翌日の学校は、朝からおかしな雰囲気に包まれていた。
三時間目の途中で校内放送が入り、先生が職員室に集められた。
四時間目はすべての教室で自習となり、私のクラスでもみんなヒソヒソ声でなにが起きているのかを話し合っている。
昼休みになると同時に、夏海が背中をつついてきた。
「ちょっと屋上行かね?」
夏海は宣言どおり髪を染めてきた。パーマは取らなかったようで、うしろでひとつにまとめているけれど、色が違うだけで別人に見える。
あまりの変化にクラスメイト――特に男子――は驚いていたけれど、無言で遠巻きに眺めているだけ。
「千秋も行ける?」
ひょいと横に顔を出すと、うれしそうに千秋はうなずいた。
「俺は?」
自分を指さす桜輔に、
「あんたはダメ」
と、冷たく夏海は言い放ち廊下に出る。
「あとで報告するね」
千秋があとを追い、私もそれに続く。
昼休みというのに廊下は静まり返っていた。全クラス自習というのは初めてのことだったから戸惑っているのだろう。
屋上に出ると、ドアのある壁沿いの日陰に夏海は座った。夏海を挟む恰好で私たちも腰をおろす。
今日はセミの声は聞こえない。鳥や飛行機の音もせず、世界が静まり返っている。
「なんかヘンだよな。先生たちどうしちゃったんだろう」
夏海が口火を切り、千秋が大きくうなずいた。
「それくらい夏海が学校に来たのが衝撃的だったんだよ」
「自習にするほどじゃねーだろ。物資を運んだことが問題になってる可能性は?」
夏海が私に顔を向けた。
「一ノ瀬先生の許可をもらってるから大丈夫だと思うけど……。それより、土曜日、海北まで買い出しに行かない? いろいろ足りないものがあって」
「二十五日まで時間がないもんな。いいよ、つき合う」
「あたしも!」
と手をあげたあと、千秋がなにか言いたそうに私たちに視線を配ってから、キュッと言葉を閉じこめた。
「言いたいことあんなら言えよ」
鋭い夏海に、「えっと」と千秋がうつむいた。
「ほら、買い出しって力仕事だから、その……」
「桜輔も連れていきたいんだろ。別に構わないよ」
苦笑しながら夏海は私にいたずらっぽく笑ってみせた。
「うん。桜輔がいるなら買える物も増えそうだし」
満足げな千秋の横顔をまぶしそうに見つめたあと、夏海は壁に頭をつけた。
「久しぶりに教室に行けたなんて不思議。一ノ瀬の驚いた顔、見た?」
「見たよ。すごく驚いてたし、泣きそうになってたよね」
一ノ瀬先生は朝礼の間、夢でないことをたしかめるように、何度も夏海のほうを見ていた。
「ウチさ」と、夏海が目を閉じた。
「名前のせいで、子どものころからいじめられててさ」
「え……そうなの?」
「夏に関する名前が不謹慎だ、って同級生にも大人にも言われ続けた。そんなこと言われても、ウチが名前をつけたわけじゃないのにさ」
三年豪雨のあと、世界中が常夏になった。それ以降、夏を連想させる名前をつけることがよくないこととされた。
「それで、学校に行けなくなったの?」
「ううん。納得できなかったから、強くなろうって思った。バカにするヤツがいたら全力でやり返してやった。それが問題になって、何度も自宅待機をくらった。そりゃあ、やりすぎたことは認めるけど、放置したのは先生のほうなのにって納得できなかった」
ほほ笑みを浮かべ、夏海は過去を語っている。私には絶対にない強さだと思った。
「自己紹介するたびにヘンな顔されるなんてムカつく。だから、屋上を本拠地にした。ここにいれば、自己紹介しなくて済むから」
黙って聞いていた千秋が、大きくうなずく。
「あたし、夏海の名前、好きだよ」
「私も好き」
そう言うと、夏海はうれしそうに顔をほころばせた。
「今じゃ海なんてお湯みたいな温度だけど、昔は夏になると海水浴に行ってたんだって。青い海も青い空もどちらも最高に美しかったんだって」
夏の海のように、雄大で美しく、澄んだ人になってほしい。そんな思いをこめて名づけたのだろう。
「でも、教室に行く勇気をもらえたことには感謝してる。雪音がいなかったら、ずっとここで腐ってただろうし」
「あたしにも感謝してよね」
ツンとあごをあげたあと、千秋は両膝を抱いて体を小さくした。
「二十五日なんてあっという間に来ちゃうね」
「やり残したことがあるなら急がないとな」
「うん」
「桜輔に告白すんだろ?」
「うん。……えっ!? 」
バネのように千秋の体が跳ねた。
「なんで知ってるの!? 雪音、ひょっとして――」
「違う」と、慌てて両手をあげて降参のポーズを取った。
「なにが違うのよ。あたし、雪音にしか話してないもん」
「そうじゃなくて、千秋がここでその話をしたとき、夏海もいたんだよ」
弁明する私から夏海に視線を移して一秒。花がしおれたように千秋はうつむいてしまった。
「ちゃんとしなきゃって思う。でも、なんて言っていいのかわかんないよ。意識してから、うまく話せなくなってるし」
恋に気づいてしまったら、その先を求めたくなる。そばにいるだけでよかったのに、満たされなくなり、もっと一緒にいたくなる。
冬吏。君は今、どこでなにをしているの?
