アスファルトから、炎のようなゆらめきが立ちのぼっている。
朝というのに熱い空気が体にまとわりつき、坂道の上に見える校舎は、ユラユラ躍っているみたい。
進んでも進んでも、ちっとも校門が近づいてこない。
「これじゃあ登山じゃん。ううん、むしろ遭難。朝から汗だくになるなんて、マジで最悪」
さっきから隣でグチり続けているのは、泉千秋。
「校舎に入れば、クーラーが効いてるから。ね?」
慰めの言葉も、不機嫌な千秋には通じない。唇をとがらせたまま、湿度のある目で見てくる。
「雪音って汗かかないよね? 髪だって長いままだし。それってずるくない?」
八つ当たりしてくるのはいつものこと。涼しい笑みを意識して浮かべる。
「汗をたくさんかく人は、基礎代謝が高いんだって。つまり、千秋が私よりも健康ってこと」
「そんなの慰めになってないし。あーもう、なんであたしたちって、こんなちっぽけな島に住んでるわけ? しかも、山のてっぺんにある高校に通ってるなんて、悲劇でしかない」
私たちの住む君沢町は、人口二千人ちょっとの小さな島。昔は漁業が盛んで、今の十倍くらいの住民がいたそうだ。
本土から見ると、海のなかに山がにょきっと生えていて、その中腹あたりに小さな町がある感じ。
もともとは、港のそばに町が広がっていたけれど、海面が上昇したせいで、大勢の人が本土へ引っ越したそうだ。残った住民は、山の中腹に港と生活拠点を移動して暮らしている。
漁業はすたれ、本土につながる橋さえ、今じゃ海のなか。港だって臨時で作ったようなお粗末なもので、大型船は乗り入れができない。
日本だけでなく、世界全体が海面上昇の影響を受け、昔はヨーロッパと呼ばれていた大陸は半分ほど海に沈んだそうだ。世界の人口も昔は八十億人いたころもあるけれど、今は減少の一途をたどっていると社会の授業で習った。
昔のことを教えてもらってもピンとこない。二〇五〇年の今、私たちにとって大切なのは、校門にたどり着くことなのだから。
「小学校も中学校も高校も島にひとつしかないし、高校だって建て替えたのはいいけど、あんな山のてっぺんにつくることないじゃん」
千秋のグチは止まらない。また髪を切った千秋の襟足は、もはやボブとは呼べないほど短くなっている。
よほど疲れたのだろう、千秋が足を止め体ごとふり向いた。
坂道に沿うようにまばらに家が建っている。その向こうには、この町唯一のスーパーマーケットの白い建物が見える。
坂道の果てに、君沢町のシンボルである君沢湖がぽっかりと丸い穴を空けている。すぐ先まで海が侵食していて、これ以上海面が上昇したら呑みこまれてしまいそう。
君沢湖はまるで鏡。今日みたいな快晴の日は、空と同じ青色に輝いている。
「そもそもここが田舎すぎるんだよ。海北町の住民として生まれたかった」
本土にある海北町は、もともと高台に位置する町。海面上昇の影響をそれほど受けておらず、今もたくさんの人が住んでいる。橋が海に沈んでからは、船を利用しないとお互いの町に行くことができない。
海北町の周りは山が連なっているから、あの町も決して都会とは言えないが、ここよりは何倍もマシだ。
「海北町に住んでたら、高校の選択肢も広がったもんね」
「そうだよ。あの町なら、電車もバスも船だってあるのに」
中学の同級生のなかには、海北町にある高校に進学した子もいるけれど、朝六時の船に乗ってもギリギリ間に合うレベルだそうだ。寮のある高校に進学した子もいるし、家族で引っ越した子もいる。
「てかさ」と、千秋が腕を組んだ。
「この町の人、どんどん出ていってるよね。『うちも脱出しようよ』ってママに言ってるのに、ちっとも聞いてくれない」
日焼け止めを塗りまくっている千秋の肌は、誰よりも白い。千秋のトレードマークといったところだ。
「逆に都会は飽和状態、ってニュースでやってたよ」
「そりゃあ、全国から人がなだれこんでるからね。それもこれも、全部〝三年豪雨〟のせい」
