お父さんの車が急停車すると、助手席から夏海が難しい顔でおりてきた。
「船、ダメだった。引っ越す人だらけで、港が船に占領されてる」
「そんなに?」
「この町にいれば安全だ、って説明したけど、ちっとも耳を貸してくれない。しまいには『余所者のくせに』だってさ。ぶん殴る寸前であんたの親父が止めてくれた。で、そっちは?」
夏海が坂の上を見やりながら尋ねた。
「スーパーの品物は、ほとんど買い占められてた。運んだ物資が盗まれる可能性があるから、桜輔と千秋が教室の前で見張ってくれてる」
運転席から顔を出したお父さんが、
「おばあちゃんは?」
と聞いてきた。
「準備にあと一時間はかかるみたい。『雪音ちゃんの家に行くのはいいけど、学校に避難するなんて聞いてない』って怒ってる」
「おお怖い。じゃあ、そっちは任せるわ」
「あとで迎えに来てよ」
「わかった。とりあえず、お父さんたちも学校に向かうわ」
車が去るのを見届けてから、
「あ」
と声が出た。学生証入れの裏に挟んだ『私との約束』の用紙を広げる。
お父さんに謝る
みんなで生き残る
『ラ・カンパネラ』を弾けるようになる
④冬吏に想いを伝える
みんなを守るために奔走してくれているお父さんにお礼を言うべきだった。
次に会ったときにちゃんと言おう。
でもな……。親にお礼を言うなんて照れくさいし、その場になったらごにょごにょつぶやくように言ってしまいそう。
ため息をこぼしながら坂道をくだっていく。
斜め前の家も引っ越すらしく、トラックが道を塞ぐように停車している。
あれから三日が過ぎた。
冬休みが前倒しになっただけでなく、ダムから水が放出されるように、住民がどんどん逃げ出している。
ネットニュースによると、都会では略奪行為や暴動も起きているらしく、日を追うごとにパニックが広がっているのがわかる。昨日からは、SNSが次々に閉鎖されはじめている。
まるで二十五日を予告するかのように、地震の回数が増えている。今日も朝から震度2くらいの地震が何回も起きているせいで、スマホのアラームが鳴りっぱなしだ。
おばあちゃんの家が見えてきた。その向こうに広がる君沢湖は、世間の混乱を知らず、真っ青な空を映している。
スマホがアラームを鳴らした。
『地震です。強い揺れに備えてください』
またか、と思いつつ足を早め、玄関先へ急いだ。
なにげなく湖を眺めたとき、なにか違和感を覚えた。
水面が揺れている。生まれた波がぶつかり、砕けていく。
足元に強い揺れを感じた。
――大きい。
そう思うのと同時に足元をすくわれ、その場に倒れこんでいた。地面がゼリーになったみたいに波打っている。
家がきしむ音、ガラスの割れる音が四方八方から聞こえ、無意識に悲鳴をあげてしまった。
「おばあちゃん!」
なんとか立ちあがり、まだ揺れる世界のなか玄関のドアへ。変形したらしくドアが開かない。
庭のほうから入ろうと向かう足が勝手に止まる。
「うそ……」
海が、君沢湖を襲っていた。上昇した海水が大きな波になり、君沢湖をやすやすと呑みこみ、おばあちゃんの家に押し寄せている。
「雪音ちゃん!」
我に返ると、おばあちゃんが私の腕を引っ張っていた。
「なにしてるの! 早く逃げるよ!」
「あ……」
足を動かそうとするけれど、なぜか緩慢な動きになってしまう。
「しっかりしなさい。揺れが収まっているうちに早く!」
言われて気づいた。いつの間にか揺れはなくなっている。
道路へ向かいながらふり返ると、君沢湖があった場所は海になっている。
おばあちゃんが私の背中を押した。
「津波が来るからもしれないから、早く上へ逃げなさい」
「ダメ。おばあちゃんも一緒に行かなきゃ」
けれど、おばあちゃんは首を横にふる。
「おばあちゃんは大丈夫。あなただけでも先に行きなさい」
「そんなこと……できるわけないよ。置いていけるわけないよ!」
「しっかりしなさい!」
おばあちゃんが怒鳴った。
「町のみんなを助けるんだろ!? いいから早く行きなさい!!」
握ろうとする手をふり払い、おばあちゃんはその場に膝をついてしまった。
どうすればいいの……?
