「ふたりだけで話がしたいんだけど」

千秋がそう言ったとき、音楽室にはまだ部員が残っていた。
 
期末テスト直前ということもあって、最後の練習日に部員が集まらず、軽い打ち合わせだけで解散になった。

「それって、正式に入部しろっていう話?」
 
掃除道具を片づけながら尋ねるが、千秋はいつもより低いテンションで首を横にふってから、居残り練習を続ける部員に目を向けた。
 
そういえば、今朝からやけに口数が少なかった。体調不良だと聞いていたけれど、ひょっとしたら私になにか言いたいことがあって、そのことで思い悩んでいたのかもしれない。

「え……ごめん」

「なんで雪音が謝るのさ。そうじゃなくって、ちょっと相談に乗ってほしいだけ。それに、入部することは決定事項だからね」
 
薄く笑う千秋にホッとする向こうで、トランペットが短いメロディを奏でた。
 
普段なら練習熱心な下級生を褒め(たた)える千秋なのに、眉をハの字に下げ、居心地が悪そうに体を揺らしている。

「じゃあ、屋上に行く?」
 
冬吏はもう帰ってしまったし、桜輔は一ノ瀬先生のところへ行っている。

「屋上? あそこは立ち入り禁止でしょ」
 
呆れ顔の千秋の手を取り音楽室を出て、前に冬吏がしたようにスペアキーを取り出し、屋上の扉を開いた。

「え……うそ。すごくキレイ……」

導かれるようにフラフラと千秋は歩き、手すりに両手を置いた。
 
夕焼けは海にかろうじてしがみついていて、真上の空には気の早い星が光っている。

「屋上に出られるなんて知らなかった」

「冬吏が教えてくれたの。で、相談したいことって――」

「あたしたちの町ってこんなに小さいんだね」
 
かぶせるように千秋は言った。

「うん」

「周りは海だし、なんでこんな場所に町を作ったんだろう」

「だね」

「海面があがったときに、みんなで海北に行けばよかったのに。君沢湖だって、そのうち海に飲みこまれそうじゃない?」
 
明らかに千秋は、肝心の話を避けている。
 
イヤな予感が生まれた。
 
ひょっとして……私がピアノを弾けることを知ったとか?
 
冬吏にバレてからも、おばあちゃんの家でピアノの練習を続けている。もちろんレースのカーテンを閉めて対策はしているけれど、千秋はあそこがおばあちゃんの家だって知っている。もしくは、見かけた誰かから聞いたのかも……。
 
ううん、それだったらまだいい。
 
十二月二十五日に地球がこわれることを知ったのだとしたら?
 
問い詰められたらごまかす自信がないし、現実主義の千秋が信じてくれる可能性は低い。千秋にだけはヘンな人だと思われたくない。
 
風を見るようにあごをあげた千秋が、「あのね」と口を開いた。

「こないだ、みんなで海北高校に行ったでしょ。その帰りの船で、桜輔と言い合いになっちゃってさ」
 
なんだ……ビックリした。
 
恐れていた話題じゃないとわかり、そっと息を吐く。

「ケンカみたいになってたよね」

「あいつといるとだいたいあんな感じ。あのときは、桜輔がオンラインで卒業公演を配信する、って言い出したの」

「……へえ」

「配信がいいとか悪いとかじゃなくて、もっと転校する部員が増えたら、公演そのものができなくなるわけ。あたしはそっちのほうを心配してるのに、桜輔って一度思いついたら譲らないんだよね」
 
ふう、とため息をついたあと、千秋は私に顔を向けた。

「困っちゃって、雪音に助けを求めようと思った。そしたら、雪音の様子がおかしかった」

「私の?」
 
人差し指を自分に向ける。うなずいた千秋から笑みは消えていた。

「そのとき、初めて本当の雪音を見た気がしたの」

「……どういうこと?」

「雪音っていつも笑ってるじゃん。でも、そのときは見たこともないくらい真剣な顔だった。眉をひそめて、冬吏と小声で話しをしてた。そのときに思ったんだよね。本当の雪音のことを、あたしは知らないのかもって」
 
言葉のひとつひとつが胸を貫く。

「私だっていつもニコニコしてるわけじゃないよ」
 
それなのに、私はまたうそをつく。

「たしかに」千秋が少しほほ笑んでくれた。

「でも、あのときの雪音はあたしの知ってる雪音じゃなかった。うまく言えないけど、〝素〟だって思った」
 
そう言うと、千秋は体の向きを変え、手すりに背中をあずけた。あの日、冬吏がそうしたように。

「あたしと雪音って小六からの仲じゃん。親友だと思ってきたけど、もっと仲良くなれると思うんだよね。今まで以上に、お互いの本音をさらけだしたいな、って」

「それが相談したいこと?」

「うん」
 
はにかむ千秋と、私の笑顔はまるで違う。どんな仮面をつけたって、本物の笑顔にはかなわない。
 
そういえば、私の笑みを見た冬吏が、不機嫌そうに顔をしかめたことがあった。
 
ああ、そっか……。冬吏も千秋も、私が本心を話していないことに気づいていたんだ……。
 
仮面を外す勇気は冬吏がくれた。千秋にも本当の私を知ってもらいたい。
 
でも、それで嫌われてしまったら?
 