私のことを少しは思い出してくれているの?
「私も伝えたかった」
思ったよりも重い口調になってしまった。
「冬吏に好きだと伝えたかった。でももう、伝えられない」
「雪音……」
悲しみは伝染するらしく、千秋は表情を曇らせた。急いで笑顔を作ろうとしたけれど、仮面はもう、どこにも見当たらない。
「そばにいたときよりも、ずっと冬吏のことばかり考えてる。でも、千秋は違う。すぐそばに好きな人がいるんだもん。だからこそ、伝えなくちゃ」
二十五日を生き延びることができたなら、北極に行こう。どうやって行くのか、いくらかかるかはわからないけれど、どんなことをしてでも冬吏に会いたい。
「わかった。がんばってみる。その代わり、ふたりも約束ね。雪音はひとつでも多く『私との約束』をがんばること。夏海は二度とサボらないこと」
「なんでウチまで」
不満げに夏海がぼやくと、千秋は鈴の音のように笑った。
「友だちだからだよ」
「……わかったよ」
プイとそっぽを向く夏海の声がやわらかい。
そのとき、スピーカーから流れていた曲がプツンと途切れた。
――ガコン。
冬吏が放送室を占拠したときのことを一瞬で思い出した。
まさか……冬吏が?
淡い期待は一瞬で砕かれ、放送部の女子生徒の声が流れた。
『お昼の放送を中断してお伝えします。これから臨時の全校集会がおこなわれます。全校生徒は、すみやかに体育館へ集まってください』
思わず三人で顔を見合わせる。
休み時間の半分も終わっていないのに集められたことなんて、一度もない。
イヤな予感を抱え、校舎に入るとたくさんの生徒が階段をおりていた。屋上にいたことがバレないように、人の流れが落ち着くのを待ってから体育館へ急いだ。
クラスごとに整列しているうちに、ステージに大きなスクリーンが設置された。校長先生は演台の前にスタンバイしているのに、誰かと電話で話している。
なにか……とんでもないことが起きている。
「ひょっとして……」
口にしかけた言葉を呑みこんだ。
「まだそろっておりませんが、時間になりましたのではじめます」
普段より固い口調で校長先生は言った。右手にはまだスマホが握られている。
「今から大事な発表があります。私語は謹むように」
時刻は十三時ちょうど。照明が落とされると、スクリーンに体育館のそれより立派な演台が映し出された。
カメラのフラッシュを浴びながら現れたのは、首相だった。生中継で記者会見を行うようだ。
まさか。まさか……。
『お集まりいただいた皆様、ありがとうございます。これより、重大な話を皆さんにお伝えしなくてはなりません。どうか心を落ち着けてお聞きください』
前置きをしたあと、首相は画面をまっすぐに見た。
『これから六日後の十二月二十五日。世界に大きな地震が起こります。これは訓練ではありません。地震は、地球の中心部にある内核と呼ばれる場所から発生し、海面が数十メートル上昇します』
しん、とした静けさに包まれる体育館で、私はただ耳を澄ませていた。
三時間目の途中で校内放送が入り、先生が職員室に集められた。
四時間目はすべての教室で自習となり、私のクラスでもみんなヒソヒソ声でなにが起きているのかを話し合っている。
昼休みになると同時に、夏海が背中をつついてきた。
「ちょっと屋上行かね?」
夏海は宣言どおり髪を染めてきた。パーマは取らなかったようで、うしろでひとつにまとめているけれど、色が違うだけで別人に見える。
あまりの変化にクラスメイト――特に男子――は驚いていたけれど、無言で遠巻きに眺めているだけ。
「千秋も行ける?」
ひょいと横に顔を出すと、うれしそうに千秋はうなずいた。
「俺は?」
自分を指さす桜輔に、
「あんたはダメ」
と、冷たく夏海は言い放ち廊下に出る。
「あとで報告するね」
千秋があとを追い、私もそれに続く。
昼休みというのに廊下は静まり返っていた。全クラス自習というのは初めてのことだったから戸惑っているのだろう。
屋上に出ると、ドアのある壁沿いの日陰に夏海は座った。夏海を挟む恰好で私たちも腰をおろす。
