鍵盤が、悲しげに泣いている。

『ラ・カンパネラ』は、右手の跳躍で高らかな鐘の音を表現する曲なのに、このごろは弾くたびにせつない音ばかり生まれるようで。
 
ミスタッチをしながらなんとか弾き終わると、セミの声が耳に届いた。

「セミなんて珍しいねえ」
 
縁側に座るおばあちゃんは、庭の木を眺めている。隣に座ると、いつものように麦茶の入ったグラスを渡された。汗をかいたグラスが、演奏直後の指を冷ましてくれる。

「おばあちゃんが若いときはセミがたくさんいたんでしょう?」

「夏といえばセミだったね。十二月に鳴いてるなんて想像してなかった」
 
誰もが変化に戸惑いつつも、詳しい情報を知ろうとしない。テレビやネットニュースで取りあげられても、原因を特定することもなく、ああだこうだと推測するだけ。
 
その間に、地球は夏に支配されていった。
 
地球がこわれることなんて予想もしないまま、誰もが〝今日〟を続けている。

「それより、期末テストはどうだったんだい?」

「まあまあかな。まだ戻ってきてないから、あくまで予想だけど」
 
海面がこの一週間でまた上昇した気がする。害虫駆除の薬に負けなかったセミが、尻切れトンボで沈黙した。

「今日は五日だろ。二十五日まで一ヶ月もないね」
 
世間話のような軽い口調でおばあちゃんが言った。

「おばあちゃんはお父さんの言うことを信じてるんでしょ?」

「そうだね」

「だったらうちにおいでよ。ここにいたらあっという間に海に呑みこまれちゃうし」

また、沈黙。チラッと隣を見ると、意外にもおばあちゃんは笑っていた。

「え、なんで?」

「だって、雪音ちゃんもお父さんの言うことを信じてくれたから。前までは、信じてなかっただろ?」
 
冬吏と約束したから。そんなこと言えるはずもなく、麦茶を飲んで時間を稼いだ。

「一〇〇パーセント信じたわけじゃないけど、万が一ってことがあるでしょ」
 
あれから冬吏と何度か話し合った。町のみんなを助けるには、二十五日に地球がこわれることを伝えなくてはならない。
 
月曜日に、まずはクラスメイトに伝えることになっている。

「おばあちゃんはここにいるよ」
 
予想外の答えが返ってきた。

「え、なんで? 地球がこわれたら、海面が一気にあがるんだよ?」

「あの子に何度も説明されたから知ってるよ。でも、ここはおじいちゃんと暮らした大切な家。見捨てていくことなんてできないよ」
 
目の前におじいちゃんがいるように、おばあちゃんは穏やかにほほ笑んでいる。

「待って。死んじゃったら意味がないじゃん」

「ふふ。お父さんと同じことを言うね。『二十四日までには、かついででも連れていく』って言われちゃった」
 
……よかった。お父さんなら宣言どおり、かついで避難させてくれるだろう。
 
ホッとする以上に、不安な気持ちが大きくなっている。
 
おばあちゃんですら説得できないのに、クラスや町のみんなを助けることができるの……?
 
このあと冬吏に電話をしてみようかな。もう一度作戦を練らないとうまくいきっこない。

「ねえ、雪音ちゃん」

「ん?」

「雪音ちゃんは恋をしてるの?」
 
予想外の質問をされ、思わずグラスを落としそうになった。

「してない。恋なんかしてない」
 
慌てて否定したけれど、おばあちゃんは納得したようにうなずいている。

「自分の気持ちに正直になればいいんだから、怖がらなくていいよ」

「してないって言ってるのに……。それに、今はそれどころじゃないでしょ」
 
恋なんてしている場合じゃない。わかっているのに、テスト期間後半から今日まで、冬吏のことばかり考えてしまっている。

「わかったよ。おかしなことを聞いてごめんね」

ちっとも悪いと思っていないことが伝わってくる。

「ちなみに、なんで恋をしてるって思ったの?」
 
興味なんて一ミリもないふうに尋ねてみた。

「来るたびに、東京にいたころの話ばかりしてただろ? 最近じゃ高校の話ばかりしているからね」

「思い出話をしてただけ」
 
また樹くんとの思い出がよみがえった。けれど、前に比べてピントがぼやけているのがわかる。
 
樹くんと冬吏はまったく違う。冬吏は、樹くんみたいに大口を開けて笑わないし、あいかわらずクラスメイトには塩対応のまま。

「あとはねえ」とおばあちゃんがいたずらっぽく笑った。

「お父さんの言うことを信じてくれたから」

「それとこれとは別の話。冬吏――クラスメイトのお父さんが、対策室に所属してるんだって。徐々にお父さんの説を信じてくれる人が増えてるみたい」
 
言いながら、別の話じゃないと自覚した。冬吏が話してくれたから、信じることができたんだ。
 
おばあちゃんが額の汗を拭きながら居間に戻った。君沢湖の周辺をぼんやり眺める。
 
冬吏は今ごろなにをしているんだろう。いるわけがないのに、近ごろは無意識に冬吏の姿を探してしまう。

「おじいちゃんが生きてたら、雪音ちゃんが恋したことを教えてあげたいねえ」
 
話を止めてくれないおばあちゃんに、「もう」と上半身だけふり返る。

「その話は終わり。お父さんにさらわれる前に、持っていく荷物をまとめておこうよ」

「ピアノが泣いてたから」
 
さっきまで弾いていたピアノを、おばあちゃんはやさしく見つめている。

「……なにそれ」
 
ポンポン、と隣にある座布団を叩くので、仕方なく座った。
 
グラスに麦茶を注いでから、おばあちゃんは私を見つめる。

「恋をすると音が変わる、って昔から言われててね。音に感情が乗ることでより深いメロディを奏でることができるんだよ」
 
ドキッとした。『ラ・カンパネラ』は難易度が高い曲なので、演奏中に冬吏のことを考える暇はない。感情が音に出てしまっていることを、おばあちゃんは気づいたんだ……。
 
ピアノ歴の長いおばあちゃんに、とっさの言い訳は通用しない。
 
引っ越してきたときも、同じように『ピアノが泣いている』と言われたことを思い出した。

「……恋かどうかわからない。だって苦しいだけだし」
 
自分でも笑いそうになるくらい、弱々しい声がこぼれた。
 
ため息交じりの告白を、おばあちゃんはほほ笑みで受け止めてくれた。

「地球がこわれる前だからこそ、自分に正直になってほしい。恋している自分を受け入れることからはじめてみなさい」

「受け入れるなんて無理だよ」
 
そんなことをしたら、もっと苦しくなる。
 
期待しそうになる自分を抑えつけるのに必死なのに、受け入れてしまったら、それこそ感情が暴走してしまいそう。

「雪音ちゃんが受け入れてくれるなら、おばあちゃんもお父さんのおうちに行くことを考えるよ」

「それってずるくない?」
 
文句を言うが、おばあちゃんはなんのその。

「孫にしあわせになってほしいだけよ」なんて、笑っている。

「考えておくね」
 
外に目を向ければ、空よりも深い青色の湖が私を見ていた。