期末テスト初日は、まあまあといったところ。
千秋も『ヤマカンが冴え渡った』と言ってたし、冬吏も『それなりに』と満足そうだった。
ひとり頭を抱えていたのは桜輔。ホームルームが終わるや否や、強引に冬吏を連れて図書室に向かった。どうやら明日の対策をするみたい。
椅子に座ったまま、桜輔を見送る千秋の横顔がせつない。前から同じ表情を浮かべていただろうに、私は見ているようで見ていなかった。
「千秋も行ってきなよ」
「なんでよ。あたしは別に……。ていうか、ここでその話はしないでよね」
小声で文句を言う千秋がいじらしくてかわいい。
「明日の〝歴史総合〟は、千秋がいちばん苦手な科目でしょ。冬吏の得意科目なんだから、桜輔と一緒に教えてもらったらどうかな」
意味もなく短い前髪を触りながら、千秋は体をモジモジさせる。
「まあ……そうか。勉強を教えてもらうだけだもんね」
自分に言い聞かせるように言ったあと、千秋はサッと席を立った。
「しょうがないから行ってくる」
頬が赤いのは、窓から差しこんでいる夕日のせいだけじゃない。ずっとそばにいたのに、自分の仮面をつけるのに必死でちっとも気づいてあげられなかった。
これからは違うからね。
心のなかで誓ってから、しばらくは明日のテスト勉強をした。
気づけばテキストを流し読みしながら、右手が空想のピアノを弾いていた。
最近、おばあちゃんの家に行けていない。私のスケジュールを把握しているおばあちゃんは、テスト期間はピアノを弾かせてくれない。
弾けないとなれば、余計に弾きたくなってしまう。
音楽室に寄ろうか。
テストが終わるまで音楽室を訪れる部員もいないし、少し弾くくらいなら……。
荷物をまとめて職員室に寄り、音楽室のカギを借りてきた。
当たり前だけど音楽室に部員はおらず、無音に支配されていた。はしっこにあるグランドピアノが私を呼んでいる。
椅子に腰かけ、鍵盤蓋を開く。鍵盤を覆っている赤いフェルトを外せば、照明で滑らかに光る鍵盤が姿を現した。
ピアノを弾けることを知った千秋は、卒業公演で演奏する演目にピアノパートがある曲を追加した。誰でも一度は聞いたことのある、映画に使われた曲だ。
ピアノのソロからはじまり、ひとつずつ楽器が加わっていく構成。この曲は『ラ・カンパネラ』を練習する合い間の息抜きにしていたので、楽譜がなくとも指が覚えている。
鍵盤に右手を置き、チャイムのようなメロディを弾く。続いて両手を動かせば、情緒感あふれる音が音楽室に広がっていく。
頭のなかで、各楽器のパートの音を想像しながら弾き続けていると、ふいに音楽室のドアが開いた。
ピアノが弾けることはいずれバレることなのに、とっさに鍵盤から指を離してしまった。
「やっぱり雪音だったか」
――冬吏だった。
「え、なんで?」
「そっちこそなんで? もう帰ったと思ってた」
ピアノのそばまでやってきた冬吏は手ぶらだった。私の視線に気づいたのか、冬吏が両手を開いてみせた。
「今、桜輔と千秋とテスト対策中。明日のテストに出そうなところをまとめたノートがあるから、それを暗記してもらってるところ。歴史なんて、覚えることでしか対処のしようがないし」
「あ、そうなんだ」
「ふたりが覚えてる間に練習しようと思って来てみたら、ピアノの音が聞こえたから驚いた。それ、今度の演目だろ?」
「うん」
戸棚に置いてある楽譜を取り出すと、冬吏はページを開いた。
「一年生のときに練習したけど、あのときのピアノは伴奏だけだったから、いまいちピンときていない。最初から弾いてみてよ」
「遠慮しとく」
秒を置かずに断ったのに、冬吏はなぜかうれしそうに笑った。
「最近の雪音、いいね。ちゃんと俺と話をしてくれてる。てことで、弾いて」
「だからイヤだって」
さすがに冬吏に聞かれるのは恥ずかしい。
すると冬吏は、なぜか私のそばに来て楽譜をセットし、私の左側に強引に座ってきた。