今日はセミの声は聞こえない。鳥や飛行機の音もせず、世界が静まり返っている。
「なんかヘンだよな。先生たちどうしちゃったんだろう」
夏海が口火を切り、千秋が大きくうなずいた。
「それくらい夏海が学校に来たのが衝撃的だったんだよ」
「自習にするほどじゃねーだろ。物資を運んだことが問題になってる可能性は?」
夏海が私に顔を向けた。
「一ノ瀬先生の許可をもらってるから大丈夫だと思うけど……。それより、土曜日、海北まで買い出しに行かない? いろいろ足りないものがあって」
「二十五日まで時間がないもんな。いいよ、つき合う」
「あたしも!」
と手をあげたあと、千秋がなにか言いたそうに私たちに視線を配ってから、キュッと言葉を閉じこめた。
「言いたいことあんなら言えよ」
鋭い夏海に、「えっと」と千秋がうつむいた。
「ほら、買い出しって力仕事だから、その……」
「桜輔も連れていきたいんだろ。別に構わないよ」
苦笑しながら夏海は私にいたずらっぽく笑ってみせた。
「うん。桜輔がいるなら買える物も増えそうだし」
満足げな千秋の横顔をまぶしそうに見つめたあと、夏海は壁に頭をつけた。
「久しぶりに教室に行けたなんて不思議。一ノ瀬の驚いた顔、見た?」
「見たよ。すごく驚いてたし、泣きそうになってたよね」
一ノ瀬先生は朝礼の間、夢でないことをたしかめるように、何度も夏海のほうを見ていた。
「ウチさ」と、夏海が目を閉じた。
「名前のせいで、子どものころからいじめられててさ」
「え……そうなの?」
「夏に関する名前が不謹慎だ、って同級生にも大人にも言われ続けた。そんなこと言われても、ウチが名前をつけたわけじゃないのにさ」
三年豪雨のあと、世界中が常夏になった。それ以降、夏を連想させる名前をつけることがよくないこととされた。
「それで、学校に行けなくなったの?」
「ううん。納得できなかったから、強くなろうって思った。バカにするヤツがいたら全力でやり返してやった。それが問題になって、何度も自宅待機をくらった。そりゃあ、やりすぎたことは認めるけど、放置したのは先生のほうなのにって納得できなかった」
ほほ笑みを浮かべ、夏海は過去を語っている。私には絶対にない強さだと思った。
「自己紹介するたびにヘンな顔されるなんてムカつく。だから、屋上を本拠地にした。ここにいれば、自己紹介しなくて済むから」
黙って聞いていた千秋が、大きくうなずく。
「あたし、夏海の名前、好きだよ」
「私も好き」
そう言うと、夏海はうれしそうに顔をほころばせた。
「今じゃ海なんてお湯みたいな温度だけど、昔は夏になると海水浴に行ってたんだって。青い海も青い空もどちらも最高に美しかったんだって」
夏の海のように、雄大で美しく、澄んだ人になってほしい。そんな思いをこめて名づけたのだろう。
「でも、教室に行く勇気をもらえたことには感謝してる。雪音がいなかったら、ずっとここで腐ってただろうし」
「あたしにも感謝してよね」
ツンとあごをあげたあと、千秋は両膝を抱いて体を小さくした。
「二十五日なんてあっという間に来ちゃうね」
「やり残したことがあるなら急がないとな」
「うん」
「桜輔に告白すんだろ?」
「うん。……えっ!? 」
バネのように千秋の体が跳ねた。
「なんで知ってるの!? 雪音、ひょっとして――」
「違う」と、慌てて両手をあげて降参のポーズを取った。
「なにが違うのよ。あたし、雪音にしか話してないもん」
「そうじゃなくて、千秋がここでその話をしたとき、夏海もいたんだよ」
弁明する私から夏海に視線を移して一秒。花がしおれたように千秋はうつむいてしまった。
「ちゃんとしなきゃって思う。でも、なんて言っていいのかわかんないよ。意識してから、うまく話せなくなってるし」
恋に気づいてしまったら、その先を求めたくなる。そばにいるだけでよかったのに、満たされなくなり、もっと一緒にいたくなる。
冬吏。君は今、どこでなにをしているの?