こんなのうそだ。今、起きていること全部、悪い夢だったらいいのに。
大事なおばあちゃんさえ助けられないなんて……。こんなことになるなら、お父さんを連れてくるべきだった。
「おい、そこ!」
声に顔をあげると、道の向こうから田後さんが走ってきた。
「なにやってんだ! 早く逃げろ!」
叫びながら駆けつけた田後さんが、おばあちゃんを強引に背負った。
「やめてくれよ。恥ずかしい!」
悲鳴をあげるおばあちゃんを無視して、
「雪音ちゃんも早く!」
七十歳とは思えない素早さで坂をのぼっていく。
「ひとりで逃げられるからおろして」
「ヨボヨボのくせによく言うよ。俺のほうが若いんだから任せな」
言い合いしているふたりの前に赤いワーゲンが停まった。
ハンドルを握るのは、一ノ瀬先生。
「高校まで行くので乗ってください! 風岡さんも早く!」
急いで車に向かうが、近隣の人が乗っているせいで車は定員を超えている。
「私は走ります。先に行ってください」
「冗談じゃない!」おばあちゃんが後部座席で叫んだ。
「雪音ちゃんを置いていくなら、わたしも残る。おろしておくれ!」
「ダメです! だったら私がおりますから誰か運転してください」
「免許なんて持ってない。田後さんが運転すればいい」
「俺は無理だ。バイクしか運転したことない」
町中にサイレンが鳴り響いた。スマホのアラーム音も止まらない。
たくさんの音が、逆に冷静さを取り戻してくれた気がした。
「先生。行ってください。毎日のぼっている坂だからすぐに追いつきます」
まっすぐに目を見て言うと、一ノ瀬先生はうなずいてくれた。
「……わかった。とにかく急ぐのよ」
車が走り出し、おばあちゃんが私を呼ぶ声が遠ざかっていく。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。登校するときのようにまっすぐのぼっていくだけ。途中できっとお父さんが迎えに来てくれるはず。
走り出そうとした瞬間、ふとサイレンの合い間に声が聞こえた気がした。
じっと耳を澄ましてみる。崩れた外壁、道路に散らばったガラスの破片が、キラキラと太陽を反射して光っている。
「……誰か」
女性の声が聞こえたが、すぐにサイレンの音が重なりかき消えてしまう。
「誰かいますか!? 」
大声で叫ぶと、
「助けて!」
すぐそばの家から悲鳴交じりの声が聞こえた。
駆けつけると庭で若い女性がうずくまっていた。水に呑みこまれたのか全身びしょ濡れで、緑の芝生に水滴がしたたり落ちている。腕のなかで赤ちゃんが激しく泣いている。
私に気づくと、「ああ!」と泣きじゃくりながら足にすがりついてきた。
「助けて……あの子が、あの子が!」
指さすほうを見ると、湖が――もとは湖だった海にいくつもの瓦礫が浮かんでいる。
「あ……」
クーラーボックスのような箱につかまっている小さな腕が見えた。激しく波打つ水面から、男の子の顔が見え隠れしている。
「いつもみたいに軽い揺れだと思ってたら、波にさらわれて……。この子を、この子をお願い!」
強引に赤ちゃんを託そうとしてくる女性は、男の子の母親なのだろう。反射的に赤ちゃんを受け取ろうと伸ばしかけた手が止まる。ケガをしているのだろう、母親の右足から血が流れている。
「とうま、とうまぁ!!」
顔をくしゃくしゃにして叫ぶ女性。恐怖が体全体を覆い、フリーズしたみたいに動けなくなった。
どうしよう。どうすればいい!?
『雪音にお願いがあるんだ。町のみんなを救ってほしい』
あの日の言葉が聞こえた気がした。冬吏がしたお願い。彼と交わした約束。私もそのことを『私との約束』のひとつにした。
だから、だから……!
