それは、ホームルームの時間に起きた。

一ノ瀬先生が教壇に立つのと同時に、冬吏が席にいないことに気づいた。教室を見渡してもおらず、前列の桜輔と千秋は気づかずコソコソ話をしている。

みんなに二十五日のことを話す約束なのにどこへ行ったんだろう。

「あれ、九条くんは?」

一ノ瀬先生が気づき、みんながいっせいに冬吏の席を見た。桜輔と千秋もふり返り、視線をスライドしてきたので、首をひねってみせた。

「トイレだと思いまーす」

桜輔が手をあげると、一ノ瀬先生は眉をひそめてからあごを引いた。了承した、ということだろう。

一ノ瀬先生のうしろの黒板に、『12月8日 』とチョークで書いてある。二十五日まであと二週間もない。

机の上でギュッと手を握りしめながら、何度も冬吏の席を確認する。一ノ瀬先生の話は佳境に入り、もうすぐホームルームの時間が終わってしまいそう。

――ガコン。

突然、スピーカーが音を発した。いぶかしげに見あげた一ノ瀬先生が、気を取り直したように「それでは」とまとめに入った。

――ガコン。

聞き間違いじゃない。

ざわざわした声が生まれるなか、

『えー』
 
スピーカーから声が聞こえた。
 
一瞬で冬吏の声だとわかった。

『皆さんにお知らせしたいことがあります。信じてもらえないのは百も承知でお話しますので、先生がたも含め、少しだけ聞いてください』

「冬吏の声じゃね?」
 
桜輔が叫び、「マジ!?」 「やるじゃん!」という歓声が波のように広がる。
 
クラスメイトに伝えると言っていたのにどうして?

『十二月二十五日の木曜日。大きな地震が起こります。これまで皆さんが体験したことのないレベルのものだと予測されます』

一瞬にしてざわめきがかき消えた。

『二十五日は、すでに冬休みに入っていますが、当日は必ずこの島にいてください。そして、地震が起きたらこの高校に向かって走ってください。坂をのぼれない近所の人がいたら、手伝いをしてあげてください』

「……ヤバくない?」 

ふたつうしろの席の女子がつぶやいた。

「マジでヤバい。動画撮る?」

「あいつ頭、大丈夫?」

揶揄する声のなか、一ノ瀬先生が大股で教室を出ていった。

どうして校内放送なんかで?

これじゃあ信じてもらえないどころか、みんなから責められてしまう。

『うちの父親が地質学の研究者なんです。東京の学会メンバーで、このことは数年前から言われていたことです。そのうち、国民に向けての発表もあると思います』

『開けなさい!』
 
冬吏の声の向こうで、ドアを叩く音が聞こえる。何人かの先生が駆けつけたようだ。

『十二月二十五日に地球がこわれます。日本だけじゃなく、世界的な大惨事となるでしょう。この島は標高が高いので、ほかに比べると安全だと言われています。みなさん、どうか――』
 
ガタガタとした音が聞こえた次の瞬間、マイク音はプツリと途切れた。ドアのカギを開けた先生が、電源を切ったのだろう。
 
しばらくの沈黙ののち、『えー』と低い声に変わった。校長先生の声だ。

『今の放送内容については気にしないように。先生方は、ホームルームを続けてください』
 
それからしばらくしても、一ノ瀬先生も冬吏も戻ってこなかった。
 
みんな冬吏の話で盛りあがっている。

「ヤバすぎっしょ」
 
千秋がふり向いてそう言った。ほかのクラスメイトと違い、言葉とは裏腹に心配そうなトーンで。桜輔はなにか考えこむように机とにらめっこをしている。
 
座っているだけでいいと言われたし、冬吏と一緒に伝えるつもりもなかった。
 
……でも、このままでいいの?

今の私は、二十五日に地球がこわれることを信じている。ひとりでも多くの人を助けたい冬吏の気持ちを支持できるのは私しかいない。
 
お父さんもきっと同じだった。信じてくれる人がいなかったから、居場所を追われてしまった。
 
せめて、私だけでも信じてあげればよかった……。

「え、雪音?」
 
ゆっくり立ちあがる私に、千秋が目を丸くした。
 
冬吏の話題で盛りあがっていたクラスメイトの声が、一瞬で静まった。

「あの……」
 
あまりにもか細い声がこぼれた。咳払いをし、お腹に力を入れる。

「私のお父さんも、昔、学会のメンバーだったの。防衛省の高温化対策室という名前で、いずれ地球がこわれることを主張してた」
 
千秋が座らせようと引っ張る手を、やさしく解いてから続ける。

「冬吏はうそをつくような人じゃない。みんなを助けたくて教えてくれた。二十五日になにも起きなければそのほうがいいし、信じなくても構わない。でも、なにか起きたら、必ずここに集まってほしい」

