チャイムの音が、一瞬で現実世界へ引き戻した。
椅子を引く音とクラスメイトの声が混ざり合うなか、樹くんの残像を探しても見つからない。
千秋が体ごとふり向いたので、口もとに笑みを浮かべた。
「昼休みに打ち合わせなんてありえる? 莉子ちゃんのことは好きだけど、顧問なら部活んときにやればいいのに、今日は用事があるんだってさ」
「そういえば一ノ瀬先生って、あんまり部活に顔を出さないよね」
「自由にやらせてもらえるのはいいけど、ここだけの話――」
千秋が顔を寄せてきたので思わずのけぞってしまった。
「なによ。キスでもされると思った?」
「違う。ビックリしただけ」
あの日、冬吏もこんなふうに顔を近づけてきた。思い出せば、胸の鼓動が勝手に速くなる。
別に好きとかそういうのじゃない。あんなことをされたから驚いているだけ。
だいたい、私を嫌っている人を好きになるなんてありえない。
チラッと隣を見ると、冬吏は意味ありげに片方の眉をあげている。
ムカつく……。
「で、ここだけの話って?」
気にしてないことを主張するために、今度は自分から顔を近づけた。
「莉子ちゃん、明日は有休を取るんだって。ウワサでは転職活動してるんじゃないかって」
「転職?」
「声がでかい。あくまでウワサだけど、卒業公演までいてくれないと困るんだよね」
ブツブツ文句を言いながら、千秋は桜輔と一緒に教室を出ていってしまった。
お弁当はいつも四人で食べている。つまり、今日は冬吏とふたりということになるわけで……。
冬吏は涼しい顔で、通学バッグからなにか取り出した。あの空色のノートだ。
あれ以来、冬吏が書いた言葉が頭から離れない。なぜ冬吏は、地球がこわれることを知っているのだろう。
お父さんがひとりで主張していたことなのに、なぜ? それに、日付についてはこれまで聞かされたことはなかった。
何度か尋ねてみようとしたけれど、千秋と桜輔の手前、切り出せずにいた。
「雪音」
ふいに名前を呼ばれ、無意識にガタンと椅子を引いていた。
「あ、うん」
「悪いけどちょっとつき合ってくれる?」
一方的にそう言うと、冬吏は立ちあがった。彼の手にはコンビニのパンと、例のウォーターボトルが握られている。
ここで反論したら目立ってしまうだろう。せめてものため息をつき、お弁当を手に冬吏のあとを追った。
「待ってよ。これって、例の脅し?」
「好きに取ればいい」
階段のところまで来ると、冬吏はなぜか上の階へあがっていく。てっきり校庭に出るのかと思っていたから予想外だ。
三階の踊り場に来ると、冬吏はあたりに人がいないのを確認してからさらに上へとあがっていく。
「え、屋上に行くの?」
ふり向いた冬吏が、階段のせいでいつもより背が高く見える。
「見つからないうちに早く」
いたずらっぽく笑う冬吏が、樹くんの笑顔に重なった。
全然似てないし、名前も違うし、年も違う。言い聞かせているうちに、冬吏の姿が見えなくなった。
急いで追いつくと、屋上に続く鉄製の扉の前に冬吏は立っていた。光が届きにくいので、冬吏の姿が影みたいに暗い。
「屋上は立ち入り禁止だし、そもそも開いてないでしょ」
「そう思うだろ?」
脇に設置されている消火器の裏に手を入れる冬吏。姿勢を戻した彼の右手には、金属製のカギがあった。
「一部の人に、代々受け継がれているスペアキー」
ガチャンと闇を切り裂くような音がしたあと、冬吏がノブを回した。一気にまぶしい光が差しこんでくる。
「ほら、おいで」
言われるがまま足を踏み出せば、大きすぎる青空が広がっていた。
「まぶしい」
「すぐに慣れるよ」
ドアをそっと閉め、冬吏は手すりのあるほうへ歩き出した。
「カギ、開けっぱなしで大丈夫なの?」
「ほかにもここを秘密基地にしてる人がいるから。ウワサでは、さらなるスペアキーを持っている生徒もいるらしい」
手すりに両腕を置いた冬吏は、まるで青空を背負っているみたい。真似して並べば、眼下にまばらな町並みが見えた。君沢湖もあんなに小さくて、けれど島を抱く海はあまりにも大きくて。