気づくと、私は海に飛びこんでいた。大丈夫、そんなに深くない。
お風呂のように熱い水をかきわけ、とうまくんのもとへ急ぐ。
「とうまくん、しっかりつかまってて!」
サイレンの音が、私の声を消してしまう。足元の瓦礫に気をつけながら、必死で前へ進む。
波に邪魔されながら進む先に、小学生くらいの男の子が見えた。唇をかみしめ、両手でクーラーボックスにしがみついている。
私に気づいたとうまくんが、一瞬笑ったように見えた。が、すぐに泣き顔だとわかる。水温のせいで、頬がリンゴ色に染まっている。
近づく私に腕を伸ばそうとするとうまくんに、
「ダメ。しっかりつかまってて」
そう言うと、ハッとした表情でクーラーボックスに手を戻した。
「このまま引っ張っていくから、手を離さないでね」
「うん」
返事を確認してから、クーラーボックスの取っ手を引っ張る。
こんな非常時だというのに、瞳に映る空は美しいまま。
青い空を、君沢湖が映すことはもうないんだ……。
瓦礫を迂回しながら進んでいく。
「ありがとう」
か細い声のとうまくんに、
「大丈夫だよ」
と答えた。
「急に落ちちゃったの」
「びっくりしたね。とうまくんだよね? どんな漢字で書くの?」
「冬に馬で冬馬」
「何年生?」
「三年生」
しっかりと答える冬馬くんは、母親よりも落ち着いている。
「私の名前は雪音。同じクラスには、冬吏っていう冬の名前の男子もいるんだよ」
「じゃあ、冬の名前チームだ」
波に顔をしかめながら冬馬くんが言った。
「冬の名前三人組だね」
不規則な波の動きのせいで、なかなか地面に近づけない。
「お姉ちゃん、冬を知ってるの?」
あどけない問いに、自然にほほ笑んでいた。
「残念ながら知らないの。きっとお母さんも知らないんじゃないかな」
「東京に行けば季節があるんだって。だから僕、東京に行きたい」
きっと『SEASONS PARK』のことを言ってるのだろう。
庭に到着し、水のなかから冬馬くんの体を押しあげる。母親が泣きながら冬馬くんを抱き寄せた。赤ちゃんは縁台の上で毛布に包まれている。
「ああ、冬馬! ありがとう、ありがとうございます!」
よかった、と胸をなでおろし、水からあがろうと庭に手をついて気づく。周りの水にいくつもの泡が生まれている。
まるで沸騰したようにボコボコと音を立てる水面。
「地震が来ます……! 早くこの場所から離れて!!」
「冬馬!」
母親が冬馬くんを抱きかかえて走り出す。
早く水から出なくては!
そう思った瞬間、波が怪物のように私をさらっていた。ぐるりと回転しながら水のなかに引きずりこまれる。
持ちあげられるように水面から顔を出すと、家の縁側が目の前に迫っていた。
海水が上昇したんだ、と思うのと同時に縁側の柱に頭を打ちつけていた。波がまた、私を海のなかへ連れていく。
腕を伸ばしてもがくけれど、水面にあがれない。
無数に生まれる泡と、苦しくて吐く息が混ざり合うたびに視界が色を落としていく。
ああ、私はここで死んじゃうんだ……。
みんなを救うという約束を果たせなかった。
水の向こうに青空が見える。ユラユラと揺れる空が泣いているみたい。
冬吏、あなたに会いたい。もう一度、会いたかった。
青空がぐにゃりとゆがんだと思ったら、強い力で引っ張りあげられ、サイレンの音が大きく聞こえた。
頬にチクチクした感触がある。目を開けると芝生の上だった。緑のにおいを感じながら、激しく咳きこむ。
力なくあお向けになると、黒いシルエットが私を見下ろしている。
誰かが助けてくれたんだ……。
「間に合ってよかった。大丈夫か?」
この声を――知っている。覚えている。心全部で求めている。
「え……冬吏? どうして……?」
これは……夢? 死んでしまった私が見ている夢なの?
