海北町の港は混んでいた。
私たちの島よりも立派な港で、ここからは東京行きのフェリーも出ている。
「うちの島行きの船だけ、恥ずかしいくらい小さいな」
桜輔が船に乗りこむと、田後さんが「うるせえ」と顔をしかめた。私が越してきたときから船長を務めている田後さんは、今年七十歳になるそうだ。坊主頭に鉢巻を巻いているせいで、取るとその部分だけ真っ白だ。
「余計なこと言わないの。タコさんがいるから海北に行けるんだから」
千秋が桜輔の背中をドンと押して乗りこみ、冬吏がそれに続く。
「そのあだ名で呼ぶなら乗せねえぞ」
田後さんが千秋をにらみながら、港につないでいたロープをほどいた。
渡し舟に屋根とエンジンをつけたような簡素な作りだけど、満員になることは稀で、今も受診帰りと思われる高齢者がひとり乗っているだけ。
爆音を響かせ、島を目指し船が走り出した。
「あーあ、結局無駄足だったか」
シートに座る千秋の髪が、おもしろいくらい風にあおられている。
土曜日の今日、千秋たちは来年夏におこなわれる市の吹奏楽発表会の打ち合わせのため海北高校に出向いた。私は仮入部の身なのに強制的につき合わされた。
卒業公演の日程が違うので、招待状を持って出かけたものの、海北高校からの返事はNO。練習で忙しいことと、地震が続いていることのふたつを理由に断られてしまった。ほかの高校も同じ理由で断られてしまった。
「ま、しょうがねえべ。あいつらよりすげえ演奏やって、SNSにアップしてやろうぜ」
はなからあきらめていたのだろう、隣に座った桜輔が慰めるように言った。
「OBに頼ってることがバレたら恥ずかしいし」
「なに言ってんだよ。使えるものはOBでも使え、って言うだろ」
「それを言うなら、使えるものは親でも使え、でしょ」
「親なんかに頼めるかよ。そもそも、楽器弾けないだろ」
ふたりの言い合いに我関せずの冬吏は、船尾の手すりにもたれて空を見あげている。近づく私に気づくと、冬吏はいつものように首をかしげた。
「ピアノの練習はしてる?」
「ピアノ? 私、ピアノなんて一度も弾いたことないよ」
ニッコリ笑う私に、冬吏は目じりに下げた。
「ここでは仮面をつけてる、ってことか」
「そういうこと」
水しぶきの向こうに見える海北町の町並みがどんどん遠ざかっていく。
「まだ本当の自分を見せられそうもない?」
千秋たちのほうへ体を向けたまま、冬吏が尋ねた。
「冬吏だって見せてないんでしょ。本当の冬吏ってどういう感じなの? 今よりさらに愛想が悪いとか?」
「どうだろう。実はあんまり変わらないのかもな。本当の自分がどんなだったかも忘れた」
その気持ちはわかる。アニメのキャラクターみたいに一貫性がある人なんて稀で、ほとんどの人がその場に合わせて仮面をつけ替えるものだと思うから。
いつもよりボタンをひとつ多く外した冬吏のシャツがふくらんでいる。風の形を教えるように、髪がうしろに流れている。
もうすぐ十二月というのに、あいかわらず気温が高い。今も、海北の東側に連なる山に、二台のヘリコプターが虫を駆除するための薬が散布されている。
山の木々の葉は、ところどころ茶色く変色している。
なのに、ネットに載るニュースは他人ごとのようにさらりと通り過ぎていく。
――多数の市町村で、最高気温四十七度を記録。
――ドーム型田園で作物の大規模盗難
――年末にかけて水不足の懸念
教室のなかでは、ニュースについて話す人なんて誰もいない。
むしろ、そういう話題を出すと空気が止まる。白ける。うっとおしいと思われてしまう。
みんな見ないフリをしている。暑いことは、挨拶代わりの言葉でしかなく、話題になるのはアイスの新作か、冷房の設定温度に対する文句くらいで。
「雪ってあんな感じなのかな」
冬吏が私の視線の先に顔を向け、「まさか」と笑った。
「あれは霧に近い。動画で見た感じだと、もっと固形っぽかった。手のひらにのせたら、ほんとに音がするのかも」
「こないだ名前の由来を聞いてみたよ。雪ってやっぱり降るときに音はしないんだって。私の名前は、冬の静けさと美しさをイメージしてつけたって聞いたよ」
「いい由来だな」
「うん」
なんでこんな話してるんだろう。
我に返り、手すりに顔を押しつけてごまかした。『地球がこわれる』というみんなには言えない秘密が、私たちの距離を近づけている。
「あそこの山が怪しいんだよな」
ヘリコプターが飛んでいる山より、さらに左側を冬吏は指さした。連なる山の最西部に、背の高い南山がある。周りの山が緑をまとうのに対し、南山には草木がほとんど生えていない。