うらめしそうに千秋が空を見あげた。
私たちが生まれる前に起きた歴史的な豪雨。三年もの間、日本を中心に雨が降り続き、海面が上昇してしまったそうだ。地球温暖化の影響らしいけれど、詳しいことはわからない。
「そのあと、気温が一気にあがったんだよね?」
「『やっと雨が終わったと思ったら、季節が消えた』ってママが言ってた。雨が、夏以外の季節を溶かしたんだよ。だいたい、今が何月か知ってる?」
「十一月」
千秋が不満げに鼻を鳴らした。
「昔は、夏だけが暑かったなんて信じられる? 春には桜が咲いて秋には枯葉が舞って、冬には雪が降ってたんだって。動画では見たことがあるけど、実際に体験してないから想像できない」
「一年中同じ暑さだもんね」
太陽は、毎日うだるような暑さを押しつけてくる。海はお湯みたいにぬるくて、蜃気楼が揺れている。昔は浅瀬で魚を釣れたなんて信じられない。今では、養殖でしか育たないというのに。
やっと歩き出してくれた千秋の横に並ぶ。
「雪音って前は東京に住んでたんだよね? 季節を体験できるテーマパークとかがあるんでしょ?」
「私がいたときはなかったよ。町全体を冷やすクーラーはあったから、ここよりはマシだったけど」
今じゃ屋外型のテーマパークよりも、冷房の効いた屋内型のものが主流だ。『SEASONS PARK』というテーマパークでは、日本が失った四季を体験できるそうだ。行ったことはないし、たとえ東京に遊びに行っても、炎天下のなか入場の列に並ぶ気力はない。
「あー、あたしも都会に引っ越したい。みんなどんどん転校していくから、メンバーが足りなくなりそうなんだよね」
千秋は小学生のころから吹奏楽部に所属していて、今年ついに副部長の座についた。
「隣のクラスの子も、今月ふたり転校するみたいだね」
「そのうちのひとりが吹奏楽部なの。まあ、逃げ出す気持ちもわかるけどね。この町にいたら、いつか溶けてなくなりそうだし。都会の高校なら吹奏楽部だって余るくらい部員がいるわけでしょ? うらやましすぎる」
なんとか校門にたどり着くと、太陽がさっきより近い。逃げるように校舎に飛びこむと、冷たい風が体を一気に冷やした。
「おはよう。今日も暑いわね」
担任の一ノ瀬先生に声をかけられた。今年二十五歳になる一ノ瀬先生は、吹奏楽部の顧問も務めている。
周りの先生がジャージ姿なのに対し、赴任以来ずっと私服で貫いているし、メイクだってバッチリだ。
今日は明るめのブラウンのジャケットに白いブラウス、同じ色の幅広パンツを穿いている。
「うわ、莉子ちゃん今日もオシャレだね」
さっきの疲れも忘れ、千秋が感嘆の声をあげた。
「名前で呼ばないの。でも、ありがと」
「それ、初めて見る服だよね? すっごく似合ってる。ね?」
千秋が話をふってきたので、意識して笑みを作った。
「ほんと、ステキです。そういう服ってネットで買うんですか?」
「まさか。この島への送料はすごく高いから、東京に行ったときにまとめて買ってくるの。帰りなんて、商売でもするのか、ってくらい荷物を抱えてるのよ」
おどける一ノ瀬先生に、私も声を出して笑う。
こんなふうに、いつも相手が望む対応をしてしまう。
その人と同じ感情だと表すために、無意識に対外用の仮面を顔につける感じ。
「風岡さんは大丈夫そうだけど、泉さんは汗を拭かないと風邪引くわよ」
「そうなんですよぉ。雪音って全然汗かかないから、逆にあたしが目立っちゃって――」
「ほら、課題やるんでしょ」
まだ話したりない様子の千秋の背中を押し、強引に階段をのぼらせた。
二年生の教室は二階にあるけれど、生徒数の減少で教室はふたつしか使われていない。私たちのクラスは一組で、二年生になってすでに五人が転校してしまった。そのうちクラスの合併もあるとかないとか。
燃える太陽が、この町からどんどん人を追い出している。