足元が崩れ落ちそうな感覚に耐えながら、自分を奮い立たせるために踏ん張った。

「あのね、千秋……」

「待って」千秋が慌てて両手の胸の前でふった。

「そんな焦らなくていいから。ゆっくりお互いのことを知っていきたいって意味で言っただけ。それにさ、こういうのは言い出しっぺから口を開かないと」
 
そう言うと、千秋はなにか考えこむように空をにらんだ。
 
飛行機が一機、夜に追いつかれないように飛んでいる。
 
海北の町並みは、だんだん影絵のようなシルエットに沈みつつある。

「あたし、ずっと好きな人がいるの」
 
しばらくの沈黙のあと、口を開いた千秋の声はかすれていた。

「え……」

「物心がついたときからご近所さんで、クラスもあまり離れたことがなくて、家族みたいな感じ。あ、あたしがお姉さんのほうで向こうが弟ね」
 
それって……。思い浮かぶ顔はあるけれど、今は千秋に話してもらったほうがいいと思った。

「くだらないことで笑って、たまにケンカして、そういう日がずっと続くと思ってた。でも、あいつ中二のときに言ったの。『俺は東京の大学を受験する』って」
 
ゆっくり首を横にふる千秋。髪がさみしげにふわりと揺れた。

「そのときに気づいた。あたし、ずっと桜輔のことが好きだったんだ、って」
 
最後のほうは、聞き取れないほど弱かった。
 
自分でも気づいたのだろう、「でね」と千秋は声に力を戻す。

「それから、進学について聞けなくなった。こないだ、あいつ先生に呼び出されたじゃん。そんときに『その髪を改めないと内申点に響く』って言われたんだって。あいつ、あたしに言うんだよ。『東京じゃこんなの普通だ』って。東京の大学に行く夢は変わってなかったんだな、って……」

「千秋……」
 
千秋と桜輔は、幼なじみ。まさか桜輔に恋しているなんて、想像もしていなかった。

「内申点に響いちゃえばいい。受験に失敗しちゃえばいい。好きな人の夢なのに、そんなこと思っちゃうなんて、最低だよね」
 
花がしおれるように千秋はうつむいてしまう。夕日が終わりを告げるように、その瞳は深い色に落ちている。
 
気づけば、千秋の両手を握っていた。

「最低じゃない。千秋は最低なんかじゃない」
 
普段、本音を言葉にしてこなかったので、どう伝えればいいのかわからない。
 
どうか、この気持ちが伝わって。握る手に力をこめた。

「恋をしたら、誰だってしあわせになりたいって思うはず。悪いことを考えてしまうのは、千秋の本心じゃないよ。全部、恋のせい」

「恋のせい……。たしかにそうかも。どんどんイヤな自分になっていくもん」
 
すねたように唇をとがらせる千秋にうなずいてみせる。

「応援する。千秋の恋がうまくいくように、私にできることがあればなんでもする」

「なんでも、ってなにをするの?」
 
桜輔が東京の大学に行かないようにするには……。

「いかに東京がゴミゴミしてるか、とか、物価が高いことを伝え続ける」
 
言っておきながら、ちっとも効果的じゃないとすぐにわかった。

「違う。ほかにもっといい方法が――」

「ありがとう」
 
焦る私に千秋はそう言った。

「何年もひとりで悶々(もんもん)としてたから、雪音に知ってもらえただけでうれしい」

「あ……うん」
 
千秋が手すりに片頬をつけた。

「なんかプールのあとみたいに眠い」

「私は驚きすぎて、すっかり目が覚めちゃった」
 
穏やかな表情の千秋を見ていると、今なら仮面をつけずに、本当の気持ちを話せる気がした。

「私もね……気になる人がいるの」

「うん」

「最初は苦手だった。無口で、無愛想で、嫌われてると思ってた」
 
あのころと違い、今ではほほ笑む冬吏が頭に浮かぶ。思い出す記憶のすべてに冬吏がいて、それが心地いい。

「幼いころ、好きかなって男子はいたけど、それとは全然違う。まだ恋じゃなくて、意識しているくらいのレベルだけど」
 
名前を言ってないのに、誰のことわかっているみたいに千秋はうなずく。

「そうだろうな、って思ってた。あたしも応援してるからね」

「ありがとう」
 
夕日が消え、世界に夜が降ってきた。
 
空に向かって伸びをした千秋が、「つまりさ」と力なく笑う。

「ふたりとも片想い同士ってことだね」

「私はまだ……」

「似たようなもんでしょ」
 
締めくくるように言うと、千秋が私の腕に自分の腕を絡めた。

「少しだけ、本当の雪音が見られてよかった」

「本当の千秋を知ることができてよかった」
 
それから私たちは顔を見合わせて笑った。

「よし。帰ろう」
 
扉に向かって歩き出した千秋に、「ねえ」と声をかけた。

「もうひとつ、内緒話があるんだけど」

「なに?」
 
ふりかえる千秋に、実はピアノが弾けることを伝えた。
 
下校を知らせるチャイムよりも大きな声で、千秋は叫んだ。