「おやじが言ってたんだけど、南山は今度の爆発で噴火する可能性が高いって」
「……え?」
想像もしていなかった内容に、思わず山のほうへ体を向けた。
「大丈夫。噴火が起きても、うちの町や海北町まで溶岩とか噴石は届かない」
私の不安を取り除いてくれたあと、冬吏は「でも」と続けた。
「そのことが判明したせいで、北極へ引っ越す案が具体的に動き出してる。あの山さえ大人しくしてくれてればよかったのに」
「冬吏は行かないんだよね?」
「親父は『無理やりでも連れていくからな』って。まあ、今は東京にいるからいいけど、戻ってきて俺が行かないことを知ったらケンカになるだろうな」
どう反応していいのかわからず、シートへ視線を逃がした。
千秋は桜輔となにか言い合っているらしく、顔を真っ赤にしている。桜輔がタジタジなのはいつものこと。
「町の人を助ける、って言ってたよね? どうやって助けるつもり?」
「ひとりひとりに話して、信じてもらうしかない」
「そんなの――」
言いかけた言葉を、エンジン音がさらった。
そんなの信じてもらえるわけがない。あのころだって必死で説明したのに、信じてくれるどころか、みんな私から離れていった。
ううん、違う。樹くんだけは真剣に話を聞いてくれた。私がピアノを弾いている間、樹くんは脱出計画を練ってくれていた。
「私は……協力できないかも」
「大丈夫。俺ひとりでやるつもりだったから。雪音のことも必ず助けるよ」
「あ……うん」
なにもできない罪悪感と一緒に、別の感情が生まれるのを感じた。
太陽のまぶしさを避けるフリをして、屋根のあるシートへと逃げた。
言い合いを続けている千秋と桜輔の向かい側に座っても、まだ胸の鼓動がさわがしい。
冬吏は穏やかな表情で太陽に顔を向けている。やわらかい髪がダンスしている。
どうして、他人のためにそこまでがんばれるの?
どうして、私のことを助けてくれるの?
胸が、痛い。息が、苦しい。
これまで樹くん以外の男子とは距離を取って生きてきた。関われば、またイヤな思いをするだけ。
男子だけじゃない。仲がいい千秋にも本当の自分を出せずにいる。
それなのに、私は気づいてしまった。
私は……冬吏のことを意識しているんだ。
私たちの島よりも立派な港で、ここからは東京行きのフェリーも出ている。
「うちの島行きの船だけ、恥ずかしいくらい小さいな」
桜輔が船に乗りこむと、田後さんが「うるせえ」と顔をしかめた。私が越してきたときから船長を務めている田後さんは、今年七十歳になるそうだ。坊主頭に鉢巻を巻いているせいで、取るとその部分だけ真っ白だ。
「余計なこと言わないの。タコさんがいるから海北に行けるんだから」
千秋が桜輔の背中をドンと押して乗りこみ、冬吏がそれに続く。
「そのあだ名で呼ぶなら乗せねえぞ」
田後さんが千秋をにらみながら、港につないでいたロープをほどいた。
渡し舟に屋根とエンジンをつけたような簡素な作りだけど、満員になることは稀で、今も受診帰りと思われる高齢者がひとり乗っているだけ。
爆音を響かせ、島を目指し船が走り出した。
「あーあ、結局無駄足だったか」
シートに座る千秋の髪が、おもしろいくらい風にあおられている。
土曜日の今日、千秋たちは来年夏におこなわれる市の吹奏楽発表会の打ち合わせのため海北高校に出向いた。私は仮入部の身なのに強制的につき合わされた。
卒業公演の日程が違うので、招待状を持って出かけたものの、海北高校からの返事はNO。練習で忙しいことと、地震が続いていることのふたつを理由に断られてしまった。ほかの高校も同じ理由で断られてしまった。
「ま、しょうがねえべ。あいつらよりすげえ演奏やって、SNSにアップしてやろうぜ」
はなからあきらめていたのだろう、隣に座った桜輔が慰めるように言った。
「OBに頼ってることがバレたら恥ずかしいし」
「なに言ってんだよ。使えるものはOBでも使え、って言うだろ」
「それを言うなら、使えるものは親でも使え、でしょ」
「親なんかに頼めるかよ。そもそも、楽器弾けないだろ」
ふたりの言い合いに我関せずの冬吏は、船尾の手すりにもたれて空を見あげている。近づく私に気づくと、冬吏はいつものように首をかしげた。
「ピアノの練習はしてる?」
「ピアノ? 私、ピアノなんて一度も弾いたことないよ」
ニッコリ笑う私に、冬吏は目じりに下げた。
「ここでは仮面をつけてる、ってことか」
「そういうこと」
水しぶきの向こうに見える海北町の町並みがどんどん遠ざかっていく。