今にも消えてしまいそうな幻に手を伸ばすと、冬吏がやさしく握ってくれた。
「ヒーローになりたかった、って言っただろ?」
「冬吏……」
涙があふれて冬吏の顔がぼやけてしまう。
会えたんだ。冬吏にまた会えたんだ。
ほかにはなにもいらない。冬吏にずっと会いたかった。
声にしたいのに、パクパクと口が動くだけ。そんな私に冬吏は陽だまりみたいな笑みをくれた。
「約束を守りに来た。もう大丈夫だからな」
声が遠ざかり、世界が暗闇に堕ちていく。
意識を失う寸前まで、これが夢ではないことを願った。
「船、ダメだった。引っ越す人だらけで、港が船に占領されてる」
「そんなに?」
「この町にいれば安全だ、って説明したけど、ちっとも耳を貸してくれない。しまいには『余所者のくせに』だってさ。ぶん殴る寸前であんたの親父が止めてくれた。で、そっちは?」
夏海が坂の上を見やりながら尋ねた。
「スーパーの品物は、ほとんど買い占められてた。運んだ物資が盗まれる可能性があるから、桜輔と千秋が教室の前で見張ってくれてる」
運転席から顔を出したお父さんが、
「おばあちゃんは?」
と聞いてきた。
「準備にあと一時間はかかるみたい。『雪音ちゃんの家に行くのはいいけど、学校に避難するなんて聞いてない』って怒ってる」
「おお怖い。じゃあ、そっちは任せるわ」
「あとで迎えに来てよ」
「わかった。とりあえず、お父さんたちも学校に向かうわ」
車が去るのを見届けてから、
「あ」
と声が出た。学生証入れの裏に挟んだ『私との約束』の用紙を広げる。
お父さんに謝る
みんなで生き残る
『ラ・カンパネラ』を弾けるようになる
④冬吏に想いを伝える
みんなを守るために奔走してくれているお父さんにお礼を言うべきだった。
次に会ったときにちゃんと言おう。
でもな……。親にお礼を言うなんて照れくさいし、その場になったらごにょごにょつぶやくように言ってしまいそう。
ため息をこぼしながら坂道をくだっていく。
斜め前の家も引っ越すらしく、トラックが道を塞ぐように停車している。
あれから三日が過ぎた。
冬休みが前倒しになっただけでなく、ダムから水が放出されるように、住民がどんどん逃げ出している。
ネットニュースによると、都会では略奪行為や暴動も起きているらしく、日を追うごとにパニックが広がっているのがわかる。昨日からは、SNSが次々に閉鎖されはじめている。
まるで二十五日を予告するかのように、地震の回数が増えている。今日も朝から震度2くらいの地震が何回も起きているせいで、スマホのアラームが鳴りっぱなしだ。
おばあちゃんの家が見えてきた。その向こうに広がる君沢湖は、世間の混乱を知らず、真っ青な空を映している。
スマホがアラームを鳴らした。
『地震です。強い揺れに備えてください』
またか、と思いつつ足を早め、玄関先へ急いだ。
なにげなく湖を眺めたとき、なにか違和感を覚えた。
水面が揺れている。生まれた波がぶつかり、砕けていく。
足元に強い揺れを感じた。
――大きい。
そう思うのと同時に足元をすくわれ、その場に倒れこんでいた。地面がゼリーになったみたいに波打っている。
家がきしむ音、ガラスの割れる音が四方八方から聞こえ、無意識に悲鳴をあげてしまった。
「おばあちゃん!」
なんとか立ちあがり、まだ揺れる世界のなか玄関のドアへ。変形したらしくドアが開かない。
庭のほうから入ろうと向かう足が勝手に止まる。
「うそ……」
海が、君沢湖を襲っていた。上昇した海水が大きな波になり、君沢湖をやすやすと呑みこみ、おばあちゃんの家に押し寄せている。
「雪音ちゃん!」
我に返ると、おばあちゃんが私の腕を引っ張っていた。
「なにしてるの! 早く逃げるよ!」
「あ……」
足を動かそうとするけれど、なぜか緩慢な動きになってしまう。
「しっかりしなさい。揺れが収まっているうちに早く!」
言われて気づいた。いつの間にか揺れはなくなっている。
道路へ向かいながらふり返ると、君沢湖があった場所は海になっている。
おばあちゃんが私の背中を押した。
「津波が来るからもしれないから、早く上へ逃げなさい」
「ダメ。おばあちゃんも一緒に行かなきゃ」
けれど、おばあちゃんは首を横にふる。
「おばあちゃんは大丈夫。あなただけでも先に行きなさい」
「そんなこと……できるわけないよ。置いていけるわけないよ!」
「しっかりしなさい!」
おばあちゃんが怒鳴った。
「町のみんなを助けるんだろ!? いいから早く行きなさい!!」
握ろうとする手をふり払い、おばあちゃんはその場に膝をついてしまった。
どうすればいいの……?