私のことを少しは思い出してくれているの?
「私も伝えたかった」
思ったよりも重い口調になってしまった。
「冬吏に好きだと伝えたかった。でももう、伝えられない」
「雪音……」
悲しみは伝染するらしく、千秋は表情を曇らせた。急いで笑顔を作ろうとしたけれど、仮面はもう、どこにも見当たらない。
「そばにいたときよりも、ずっと冬吏のことばかり考えてる。でも、千秋は違う。すぐそばに好きな人がいるんだもん。だからこそ、伝えなくちゃ」
二十五日を生き延びることができたなら、北極に行こう。どうやって行くのか、いくらかかるかはわからないけれど、どんなことをしてでも冬吏に会いたい。
「わかった。がんばってみる。その代わり、ふたりも約束ね。雪音はひとつでも多く『私との約束』をがんばること。夏海は二度とサボらないこと」
「なんでウチまで」
不満げに夏海がぼやくと、千秋は鈴の音のように笑った。
「友だちだからだよ」
「……わかったよ」
プイとそっぽを向く夏海の声がやわらかい。
そのとき、スピーカーから流れていた曲がプツンと途切れた。
――ガコン。
冬吏が放送室を占拠したときのことを一瞬で思い出した。
まさか……冬吏が?
淡い期待は一瞬で砕かれ、放送部の女子生徒の声が流れた。
『お昼の放送を中断してお伝えします。これから臨時の全校集会がおこなわれます。全校生徒は、すみやかに体育館へ集まってください』
思わず三人で顔を見合わせる。
休み時間の半分も終わっていないのに集められたことなんて、一度もない。
イヤな予感を抱え、校舎に入るとたくさんの生徒が階段をおりていた。屋上にいたことがバレないように、人の流れが落ち着くのを待ってから体育館へ急いだ。
クラスごとに整列しているうちに、ステージに大きなスクリーンが設置された。校長先生は演台の前にスタンバイしているのに、誰かと電話で話している。
なにか……とんでもないことが起きている。
「ひょっとして……」
口にしかけた言葉を呑みこんだ。
「まだそろっておりませんが、時間になりましたのではじめます」
普段より固い口調で校長先生は言った。右手にはまだスマホが握られている。
「今から大事な発表があります。私語は謹むように」
時刻は十三時ちょうど。照明が落とされると、スクリーンに体育館のそれより立派な演台が映し出された。
カメラのフラッシュを浴びながら現れたのは、首相だった。生中継で記者会見を行うようだ。
まさか。まさか……。
『お集まりいただいた皆様、ありがとうございます。これより、重大な話を皆さんにお伝えしなくてはなりません。どうか心を落ち着けてお聞きください』
前置きをしたあと、首相は画面をまっすぐに見た。
『これから六日後の十二月二十五日。世界に大きな地震が起こります。これは訓練ではありません。地震は、地球の中心部にある内核と呼ばれる場所から発生し、海面が数十メートル上昇します』
しん、とした静けさに包まれる体育館で、私はただ耳を澄ませていた。