「すごい景色。青色だらけだね」
「雨の日の、灰色にくすんだ景色もいいものだよ」
君沢湖で私が言ったのと似たセリフを、冬吏は口にした。
「よくここに来るの?」
「さすがにバレたら大変なことになるだろうから滅多に来ない」
冬吏が顔だけを私に向けた。
暑い風が冬吏の前髪を躍らせる。まるで絵画のように美しい光景だと思うのと同時に、意識して視線を海へと逃がした。
「俺のことが苦手?」
視界のはしで、口元に笑みを浮かべる冬吏が映っている。
「冬吏が先に苦手だって言ったんでしょ。私だって……苦手。それに、あんなふうに脅してくるなんて信じられない。私、もう冬吏の命令には従わないから」
無意識に握りしめた手すりが驚くほど熱くて、パッと手を離す。
「こないだはごめん。もう脅したりしないよ」
「……それならいいけど」
冬吏が手すりに背中を預け、空を仰ぐように顔をあげた。
「苦手って言ったのは、雪音がいつも演じてるから」
「え?」
「笑いたくないのに笑ってる。怒りたいのに笑ってる。どんなときも同じように笑ってて、自分に正直じゃないと思った」
――痛い。
胸の奥深くに生まれた痛みに気づいてしまったら、ずっと引きずることになる。悪意のある言葉だけじゃなく、なにげない言葉のほうが傷は深くなる。
時間とともに解決するなんてうそだ。言ったほうは忘れても、言われたほうはずっと忘れない。
いつもなら心にフタをして防御するのに、なぜか痛みと同時に怒りの感情が生まれていた。一気に成長した怒りが、私の口を開かせる。
「笑いたくて笑ってるんじゃない」
「うん」
当たり前のようにうなずく冬吏に、これ以上余計なことを言いたくなくて唇をかみしめた。
なにも知らないくせに。私のことなんて理解してないくせに。
悔しくて涙がこみあげてきたけれど、冬吏の前では絶対に泣かない。
泣いてしまったら、これまでのことを話すことになる。そしたら、またうしろ指をさされて、この島にいられなくなる。
「ちゃんと言葉にしてみたら?」
見透かしたように冬吏が言った。
「……もういいから」
「気持ちを言葉にしないで笑っていれば、人との関係はうまくいく。でも、本質的にわかり合えることはない」
ここにこれ以上いたらダメ。
立ち去ろうとする私の手を、冬吏がつかんできた。
「放して!」
手をふり払うと、冬吏は傷ついたように眉を下げた。
「俺ならどんな雪音だって受け入れられる。千秋や桜輔だって同じだと思う」
なにを……言ってるの?
唖然としたまま自分の右手を眺めると、涙でぼやけてしまっている。
「本当の気持ちなんて言えるわけないじゃん。だって……本当はこんな島に来たくなかった。だけど、戻る場所なんてない。笑顔の仮面をつけないと、また嫌われてしまう。笑っていないと、この場所でさえ生きていけなくなる。なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!」
みじめな気分のまま、その場にうずくまる。
最悪だ。うまくごまかせばいいのに、心に隠した闇をぶちまけてしまった。
歯を食いしばり涙を止めていると、冬吏の靴先が目に入った。
「俺も同じだから」
「……え?」
顔をあげると、真上にある太陽が冬吏の姿を黒いシルエットに変えていた。
「俺だってこんな島に来たくなかった。大人になるまでやり過ごそうと決めて、感情を出さないようにしてきた」
今、どんな表情をしているのかはわからないけれど、声のトーンで本音を語っていることだけは伝わる。
「でもさ、この町の人はいい人ばかりだから、最近じゃ演じることが難しい」
「……それ、わかる」
差し出された右手をつかむと、冬吏が軽々と私を起こしてくれた。
やっと見られた表情には、さみしげな笑みが浮かんでいた。
「前に言ったろ? 『学校での俺たちはうそつきだから』って。同じように感情を隠していることがわかるから、なんとかしたいって思った。きっと、雪音のためだけじゃなく、俺自身を修正したかったんだ」
最後のほうは、風に消されそうなほど小さくてかすれた声だった。