「じゃあ俺が左手をやるから、雪音は右手な」
「え、冬吏ってピアノも弾けるの?」
「みんなの前で披露するレベルじゃないから言わなかっただけ。ほら、言っちゃうとピアノ担当にされそうだし」
最初のシ・ソ・ラ・レの音を奏でた冬吏が、私を見てニッと笑った。
仕方がないフリで、右手のパートを続けた。初めての連弾のせいで、タイミングがうまくつかめないまま曲が進行していく。
残念ながら、自己評価どおり冬吏の演奏は固かった。ミスタッチが多いのもそうだけど、音の強弱やテンポがずれていて、いつの間にか追いかけっこをしているみたい。
「うわ」とか「あ」とつぶやきながら、真剣なまなざしで楽譜と鍵盤を目で追う冬吏。
私がリードする形で落ち着くころには、曲が終わりかけていた。
最後の四小節を弾き終わると、鍵盤から手を離した冬吏が悔しそうにうつむいた。
「情けない。昔はもっと弾けたのに」
「練習を続けないと難しいよね」
私の演奏もイマイチどころか、かなり悪い出来だった。
冬吏との距離が近いことを意識しすぎたのか、体も指も固くなってしまった。
「雪音のピアノって、風景を連想させるよな。すごいと思った」
冬吏が楽譜をたたみ、近くの椅子に移動した。それが少しさみしかった。
「冬吏のフルートだって、すごくいいよ。目立つとかじゃなくて、吹奏楽をリードしてるっていうか……」
最後はごにょごにょと口ごもってしまう。
しばらく続いた沈黙のあと、
「卒業公演、無事に開催できるといいな」
つぶやくように冬吏は言った。
「うん。部員がこれ以上欠けないといいね」
「それも大事だけど、まずは二十五日を乗り切らないと。いや、俺の転校をなんとかするのが先か」
困ったような表情になる冬吏に、胸がズキンと跳ねた。
「北極に行かないって言ったよね?」
「もちろん残るつもり。でも、あの人の言うことは絶対だから」
冬吏が北極へ行ってしまったら、二度と会えなくなる。想像するだけで息苦しくてたまらない。
「雪音にお願いがあるんだ。町のみんなを救ってほしい」
それは、冬吏がいなくなる可能性があるから?
「……無理だよ」
私ひとりじゃなんにもできない。
「この町は比較的安全だから大丈夫。海面の温度があがるから、なるべく高い場所にみんなを避難させてほしい」
「無理だって」
さっきまで明るかった音楽室が日に陰ったように思えた。
鍵盤を見つめながら、重い記憶が頭をもたげる。
「冬吏に言ってなかったことがあるの。私、地球がこわれる話、小学生のときから知ってた」
「……そうなんだ」
さっきより低い声に、思わず体を小さくした。
「私のお父さん、今じゃソーラーパネルの会社を経営してるけど、昔は国の高温化対策室のメンバーだったの。お父さんは、地球がこわれると信じてた。ううん、今も信じてる」
「うちの親父と一緒ってこと?」
「やっぱり、冬吏のお父さんも対策室のメンバーなんだ?」
「今もしてる。あ、でも時期が違うかもな。話してくれればよかったのに」
目を丸くする冬吏から視線を落とす。
「聞いてすぐのころは、クラスのみんなに助かってほしくて、何度も話をした。そのせいで、私に話しかける人はいなくなった。それ以来、誰にも言ってない」
理解してくれたのは樹くんだけだった。学校に行けばみんなが私の存在なんてないように扱った。物を隠されたり、揶揄する声ばかりが聞こえた。
「俺も親父のことは好きじゃないけど、その説だけは信じてる。地球がこわれるのは間違いない。雪音を信じなかった人たちだって、いずれわかってくれる」
「そんなふうに思えないよ。説明したら、前みたいに拒絶される。あんなふうに無視されるくらいなら、なにもしないほうがマシ」
ほら、本音を話せば周りを傷つけ、自分も傷つく。
なんで冬吏は私の前に現れたの? なんで私の仮面を外したの?