「マジでキモいんだけど」
 
女子のひとりがそう言い、

「これってドッキリ企画かなんか?」

男子が茶化すと、さっき以上に教室がさわがしくなった。

隣のクラスの先生が来て、今日は帰るようにと言われた。

誰もが私を避けるように帰っていく。あのころと同じシーンが再現されているみたい。

「ちょっと来て」

千秋が怒った顔で私を連れて教室を出た。連れていかれたのは、屋上だった。

(なまり)色の厚い雲が空を覆っている。

手すりの場所まで行くと、千秋は腕を組んだ。

「なによさっきの。ちゃんと説明して」

「そのままの意味。私……ここに越して来たときから、地球がいつかこわれることを知ってたの」

「は?」
 
誰かを信じることで、人は強くなれるのかもしれない。避け続けてきた過去の話をしても、恐怖は感じなかった。

「お父さんが受けたインタビューの動画がネットにアップされて、私もひどいいじめを受けたの。それで家族でこの町に来たんだよ」

「……マジで?」

「今ならわかる。お父さんの言ってることは正しかった。冬吏だってそう。みんなを助けたい気持ちで教えてくれたんだよ」
 
宇宙語でも聞くようにポカンと口を開けていたけれど、やがて千秋はだらんと腕を下げ、校門あたりを見おろした。

「本当に地震が起きるってこと?」

「大きな地震が起きて、海面が一気に上昇する。この町もある程度は水のなかに沈むみたい」

「そんなこと……信じられないよ。クラスのみんなも同じじゃない?」
 
だろうな、と思った。私だって千秋やクラスメイトの立場なら、同じ反応を示しただろう。

「そういう心理を、〝正常性バイアス〟って言うんだって」

「正常性……なにそれ」

「予期しない出来事や危機的状況が起きたときに、自分だけは大丈夫とか、なんとかなるだろうって思いこんで、正常な状態だと認識しようとすること。集団にいると特にそれが起きるみたい」

理解が追いつかないのだろう、千秋がイヤイヤをするように首を横にふった。

隣に並び、「千秋」と呼びかけた。

「信じてくれなくてもいい。でも、もしも二十五日に地震が起きたら、冬吏が言ったように、ここまで逃げてほしい」
 
大切な友だちを失いたくない。大切な友だちの家族や友だちも守りたい。
 
チラッとこっちを見た千秋が、「ねえ」とつぶやいた。

「最終確認。これってドッキリとかじゃないんだよね? マジで言ってるんだよね?」
 
大きくうなずく私を見て、千秋は手すりの向こうに手をおろした。

「雪音がいじめられてたのも本当なの?」

「うん」

「ムカつくね。あたしがその場にいたなら、全員まとめてとっちめてやるのに」

ニッと笑ったあと、千秋はうなずいた。

「わかったよ。信じないけど、気には留めておく」

「ありがとう」
 
校門を抜け、帰途につく生徒たちが見える。あのうち何人の生徒が、冬吏の言葉を覚えていてくれるのだろう。
 
空の遠くで雷が聞こえる。もうすぐ雨がこの町を包む。

「今さ、地球がこわれるかもって考えてみたの。そしたら、その前にあたし、どうしてもやりたいことがあるって気づいた」

「やりたいこと?」

「告白したい。桜輔に想いを伝えたい」

キッパリと言ったあと、()()するように千秋が顔をあげた。

「だってそんなことが起きたら、離れ離れになるかもしれないでしょ? 会えなくなってから後悔するのだけは絶対にイヤ。桜輔のことだから、海に呑まれる可能性だってあるし」
 