こんなのうそだ。今、起きていること全部、悪い夢だったらいいのに。
大事なおばあちゃんさえ助けられないなんて……。こんなことになるなら、お父さんを連れてくるべきだった。
「おい、そこ!」
声に顔をあげると、道の向こうから田後さんが走ってきた。
「なにやってんだ! 早く逃げろ!」
叫びながら駆けつけた田後さんが、おばあちゃんを強引に背負った。
「やめてくれよ。恥ずかしい!」
悲鳴をあげるおばあちゃんを無視して、
「雪音ちゃんも早く!」
七十歳とは思えない素早さで坂をのぼっていく。
「ひとりで逃げられるからおろして」
「ヨボヨボのくせによく言うよ。俺のほうが若いんだから任せな」
言い合いしているふたりの前に赤いワーゲンが停まった。
ハンドルを握るのは、一ノ瀬先生。
「高校まで行くので乗ってください! 風岡さんも早く!」
急いで車に向かうが、近隣の人が乗っているせいで車は定員を超えている。
「私は走ります。先に行ってください」
「冗談じゃない!」おばあちゃんが後部座席で叫んだ。
「雪音ちゃんを置いていくなら、わたしも残る。おろしておくれ!」
「ダメです! だったら私がおりますから誰か運転してください」
「免許なんて持ってない。田後さんが運転すればいい」
「俺は無理だ。バイクしか運転したことない」
町中にサイレンが鳴り響いた。スマホのアラーム音も止まらない。
たくさんの音が、逆に冷静さを取り戻してくれた気がした。
「先生。行ってください。毎日のぼっている坂だからすぐに追いつきます」
まっすぐに目を見て言うと、一ノ瀬先生はうなずいてくれた。
「……わかった。とにかく急ぐのよ」
車が走り出し、おばあちゃんが私を呼ぶ声が遠ざかっていく。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。登校するときのようにまっすぐのぼっていくだけ。途中できっとお父さんが迎えに来てくれるはず。
走り出そうとした瞬間、ふとサイレンの合い間に声が聞こえた気がした。
じっと耳を澄ましてみる。崩れた外壁、道路に散らばったガラスの破片が、キラキラと太陽を反射して光っている。
「……誰か」
女性の声が聞こえたが、すぐにサイレンの音が重なりかき消えてしまう。
「誰かいますか!? 」
大声で叫ぶと、
「助けて!」
すぐそばの家から悲鳴交じりの声が聞こえた。
駆けつけると庭で若い女性がうずくまっていた。水に呑みこまれたのか全身びしょ濡れで、緑の芝生に水滴がしたたり落ちている。腕のなかで赤ちゃんが激しく泣いている。
私に気づくと、「ああ!」と泣きじゃくりながら足にすがりついてきた。
「助けて……あの子が、あの子が!」
指さすほうを見ると、湖が――もとは湖だった海にいくつもの瓦礫が浮かんでいる。
「あ……」
クーラーボックスのような箱につかまっている小さな腕が見えた。激しく波打つ水面から、男の子の顔が見え隠れしている。
「いつもみたいに軽い揺れだと思ってたら、波にさらわれて……。この子を、この子をお願い!」
強引に赤ちゃんを託そうとしてくる女性は、男の子の母親なのだろう。反射的に赤ちゃんを受け取ろうと伸ばしかけた手が止まる。ケガをしているのだろう、母親の右足から血が流れている。
「とうま、とうまぁ!!」
顔をくしゃくしゃにして叫ぶ女性。恐怖が体全体を覆い、フリーズしたみたいに動けなくなった。
どうしよう。どうすればいい!?
『雪音にお願いがあるんだ。町のみんなを救ってほしい』
あの日の言葉が聞こえた気がした。冬吏がしたお願い。彼と交わした約束。私もそのことを『私との約束』のひとつにした。
だから、だから……!