転がっているなかから、薄い笑みの仮面を拾って顔につけた。
「こんなこと言われても困るよね」
だけど、仮面は簡単に顔から滑り落ちてしまう。
困らせたくない。冬吏だけは困らせたくないのに……。
壁の時計を見た冬吏が、ゆっくり立ちあがった。ふたりのもとへ戻る時間が来たのだろう。
「あきらめるのは簡単なこと。でも、あきらめてしまったらもっと苦しくなる」
「あきらめなくてもきっと苦しいよ」
「そうかもしれない。でも、同じように苦しいなら、誰かの役に立ちたいと俺は思う。雪音はどっちの苦しみを選ぶ?」
冬吏の言葉はまるで魔法だ。ありえないことも、彼が言えばできるような気がした。
「……あきらめないほう」
その瞬間、冬吏が顔をくしゃっとほころばせた。
「俺たちは、町のみんなを助けることを選ぼう。ふたりでやればきっとうまくいく」
「でも……北極に連れていかれたら?」
やさしい笑みを浮かべたまま、冬吏はうなずいた。
「そうなったとしても、必ず戻ってくる。雪音のそばにいるって約束するから」
約束、という言葉がキラキラと宝石のように輝きはじめる。
そして私は、転がる仮面たちが消えゆくのを見た。
最後に残っていたのは、冬吏に恋をしている私だった。
千秋も『ヤマカンが冴え渡った』と言ってたし、冬吏も『それなりに』と満足そうだった。
ひとり頭を抱えていたのは桜輔。ホームルームが終わるや否や、強引に冬吏を連れて図書室に向かった。どうやら明日の対策をするみたい。
椅子に座ったまま、桜輔を見送る千秋の横顔がせつない。前から同じ表情を浮かべていただろうに、私は見ているようで見ていなかった。
「千秋も行ってきなよ」
「なんでよ。あたしは別に……。ていうか、ここでその話はしないでよね」
小声で文句を言う千秋がいじらしくてかわいい。
「明日の〝歴史総合〟は、千秋がいちばん苦手な科目でしょ。冬吏の得意科目なんだから、桜輔と一緒に教えてもらったらどうかな」
意味もなく短い前髪を触りながら、千秋は体をモジモジさせる。
「まあ……そうか。勉強を教えてもらうだけだもんね」
自分に言い聞かせるように言ったあと、千秋はサッと席を立った。
「しょうがないから行ってくる」
頬が赤いのは、窓から差しこんでいる夕日のせいだけじゃない。ずっとそばにいたのに、自分の仮面をつけるのに必死でちっとも気づいてあげられなかった。
これからは違うからね。
心のなかで誓ってから、しばらくは明日のテスト勉強をした。
気づけばテキストを流し読みしながら、右手が空想のピアノを弾いていた。
最近、おばあちゃんの家に行けていない。私のスケジュールを把握しているおばあちゃんは、テスト期間はピアノを弾かせてくれない。
弾けないとなれば、余計に弾きたくなってしまう。
音楽室に寄ろうか。
テストが終わるまで音楽室を訪れる部員もいないし、少し弾くくらいなら……。
荷物をまとめて職員室に寄り、音楽室のカギを借りてきた。
当たり前だけど音楽室に部員はおらず、無音に支配されていた。はしっこにあるグランドピアノが私を呼んでいる。
椅子に腰かけ、鍵盤蓋を開く。鍵盤を覆っている赤いフェルトを外せば、照明で滑らかに光る鍵盤が姿を現した。
ピアノを弾けることを知った千秋は、卒業公演で演奏する演目にピアノパートがある曲を追加した。誰でも一度は聞いたことのある、映画に使われた曲だ。
ピアノのソロからはじまり、ひとつずつ楽器が加わっていく構成。この曲は『ラ・カンパネラ』を練習する合い間の息抜きにしていたので、楽譜がなくとも指が覚えている。
鍵盤に右手を置き、チャイムのようなメロディを弾く。続いて両手を動かせば、情緒感あふれる音が音楽室に広がっていく。
頭のなかで、各楽器のパートの音を想像しながら弾き続けていると、ふいに音楽室のドアが開いた。
ピアノが弾けることはいずれバレることなのに、とっさに鍵盤から指を離してしまった。
「やっぱり雪音だったか」
――冬吏だった。
「え、なんで?」
「そっちこそなんで? もう帰ったと思ってた」
ピアノのそばまでやってきた冬吏は手ぶらだった。私の視線に気づいたのか、冬吏が両手を開いてみせた。
「今、桜輔と千秋とテスト対策中。明日のテストに出そうなところをまとめたノートがあるから、それを暗記してもらってるところ。歴史なんて、覚えることでしか対処のしようがないし」
「あ、そうなんだ」
「ふたりが覚えてる間に練習しようと思って来てみたら、ピアノの音が聞こえたから驚いた。それ、今度の演目だろ?」
「うん」
戸棚に置いてある楽譜を取り出すと、冬吏はページを開いた。
「一年生のときに練習したけど、あのときのピアノは伴奏だけだったから、いまいちピンときていない。最初から弾いてみてよ」
「遠慮しとく」
秒を置かずに断ったのに、冬吏はなぜかうれしそうに笑った。
「最近の雪音、いいね。ちゃんと俺と話をしてくれてる。てことで、弾いて」
「だからイヤだって」
さすがに冬吏に聞かれるのは恥ずかしい。
すると冬吏は、なぜか私のそばに来て楽譜をセットし、私の左側に強引に座ってきた。