動じない人だと思っていたけれど、彼もまた傷を抱えて生きてきたんだ……。
「冬吏も、なにかあったの?」
「俺たちがもっと仲良くなったら、お互いの傷を披露するのはどう? 理解者が増えたほうが、きっと生きやすくなる」
「生きやすく……。そうだね。だから、それまではピアノのこと、内緒にしてほしい」
「雪音が言いたければ言えばいいし、イヤなら秘密のままでもいい」
「それ、脅した人が言うセリフ?」
不思議と自然に笑えていた。冬吏は困ったように肩をすくめてから、「ごめん」と軽く頭を下げた。
さっきまでの重い気持ちがうそみたいに消えている。
そこで、あのノートのことをやっと思い出した。
「聞きたいことがあるの。こないだウォーターボトルを取りに行ったときにね、ノート……見ちゃったの」
「たぶんそうだと思った。ノート開きっぱなしにしてたもんな」
やっぱり気づいてたんだ、と少しホッとする。
「ノートに書いてあったこと……。あれって、どういう意味?」
「そのままの意味。十二月二十五日に、地球がこわれてしまうんだ」
まっすぐな瞳に、冬吏が本気で言っていることがわかる。
「えっと……」
「信じられないかもしれないけど、俺たちが生まれる前に、地球の内部に異変が起きたんだ。そのせいで温暖化が加速し、夏だけの国になった。そして、もうすぐ地球の内部が爆発を起こし、こわれてしまう」
「バラバラになるってこと?」
「いや。爆発が地震や火山の噴火を引き起こすとともに、さらに海面が上昇する」
迷いのない瞳に、「待ってよ」と止める声が上ずってしまう。
「なんでそんなことがわかるの?」
「うちの親父、地震について研究してるんだ。親父が信じてる学者がいて、その人の説を支持しながら研究を進めた結果、地球が十二月二十五日にこわれることがわかったんだ」
冬吏は、高一のときに東京から転校してきた。
ひょっとしたら、冬吏のお父さんは、うちのお父さんが抜けたあとの対策室を引っ張ってきた人なのかもしれない。いや、ネットニュースやSNSを見て妄信している可能性もある。
どちらにしても、お父さんと私が親子だと気づく可能性がないとは言い切れない。
言葉に窮しているうちに、視線が落ちてしまっていた。
「大丈夫だよ」
やわらかい声に顔をあげると、冬吏は穏やかにほほ笑んでいた。
「この島は標高が高い場所にあるから、海面が上昇しても、ある程度の水位までは持ちこたえられる」
「だから、この町に来たの?」
うちと同じだ。でも、それを伝えてしまったら、なにもかもバレてしまう。
「母親とふたりで強制的に引っ越しさせられた。最初は反抗してたけど、今ではもうあきらめてる」
「そうだったんだ……」
冬吏はきっと東京から離れたくなかった。いじめから逃げた私とは正反対だ。
「でもさ」と、冬吏が肩をすくめた。
「親父が調べたところ、ここよりも安全な場所がわかったらしい。その場所ってのが、なんと北極なんだって」
「北極? え……冗談だよね?」
「俺も冗談だと思ってたけど、親父は本気みたい」
「でも北極って、氷に覆われてるんだよね?」
氷の国だという認識だったから驚いてしまう
「それは昔の話。温暖化の影響で氷が溶けて、人が住めるように開発が進んでいる。国のお偉いさんの家族は、内密に引っ越しをはじめているみたいで、うちも来月には引っ越すってさ」
あっさりと言う冬吏に、無意識に息を止めていた。
話の展開が急すぎて、思考がまったくついていかない。
ジリジリと太陽が私たちを攻撃している。ふたつの影さえコンクリートに焼きつくほどの熱い光。
「冬吏は、地球がこわれるって信じてるの?」
「過去の調査や、親父が作った資料を何度も見た上で、俺なりに判断した。間違いなく、もうすぐ地球はこわれてしまう」
「じゃあ……北極に行くんだ?」
やっと少しわかり合えた気がしたのに、もうすぐお別れなんだ……。
「行かないよ」
「え?」
顔をあげると、冬吏は白い歯を見せ破顔した。
「俺、子どものころからヒーローになりたかったんだ」
「ヒーロー?」