そんな日々が続いている。
朝というのに熱い空気が体にまとわりつき、坂道の上に見える校舎は、ユラユラ躍っているみたい。
進んでも進んでも、ちっとも校門が近づいてこない。
「これじゃあ登山じゃん。ううん、むしろ遭難。朝から汗だくになるなんて、マジで最悪」
さっきから隣でグチり続けているのは、泉千秋。
「校舎に入れば、クーラーが効いてるから。ね?」
慰めの言葉も、不機嫌な千秋には通じない。唇をとがらせたまま、湿度のある目で見てくる。
「雪音って汗かかないよね? 髪だって長いままだし。それってずるくない?」
八つ当たりしてくるのはいつものこと。涼しい笑みを意識して浮かべる。
「汗をたくさんかく人は、基礎代謝が高いんだって。つまり、千秋が私よりも健康ってこと」
「そんなの慰めになってないし。あーもう、なんであたしたちって、こんなちっぽけな島に住んでるわけ? しかも、山のてっぺんにある高校に通ってるなんて、悲劇でしかない」
私たちの住む君沢町は、人口二千人ちょっとの小さな島。昔は漁業が盛んで、今の十倍くらいの住民がいたそうだ。
本土から見ると、海のなかに山がにょきっと生えていて、その中腹あたりに小さな町がある感じ。
もともとは、港のそばに町が広がっていたけれど、海面が上昇したせいで、大勢の人が本土へ引っ越したそうだ。残った住民は、山の中腹に港と生活拠点を移動して暮らしている。
漁業はすたれ、本土につながる橋さえ、今じゃ海のなか。港だって臨時で作ったようなお粗末なもので、大型船は乗り入れができない。
日本だけでなく、世界全体が海面上昇の影響を受け、昔はヨーロッパと呼ばれていた大陸は半分ほど海に沈んだそうだ。世界の人口も昔は八十億人いたころもあるけれど、今は減少の一途をたどっていると社会の授業で習った。
昔のことを教えてもらってもピンとこない。二〇五〇年の今、私たちにとって大切なのは、校門にたどり着くことなのだから。
「小学校も中学校も高校も島にひとつしかないし、高校だって建て替えたのはいいけど、あんな山のてっぺんにつくることないじゃん」
千秋のグチは止まらない。また髪を切った千秋の襟足は、もはやボブとは呼べないほど短くなっている。
よほど疲れたのだろう、千秋が足を止め体ごとふり向いた。
坂道に沿うようにまばらに家が建っている。その向こうには、この町唯一のスーパーマーケットの白い建物が見える。
坂道の果てに、君沢町のシンボルである君沢湖がぽっかりと丸い穴を空けている。すぐ先まで海が侵食していて、これ以上海面が上昇したら呑みこまれてしまいそう。
君沢湖はまるで鏡。今日みたいな快晴の日は、空と同じ青色に輝いている。
「そもそもここが田舎すぎるんだよ。海北町の住民として生まれたかった」
本土にある海北町は、もともと高台に位置する町。海面上昇の影響をそれほど受けておらず、今もたくさんの人が住んでいる。橋が海に沈んでからは、船を利用しないとお互いの町に行くことができない。
海北町の周りは山が連なっているから、あの町も決して都会とは言えないが、ここよりは何倍もマシだ。
「海北町に住んでたら、高校の選択肢も広がったもんね」
「そうだよ。あの町なら、電車もバスも船だってあるのに」
中学の同級生のなかには、海北町にある高校に進学した子もいるけれど、朝六時の船に乗ってもギリギリ間に合うレベルだそうだ。寮のある高校に進学した子もいるし、家族で引っ越した子もいる。
「てかさ」と、千秋が腕を組んだ。
「この町の人、どんどん出ていってるよね。『うちも脱出しようよ』ってママに言ってるのに、ちっとも聞いてくれない」
日焼け止めを塗りまくっている千秋の肌は、誰よりも白い。千秋のトレードマークといったところだ。
「逆に都会は飽和状態、ってニュースでやってたよ」
「そりゃあ、全国から人がなだれこんでるからね。それもこれも、全部〝三年豪雨〟のせい」
