏に、もう仮面の笑顔は必要ない。
 
地球がこわれる日を、こんなに穏やかに迎えられたのは、冬吏のおかげだ。

「そういえば、桜輔がなんかヘンなんだ。ぼんやりしてたかと思ったら、急にやる気を出すし、さっきの演奏も過去一くらいうまかった。あとで話がある、って言われてる」
 
冬吏は桜輔と千秋のことに気づいてないみたい。私が言うことでもないだろう、と首をかしげてごまかした。
 
坂道をのぼってくるスーツ姿の男性に気づくと、握っていた手がパッと離された。冬吏の横顔が急に険しくなる。
 
近づくにつれ、その男性に見覚えがあることに気づいた。
 
冬吏の父親の大地さんだ。

「やはりここに戻ってきてたのか」
 
私たちのそばに来た大地さんが、呆れた声で言った。

「だったらなんだってんだよ。あんたこそ、地球がこわれる日になにやってんだよ」

「息子が行方不明になったなら探すのが当たり前だろ」

「ほっといてくれよ。俺は、俺が思う生き方をする」
 
横をすり抜けようとする冬吏の腕を、大地さんがつかんだ。

「好きに生きるのはいいが――」

「今はそれどころじゃないんだよ」
 
腕をふり払おうともがくが、大地さんは手を離さない。

「それどころじゃない今だからこそ、話がある。いいから親の話を――」

「なにが親だよ!!」
 
怒号をあげ、冬吏が乱暴に大地さんの手をふり払った。

「離婚して、もう何年経ってんだよ。昔から関わろうとしてこなかったし、離婚してからはもっとそうだった。今さら……親を語んなよ」

声のトーンが落ちたぶん、冬吏の怒りがより伝わってくる。
 
冬吏の親が離婚しているなんて、知らなかった。
 
だから冬吏と菜月さんは、〝父親〟とか〝夫〟ではなく、〝あの人〟という他人行儀な呼び方をしていたんだ……。
 
大地さんは目を細めて見つめ返していたが、やがて、フッと肩の力を抜いた。

「冬吏の言うとおりだ。ずっと研究ばかりで家族をないがしろにしてきた。親を名乗る資格がないのはたしかだ」

「北極には戻らない」

「わかってる。どのみち、今から戻ろうとしても空港で足止めされるだけだ」

「……じゃあ、なんで来たんだよ」

いぶかしげに尋ねる冬吏から、大地さんは私に視線を移した。

「駅では失礼な態度を取ってすまなかった」

「いえ……あの、菜月さんは?」

「北極にいる。高台に作ったシェルターに避難しているから平気だ」
 
冬吏が、わけがわからないというふうに頭を横にふった。

「黙って出てきたのは悪かったと思ってる。だけど、反省はしてないし、過去に戻れたとしても同じことをする」
 
挑むような瞳は、大地さんによく似ている。
 
大地さんが右手を上にあげるのを見て、

「ダメ!」
 
考える間もなく手首をつかんでいた。
 
が、大地さんは冬吏の頭にポンと手のひらをのせた。

「殴ったりしないよ」

「あ……すみません」
 
慌てて手を離すと、遅れて冬吏も大地さんの手を払いのけた。

「やめろ。俺に触るな」
 
これまでされたことがなかったのだろう。動揺が表情と声に表れている。

「冬吏は否定するだろうが、お前は俺の昔にそっくりだ。一度言い出したら聞かないし、どうせこの町に戻ることはわかっていた。じゃなきゃ、わかるようにパスポートと現金は置いておかない」

「え……あんたが置いてたのか?」
 
あんぐりと口を開ける冬吏に、大地さんは口のはしをあげて笑った。

「お前は自由に生きればいい。だが、自由には責任がつきまとう。この町の人を救おうとする考えはすばらしいが、だったらもっと強くならないとダメだ。強さというのは力だけじゃない。みんなを納得させ、安心させられる知識や根拠をどれだけ示せるかということだ。今のお前にはそれが足りない」
 
思い当たる節があるのか、冬吏がサッと目を伏せた。

「そんなことありません。冬吏はすごい人です」
 
冬吏のことを知ってほしい気持ちでそう言うと、大地さんは意外そうに目を丸くした。

「君は、冬吏と親しくしてくれているんだね」

「冬吏は、町のみんなを救おうと必死でがんばってくれています。争いごとが起きたときも、みんなを説得し納得させていました」
 
冬吏が苦しげな表情のままキュッと目を閉じた。

「俺だけじゃない。雪音や桜輔、千秋や夏海……みんなが協力してくれたからここまでこれたんだ」

大地さんが腕時計を確認してから、「そうか」と言った。そっけない言葉なのに、なぜか温度を感じる。

「俺がここに来たのは、最新の情報を伝えたかったからだ。電話が通じず、それでも伝えたくて飛んできた」

「情報ってなんだよ」

「地球がこわれる時刻の推測が立った。おそらく今日の十九時前後に内核の爆発が起きる。数分後に大地震が起き、地球がこわれる」
 
冬吏の口が、『じゅうくじ』と動いた。

「予測は得意だが、どうやって乗り切るかまではわからん。荷物を取りに行ってから、高校に避難させてもらうが、今さら帰れとか言うなよ」

「……言わない。好きにしろよ」

「俺たちは自由だもんな」
 
片手をあげ、大地さんが港に戻っていく。
 
(ちゅう)(ちょ)するようにうつむく冬吏の背中をポンと押した。

「荷物を運んであげて。私はほかの人の手伝いをするから」

「……ああ」
 
小走りに駆けていく冬吏を見送ってから、私も坂道を下る。
 
父子の確執が解消されたとは言えないけれど、少しでも話のできる関係になれてよかった。
 
私も冬吏も、これ以上傷つきたくなくて、たくさんの仮面をつけて生きてきた。
 
桜輔や千秋、夏海だってそうだろう。
 
世界がこわれることを知り、私たちは仮面を脱ぎ捨てた。そういう意味では、タイムリミットがくれたプレゼントのようにも思える。
 
私も、家族に話したいことがある。今なら素直な気持ちで伝えることできそう。

スマホを開くと、お昼になろうとしている時刻。
 
――もうすぐ地球がこわれてしまう。