「まだ本当の自分を見せられそうもない?」
千秋たちのほうへ体を向けたまま、冬吏が尋ねた。
「冬吏だって見せてないんでしょ。本当の冬吏ってどういう感じなの? 今よりさらに愛想が悪いとか?」
「どうだろう。実はあんまり変わらないのかもな。本当の自分がどんなだったかも忘れた」
その気持ちはわかる。アニメのキャラクターみたいに一貫性がある人なんて稀で、ほとんどの人がその場に合わせて仮面をつけ替えるものだと思うから。
いつもよりボタンをひとつ多く外した冬吏のシャツがふくらんでいる。風の形を教えるように、髪がうしろに流れている。
もうすぐ十二月というのに、あいかわらず気温が高い。今も、海北の東側に連なる山に、二台のヘリコプターが虫を駆除するための薬が散布されている。
山の木々の葉は、ところどころ茶色く変色している。
なのに、ネットに載るニュースは他人ごとのようにさらりと通り過ぎていく。
――多数の市町村で、最高気温四十七度を記録。
――ドーム型田園で作物の大規模盗難
――年末にかけて水不足の懸念
教室のなかでは、ニュースについて話す人なんて誰もいない。
むしろ、そういう話題を出すと空気が止まる。白ける。うっとおしいと思われてしまう。
みんな見ないフリをしている。暑いことは、挨拶代わりの言葉でしかなく、話題になるのはアイスの新作か、冷房の設定温度に対する文句くらいで。
「雪ってあんな感じなのかな」
冬吏が私の視線の先に顔を向け、「まさか」と笑った。
「あれは霧に近い。動画で見た感じだと、もっと固形っぽかった。手のひらにのせたら、ほんとに音がするのかも」
「こないだ名前の由来を聞いてみたよ。雪ってやっぱり降るときに音はしないんだって。私の名前は、冬の静けさと美しさをイメージしてつけたって聞いたよ」
「いい由来だな」
「うん」
なんでこんな話してるんだろう。
我に返り、手すりに顔を押しつけてごまかした。『地球がこわれる』というみんなには言えない秘密が、私たちの距離を近づけている。
「あそこの山が怪しいんだよな」
ヘリコプターが飛んでいる山より、さらに左側を冬吏は指さした。連なる山の最西部に、背の高い南山がある。周りの山が緑をまとうのに対し、南山には草木がほとんど生えていない。
「おやじが言ってたんだけど、南山は今度の爆発で噴火する可能性が高いって」
「……え?」
想像もしていなかった内容に、思わず山のほうへ体を向けた。
「大丈夫。噴火が起きても、うちの町や海北町まで溶岩とか噴石は届かない」
私の不安を取り除いてくれたあと、冬吏は「でも」と続けた。
「そのことが判明したせいで、北極へ引っ越す案が具体的に動き出してる。あの山さえ大人しくしてくれてればよかったのに」
「冬吏は行かないんだよね?」
「親父は『無理やりでも連れていくからな』って。まあ、今は東京にいるからいいけど、戻ってきて俺が行かないことを知ったらケンカになるだろうな」
どう反応していいのかわからず、シートへ視線を逃がした。
千秋は桜輔となにか言い合っているらしく、顔を真っ赤にしている。桜輔がタジタジなのはいつものこと。
「町の人を助ける、って言ってたよね? どうやって助けるつもり?」
「ひとりひとりに話して、信じてもらうしかない」
「そんなの――」
言いかけた言葉を、エンジン音がさらった。
そんなの信じてもらえるわけがない。あのころだって必死で説明したのに、信じてくれるどころか、みんな私から離れていった。
ううん、違う。樹くんだけは真剣に話を聞いてくれた。私がピアノを弾いている間、樹くんは脱出計画を練ってくれていた。
「私は……協力できないかも」
「大丈夫。俺ひとりでやるつもりだったから。雪音のことも必ず助けるよ」
「あ……うん」
なにもできない罪悪感と一緒に、別の感情が生まれるのを感じた。
太陽のまぶしさを避けるフリをして、屋根のあるシートへと逃げた。
言い合いを続けている千秋と桜輔の向かい側に座っても、まだ胸の鼓動がさわがしい。
冬吏は穏やかな表情で太陽に顔を向けている。やわらかい髪がダンスしている。
どうして、他人のためにそこまでがんばれるの?
どうして、私のことを助けてくれるの?
胸が、痛い。息が、苦しい。
これまで樹くん以外の男子とは距離を取って生きてきた。関われば、またイヤな思いをするだけ。
男子だけじゃない。仲がいい千秋にも本当の自分を出せずにいる。
それなのに、私は気づいてしまった。
私は……冬吏のことを意識しているんだ。