気づくと、私は海に飛びこんでいた。大丈夫、そんなに深くない。
お風呂のように熱い水をかきわけ、とうまくんのもとへ急ぐ。
「とうまくん、しっかりつかまってて!」
サイレンの音が、私の声を消してしまう。足元の瓦礫に気をつけながら、必死で前へ進む。
波に邪魔されながら進む先に、小学生くらいの男の子が見えた。唇をかみしめ、両手でクーラーボックスにしがみついている。
私に気づいたとうまくんが、一瞬笑ったように見えた。が、すぐに泣き顔だとわかる。水温のせいで、頬がリンゴ色に染まっている。
近づく私に腕を伸ばそうとするとうまくんに、
「ダメ。しっかりつかまってて」
そう言うと、ハッとした表情でクーラーボックスに手を戻した。
「このまま引っ張っていくから、手を離さないでね」
「うん」
返事を確認してから、クーラーボックスの取っ手を引っ張る。
こんな非常時だというのに、瞳に映る空は美しいまま。
青い空を、君沢湖が映すことはもうないんだ……。
瓦礫を迂回しながら進んでいく。
「ありがとう」
か細い声のとうまくんに、
「大丈夫だよ」
と答えた。
「急に落ちちゃったの」
「びっくりしたね。とうまくんだよね? どんな漢字で書くの?」
「冬に馬で冬馬」
「何年生?」
「三年生」
しっかりと答える冬馬くんは、母親よりも落ち着いている。
「私の名前は雪音。同じクラスには、冬吏っていう冬の名前の男子もいるんだよ」
「じゃあ、冬の名前チームだ」
波に顔をしかめながら冬馬くんが言った。
「冬の名前三人組だね」
不規則な波の動きのせいで、なかなか地面に近づけない。
「お姉ちゃん、冬を知ってるの?」
あどけない問いに、自然にほほ笑んでいた。
「残念ながら知らないの。きっとお母さんも知らないんじゃないかな」
「東京に行けば季節があるんだって。だから僕、東京に行きたい」
きっと『SEASONS PARK』のことを言ってるのだろう。
庭に到着し、水のなかから冬馬くんの体を押しあげる。母親が泣きながら冬馬くんを抱き寄せた。赤ちゃんは縁台の上で毛布に包まれている。
「ああ、冬馬! ありがとう、ありがとうございます!」
よかった、と胸をなでおろし、水からあがろうと庭に手をついて気づく。周りの水にいくつもの泡が生まれている。
まるで沸騰したようにボコボコと音を立てる水面。
「地震が来ます……! 早くこの場所から離れて!!」
「冬馬!」
母親が冬馬くんを抱きかかえて走り出す。
早く水から出なくては!
そう思った瞬間、波が怪物のように私をさらっていた。ぐるりと回転しながら水のなかに引きずりこまれる。
持ちあげられるように水面から顔を出すと、家の縁側が目の前に迫っていた。
海水が上昇したんだ、と思うのと同時に縁側の柱に頭を打ちつけていた。波がまた、私を海のなかへ連れていく。
腕を伸ばしてもがくけれど、水面にあがれない。
無数に生まれる泡と、苦しくて吐く息が混ざり合うたびに視界が色を落としていく。
ああ、私はここで死んじゃうんだ……。
みんなを救うという約束を果たせなかった。
水の向こうに青空が見える。ユラユラと揺れる空が泣いているみたい。
冬吏、あなたに会いたい。もう一度、会いたかった。
青空がぐにゃりとゆがんだと思ったら、強い力で引っ張りあげられ、サイレンの音が大きく聞こえた。
頬にチクチクした感触がある。目を開けると芝生の上だった。緑のにおいを感じながら、激しく咳きこむ。
力なくあお向けになると、黒いシルエットが私を見下ろしている。
誰かが助けてくれたんだ……。
「間に合ってよかった。大丈夫か?」
この声を――知っている。覚えている。心全部で求めている。
「え……冬吏? どうして……?」
これは……夢? 死んでしまった私が見ている夢なの?
今にも消えてしまいそうな幻に手を伸ばすと、冬吏がやさしく握ってくれた。
「ヒーローになりたかった、って言っただろ?」
「冬吏……」
涙があふれて冬吏の顔がぼやけてしまう。
会えたんだ。冬吏にまた会えたんだ。
ほかにはなにもいらない。冬吏にずっと会いたかった。
声にしたいのに、パクパクと口が動くだけ。そんな私に冬吏は陽だまりみたいな笑みをくれた。
「約束を守りに来た。もう大丈夫だからな」
声が遠ざかり、世界が暗闇に堕ちていく。
意識を失う寸前まで、これが夢ではないことを願った。