茶化しながらも悲しい目をしている。

少しでも信じてくれたことが、ただうれしかった。

「応援するよ」

「応援は遠慮しとく。最近の雪音って、前と違って全部顔に表れてるからすぐにバレそう。それより、冬吏のことはどう思ってんの?」
 
仮面を捨て去った今、心のなかにあるのは冬吏への想いだけ。

「好き。私も冬吏のことが好き。でも、これから一緒に行動することが多いから、告白はしない」

「それもひとつの決断だよ」
 
そう言ったあと、千秋はクスクスと笑いだした。

「あたしたちって、どうしようもなく片想いをしてるんだね」

「うん。苦しくて、だけどしあわせだね」
 
恋をすることなんてないと思っていた。
 
樹くんのことをずっと好きだと思いこんできたけれど、それよりも深くてもどかしくてせつない気持ちを抱いている。

「千秋ってすごいね。私なんて、残りの期限があるってわかってるのに、なんにもできないのに」
 
千秋は少しだけ真面目な顔になって、私の目をまっすぐ見た。

「じゃあ、書いてみなよ。雪音が、本当にやりたいこと」

「……書く?」

「うん。心の中だけで考えてると、ぼんやりしちゃうでしょ? ちゃんと文字にすると、見えてくるよ。あたしもそうだったから」
 
千秋はカバンからノートを取り出して、一枚を丁寧に破り、ペンと一緒に差し出してくれた。

「これに書くの?」

「そう。『私との約束』って感じで書いてみたら?」
 
紙を受け取り、感触を確かめるようにそっと両手で包みこむ。
 
なにを書けばいいんだろう……。
 
心のなかにはたくさんの感情が渦巻いているのに、それを言葉にするのがこわい。
 
だって書いてしまったら、それはもう〝願い〟になってしまうから。
 
でも――このままなにもしないで後悔するほうが、もっと怖い。
 
そっと息を吸いこみ、ペンを握る。



お父さんに謝る
みんなで生き残る
『ラ・カンパネラ』を弾けるようになる
冬吏に想いを伝える


 
一文字一文字、ゆっくりと書いていくたびに、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
 
まるで、自分の気持ちをようやく許せたような、そんな感覚だった。

「……やりたいこと、あった」
 
思わずこぼれたその言葉に、千秋がやさしく笑った。

「よかった。ちゃんと、自分の気持ちに気づけたね」
 
小さくうなずくと、心が少し軽くなった気がした。
 
怖いけど、目をそらさずにいたい。残された時間がどれくらいかなんて、もう関係ない。『私との約束』の文字がキラキラ輝いて見えた。

「でもさ」と千秋が四つ目の約束を指さした。

「一緒に行動することが多くなるから、告白はしないんじゃないの?」

「今はしないけど、地球がこわれる直前でする。ギリギリでも、『私との約束』を守ったことになるし」
 
熱くなる頬を手で仰ぐと、千秋はおかしそうに笑った。

「そろそろ部活に行かなくちゃ。雪音はどうする?」
 
千秋がペンをしまいながら尋ねた。

「今日はやめとく。みんなの前でまた演説しちゃいそうだし」

「はは。じゃあ、行くね」
 
千秋が去ったあと、もう一度空を見あげた。
 
雷はさっきよりも近い位置で雨を予告している。生あたたかい風に吹かれながら、夏に支配された町を見おろす。
 
冬吏はまだ先生に叱られているのかな。私がみんなに話したことを知ったら、どう思うのかな。
 
自分のことよりも相手のことを考えてしまう。これも恋のもたらす変化のひとつなのだろう。
 
ノートに書いた『私との約束』を折りたたんでいると、

「あのさ」
 
急に声をかけられ、思わず悲鳴をあげてしまった。
 
ふり向くと、見知らぬ女子生徒がすぐそばに立っていた。

「あんたさ、同じクラスの女子だろ?」
 
驚いたのはその口調じゃない。赤に近いピンク色の前髪が真っ先に目に飛びこんできた。パーマをかけているらしく、波打ちながら風に泳いでいる。
 
スクールメイクにしては濃いメイクで、唇も髪の色と同じ。つけまつ毛をつけているけれど、目は細く怒っているように見えた。

「あ……同じクラスの?」
 
入学式のときに一度だけ見たうしろの席の子だ。

「よく覚えてんね。あんた、なんて名前だっけ?」

「えっと……」

()(とう)?」

「いえ。あの……風岡です。風岡雪音です。ひとつ前の席です」
 
しどろもどろで自己紹介するが、彼女は興味なさげに「へえ」と言うだけ。
 
奇妙な沈黙の合い間に、雷が薄く光った。

「クラスのヤツらとは一度会っただけだから覚えてない。ていうか、さっきのも同じクラス? 千秋って呼んでたけど」
 
彼女が一歩近づくと、体が勝手にあとずさりをした。

「ウチは、()()(なつ)()。今どき夏に関する名前なんてヤバいよな」

「いえ……」
 
反応の悪い私に不機嫌そうな表情になる夏海さん。ドギマギしているうちに、また一歩詰められる。

「さっき、地球がこわれる話、してたよな?」
 
なんて答えるのが正解かわからない。でも、初対面に近い夏海さんに話すには、内容がディープすぎる。

「して……ないです」

「バカにしてんの? すぐそこで聞いてたんだよ!」
 
人差し指で扉のほうを示した夏海さん。指先も、髪と同じ色に塗られていた。

「ごめんなさい……」
 
泣きそうになっていると、夏海さんはイラついたようにプイとそっぽを向く。

「悪い。人と話すの久しぶりだからさ、キツくなった」

「いえ……」

「さっき、放送してたの、冬吏だろ?」

「冬吏を知ってるんですか?」
 
意外そうに片方の眉をあげた夏海さんが、

「敬語はやめろ」
 
とぶっきらぼうに言った。さっきよりその表情がやわらかいように思える。

「知らねえの? 冬吏の家族とウチの家族、タイミングを合わせて引っ越したんだよ」

「え……」
 
驚いた。これまで冬吏から夏海さんの話をされたことなんてない。
 
固まる私に夏海さんは赤い唇をカーブさせた。

「冬吏は昔からうそをつかない。二十五日に地球がこわれるのは本当のこと」
 
彼を信じる瞳の向こうで、雨が音もなく降りはじめた。