「じゃあ俺が左手をやるから、雪音は右手な」
「え、冬吏ってピアノも弾けるの?」
「みんなの前で披露するレベルじゃないから言わなかっただけ。ほら、言っちゃうとピアノ担当にされそうだし」
最初のシ・ソ・ラ・レの音を奏でた冬吏が、私を見てニッと笑った。
仕方がないフリで、右手のパートを続けた。初めての連弾のせいで、タイミングがうまくつかめないまま曲が進行していく。
残念ながら、自己評価どおり冬吏の演奏は固かった。ミスタッチが多いのもそうだけど、音の強弱やテンポがずれていて、いつの間にか追いかけっこをしているみたい。
「うわ」とか「あ」とつぶやきながら、真剣なまなざしで楽譜と鍵盤を目で追う冬吏。
私がリードする形で落ち着くころには、曲が終わりかけていた。
最後の四小節を弾き終わると、鍵盤から手を離した冬吏が悔しそうにうつむいた。
「情けない。昔はもっと弾けたのに」
「練習を続けないと難しいよね」
私の演奏もイマイチどころか、かなり悪い出来だった。
冬吏との距離が近いことを意識しすぎたのか、体も指も固くなってしまった。
「雪音のピアノって、風景を連想させるよな。すごいと思った」
冬吏が楽譜をたたみ、近くの椅子に移動した。それが少しさみしかった。
「冬吏のフルートだって、すごくいいよ。目立つとかじゃなくて、吹奏楽をリードしてるっていうか……」
最後はごにょごにょと口ごもってしまう。
しばらく続いた沈黙のあと、
「卒業公演、無事に開催できるといいな」
つぶやくように冬吏は言った。
「うん。部員がこれ以上欠けないといいね」
「それも大事だけど、まずは二十五日を乗り切らないと。いや、俺の転校をなんとかするのが先か」
困ったような表情になる冬吏に、胸がズキンと跳ねた。
「北極に行かないって言ったよね?」
「もちろん残るつもり。でも、あの人の言うことは絶対だから」
冬吏が北極へ行ってしまったら、二度と会えなくなる。想像するだけで息苦しくてたまらない。
「雪音にお願いがあるんだ。町のみんなを救ってほしい」
それは、冬吏がいなくなる可能性があるから?
「……無理だよ」
私ひとりじゃなんにもできない。
「この町は比較的安全だから大丈夫。海面の温度があがるから、なるべく高い場所にみんなを避難させてほしい」
「無理だって」
さっきまで明るかった音楽室が日に陰ったように思えた。
鍵盤を見つめながら、重い記憶が頭をもたげる。
「冬吏に言ってなかったことがあるの。私、地球がこわれる話、小学生のときから知ってた」
「……そうなんだ」
さっきより低い声に、思わず体を小さくした。
「私のお父さん、今じゃソーラーパネルの会社を経営してるけど、昔は国の高温化対策室のメンバーだったの。お父さんは、地球がこわれると信じてた。ううん、今も信じてる」
「うちの親父と一緒ってこと?」
「やっぱり、冬吏のお父さんも対策室のメンバーなんだ?」
「今もしてる。あ、でも時期が違うかもな。話してくれればよかったのに」
目を丸くする冬吏から視線を落とす。
「聞いてすぐのころは、クラスのみんなに助かってほしくて、何度も話をした。そのせいで、私に話しかける人はいなくなった。それ以来、誰にも言ってない」
理解してくれたのは樹くんだけだった。学校に行けばみんなが私の存在なんてないように扱った。物を隠されたり、揶揄する声ばかりが聞こえた。
「俺も親父のことは好きじゃないけど、その説だけは信じてる。地球がこわれるのは間違いない。雪音を信じなかった人たちだって、いずれわかってくれる」
「そんなふうに思えないよ。説明したら、前みたいに拒絶される。あんなふうに無視されるくらいなら、なにもしないほうがマシ」
ほら、本音を話せば周りを傷つけ、自分も傷つく。
なんで冬吏は私の前に現れたの? なんで私の仮面を外したの?
転がっているなかから、薄い笑みの仮面を拾って顔につけた。
「こんなこと言われても困るよね」
だけど、仮面は簡単に顔から滑り落ちてしまう。
困らせたくない。冬吏だけは困らせたくないのに……。
壁の時計を見た冬吏が、ゆっくり立ちあがった。ふたりのもとへ戻る時間が来たのだろう。
「あきらめるのは簡単なこと。でも、あきらめてしまったらもっと苦しくなる」
「あきらめなくてもきっと苦しいよ」
「そうかもしれない。でも、同じように苦しいなら、誰かの役に立ちたいと俺は思う。雪音はどっちの苦しみを選ぶ?」
冬吏の言葉はまるで魔法だ。ありえないことも、彼が言えばできるような気がした。
「……あきらめないほう」
その瞬間、冬吏が顔をくしゃっとほころばせた。
「俺たちは、町のみんなを助けることを選ぼう。ふたりでやればきっとうまくいく」
「でも……北極に連れていかれたら?」
やさしい笑みを浮かべたまま、冬吏はうなずいた。
「そうなったとしても、必ず戻ってくる。雪音のそばにいるって約束するから」
約束、という言葉がキラキラと宝石のように輝きはじめる。
そして私は、転がる仮面たちが消えゆくのを見た。
最後に残っていたのは、冬吏に恋をしている私だった。