うらめしそうに千秋が空を見あげた。
私たちが生まれる前に起きた歴史的な豪雨。三年もの間、日本を中心に雨が降り続き、海面が上昇してしまったそうだ。地球温暖化の影響らしいけれど、詳しいことはわからない。
「そのあと、気温が一気にあがったんだよね?」
「『やっと雨が終わったと思ったら、季節が消えた』ってママが言ってた。雨が、夏以外の季節を溶かしたんだよ。だいたい、今が何月か知ってる?」
「十一月」
千秋が不満げに鼻を鳴らした。
「昔は、夏だけが暑かったなんて信じられる? 春には桜が咲いて秋には枯葉が舞って、冬には雪が降ってたんだって。動画では見たことがあるけど、実際に体験してないから想像できない」
「一年中同じ暑さだもんね」
太陽は、毎日うだるような暑さを押しつけてくる。海はお湯みたいにぬるくて、蜃気楼が揺れている。昔は浅瀬で魚を釣れたなんて信じられない。今では、養殖でしか育たないというのに。
やっと歩き出してくれた千秋の横に並ぶ。
「雪音って前は東京に住んでたんだよね? 季節を体験できるテーマパークとかがあるんでしょ?」
「私がいたときはなかったよ。町全体を冷やすクーラーはあったから、ここよりはマシだったけど」
今じゃ屋外型のテーマパークよりも、冷房の効いた屋内型のものが主流だ。『SEASONS PARK』というテーマパークでは、日本が失った四季を体験できるそうだ。行ったことはないし、たとえ東京に遊びに行っても、炎天下のなか入場の列に並ぶ気力はない。
「あー、あたしも都会に引っ越したい。みんなどんどん転校していくから、メンバーが足りなくなりそうなんだよね」
千秋は小学生のころから吹奏楽部に所属していて、今年ついに副部長の座についた。
「隣のクラスの子も、今月ふたり転校するみたいだね」
「そのうちのひとりが吹奏楽部なの。まあ、逃げ出す気持ちもわかるけどね。この町にいたら、いつか溶けてなくなりそうだし。都会の高校なら吹奏楽部だって余るくらい部員がいるわけでしょ? うらやましすぎる」
なんとか校門にたどり着くと、太陽がさっきより近い。逃げるように校舎に飛びこむと、冷たい風が体を一気に冷やした。
「おはよう。今日も暑いわね」
担任の一ノ瀬先生に声をかけられた。今年二十五歳になる一ノ瀬先生は、吹奏楽部の顧問も務めている。
周りの先生がジャージ姿なのに対し、赴任以来ずっと私服で貫いているし、メイクだってバッチリだ。
今日は明るめのブラウンのジャケットに白いブラウス、同じ色の幅広パンツを穿いている。
「うわ、莉子ちゃん今日もオシャレだね」
さっきの疲れも忘れ、千秋が感嘆の声をあげた。
「名前で呼ばないの。でも、ありがと」
「それ、初めて見る服だよね? すっごく似合ってる。ね?」
千秋が話をふってきたので、意識して笑みを作った。
「ほんと、ステキです。そういう服ってネットで買うんですか?」
「まさか。この島への送料はすごく高いから、東京に行ったときにまとめて買ってくるの。帰りなんて、商売でもするのか、ってくらい荷物を抱えてるのよ」
おどける一ノ瀬先生に、私も声を出して笑う。
こんなふうに、いつも相手が望む対応をしてしまう。
その人と同じ感情だと表すために、無意識に対外用の仮面を顔につける感じ。
「風岡さんは大丈夫そうだけど、泉さんは汗を拭かないと風邪引くわよ」
「そうなんですよぉ。雪音って全然汗かかないから、逆にあたしが目立っちゃって――」
「ほら、課題やるんでしょ」
まだ話したりない様子の千秋の背中を押し、強引に階段をのぼらせた。
二年生の教室は二階にあるけれど、生徒数の減少で教室はふたつしか使われていない。私たちのクラスは一組で、二年生になってすでに五人が転校してしまった。そのうちクラスの合併もあるとかないとか。
燃える太陽が、この町からどんどん人を追い出している。
そんな日々が続いている。