「ここにいても生き残れる可能性が高い。だったら俺は、町の人を助けて最後まで生き抜いてやる」
太陽に負けないほどのまぶしい笑顔。
水面に小石を投げ入れたときのように、閉ざしてきた心に丸い波紋が幾重にも広がっていく。
けれど、太陽は影も作る。もしそんなことが起きたら、私なら真っ先にあきらめてしまいそう。たとえ助かる状況だったとしても、自分のことで精いっぱいで、ほかの人を助ける勇気なんてきっとない。
そのときだった。
突然、冬吏が右腕を伸ばしたかと思うと、私の肩を抱き寄せた。あまりに近い距離に、体が硬直してしまう。
「え、ちょっと……!」
「地震」
言われて気づいた。足元から突きあげるような揺れを感じる。遅れて地震を告げるサイレンがスピーカーから鳴り響いた。
「大丈夫。これならすぐに収まる」
耳元で聞く冬吏の声は、これまででいちばんやさしく聞こえた。冬吏の胸の鼓動が聞こえるくらいそばにある。
冬吏の言ったとおり、すぐに揺れは収まった。警告音が残響を残し、風に消えていく。
「びっくりした……」
「地震が増えてるのも、地球がこわれる予兆だと思う」
私から離れた冬吏が、まっすぐに私を見たまま続ける。
「十二月二十五日まではあと一ヶ月しかない。信じなくてもいいけど、雪音も万が一に備えておいて」
うなずきながら、失った体温を少しだけさみしく感じた。
椅子を引く音とクラスメイトの声が混ざり合うなか、樹くんの残像を探しても見つからない。
千秋が体ごとふり向いたので、口もとに笑みを浮かべた。
「昼休みに打ち合わせなんてありえる? 莉子ちゃんのことは好きだけど、顧問なら部活んときにやればいいのに、今日は用事があるんだってさ」
「そういえば一ノ瀬先生って、あんまり部活に顔を出さないよね」
「自由にやらせてもらえるのはいいけど、ここだけの話――」
千秋が顔を寄せてきたので思わずのけぞってしまった。
「なによ。キスでもされると思った?」
「違う。ビックリしただけ」
あの日、冬吏もこんなふうに顔を近づけてきた。思い出せば、胸の鼓動が勝手に速くなる。
別に好きとかそういうのじゃない。あんなことをされたから驚いているだけ。
だいたい、私を嫌っている人を好きになるなんてありえない。
チラッと隣を見ると、冬吏は意味ありげに片方の眉をあげている。
ムカつく……。
「で、ここだけの話って?」
気にしてないことを主張するために、今度は自分から顔を近づけた。
「莉子ちゃん、明日は有休を取るんだって。ウワサでは転職活動してるんじゃないかって」
「転職?」
「声がでかい。あくまでウワサだけど、卒業公演までいてくれないと困るんだよね」
ブツブツ文句を言いながら、千秋は桜輔と一緒に教室を出ていってしまった。
お弁当はいつも四人で食べている。つまり、今日は冬吏とふたりということになるわけで……。
冬吏は涼しい顔で、通学バッグからなにか取り出した。あの空色のノートだ。
あれ以来、冬吏が書いた言葉が頭から離れない。なぜ冬吏は、地球がこわれることを知っているのだろう。
お父さんがひとりで主張していたことなのに、なぜ? それに、日付についてはこれまで聞かされたことはなかった。
何度か尋ねてみようとしたけれど、千秋と桜輔の手前、切り出せずにいた。
「雪音」
ふいに名前を呼ばれ、無意識にガタンと椅子を引いていた。
「あ、うん」
「悪いけどちょっとつき合ってくれる?」
一方的にそう言うと、冬吏は立ちあがった。彼の手にはコンビニのパンと、例のウォーターボトルが握られている。
ここで反論したら目立ってしまうだろう。せめてものため息をつき、お弁当を手に冬吏のあとを追った。
「待ってよ。これって、例の脅し?」
「好きに取ればいい」
階段のところまで来ると、冬吏はなぜか上の階へあがっていく。てっきり校庭に出るのかと思っていたから予想外だ。
三階の踊り場に来ると、冬吏はあたりに人がいないのを確認してからさらに上へとあがっていく。
「え、屋上に行くの?」
ふり向いた冬吏が、階段のせいでいつもより背が高く見える。
「見つからないうちに早く」
いたずらっぽく笑う冬吏が、樹くんの笑顔に重なった。
全然似てないし、名前も違うし、年も違う。言い聞かせているうちに、冬吏の姿が見えなくなった。
急いで追いつくと、屋上に続く鉄製の扉の前に冬吏は立っていた。光が届きにくいので、冬吏の姿が影みたいに暗い。
「屋上は立ち入り禁止だし、そもそも開いてないでしょ」
「そう思うだろ?」
脇に設置されている消火器の裏に手を入れる冬吏。姿勢を戻した彼の右手には、金属製のカギがあった。
「一部の人に、代々受け継がれているスペアキー」
ガチャンと闇を切り裂くような音がしたあと、冬吏がノブを回した。一気にまぶしい光が差しこんでくる。
「ほら、おいで」
言われるがまま足を踏み出せば、大きすぎる青空が広がっていた。
「まぶしい」
「すぐに慣れるよ」
ドアをそっと閉め、冬吏は手すりのあるほうへ歩き出した。
「カギ、開けっぱなしで大丈夫なの?」
「ほかにもここを秘密基地にしてる人がいるから。ウワサでは、さらなるスペアキーを持っている生徒もいるらしい」
手すりに両腕を置いた冬吏は、まるで青空を背負っているみたい。真似して並べば、眼下にまばらな町並みが見えた。君沢湖もあんなに小さくて、けれど島を抱く海はあまりにも大きくて。
「すごい景色。青色だらけだね」
「雨の日の、灰色にくすんだ景色もいいものだよ」
君沢湖で私が言ったのと似たセリフを、冬吏は口にした。
「よくここに来るの?」
「さすがにバレたら大変なことになるだろうから滅多に来ない」
冬吏が顔だけを私に向けた。
暑い風が冬吏の前髪を躍らせる。まるで絵画のように美しい光景だと思うのと同時に、意識して視線を海へと逃がした。
「俺のことが苦手?」
視界のはしで、口元に笑みを浮かべる冬吏が映っている。
「冬吏が先に苦手だって言ったんでしょ。私だって……苦手。それに、あんなふうに脅してくるなんて信じられない。私、もう冬吏の命令には従わないから」
無意識に握りしめた手すりが驚くほど熱くて、パッと手を離す。
「こないだはごめん。もう脅したりしないよ」
「……それならいいけど」
冬吏が手すりに背中を預け、空を仰ぐように顔をあげた。
「苦手って言ったのは、雪音がいつも演じてるから」
「え?」
「笑いたくないのに笑ってる。怒りたいのに笑ってる。どんなときも同じように笑ってて、自分に正直じゃないと思った」
――痛い。
胸の奥深くに生まれた痛みに気づいてしまったら、ずっと引きずることになる。悪意のある言葉だけじゃなく、なにげない言葉のほうが傷は深くなる。
時間とともに解決するなんてうそだ。言ったほうは忘れても、言われたほうはずっと忘れない。
いつもなら心にフタをして防御するのに、なぜか痛みと同時に怒りの感情が生まれていた。一気に成長した怒りが、私の口を開かせる。
「笑いたくて笑ってるんじゃない」
「うん」
当たり前のようにうなずく冬吏に、これ以上余計なことを言いたくなくて唇をかみしめた。
なにも知らないくせに。私のことなんて理解してないくせに。
悔しくて涙がこみあげてきたけれど、冬吏の前では絶対に泣かない。
泣いてしまったら、これまでのことを話すことになる。そしたら、またうしろ指をさされて、この島にいられなくなる。
「ちゃんと言葉にしてみたら?」
見透かしたように冬吏が言った。
「……もういいから」
「気持ちを言葉にしないで笑っていれば、人との関係はうまくいく。でも、本質的にわかり合えることはない」
ここにこれ以上いたらダメ。
立ち去ろうとする私の手を、冬吏がつかんできた。
「放して!」
手をふり払うと、冬吏は傷ついたように眉を下げた。
「俺ならどんな雪音だって受け入れられる。千秋や桜輔だって同じだと思う」
なにを……言ってるの?
唖然としたまま自分の右手を眺めると、涙でぼやけてしまっている。
「本当の気持ちなんて言えるわけないじゃん。だって……本当はこんな島に来たくなかった。だけど、戻る場所なんてない。笑顔の仮面をつけないと、また嫌われてしまう。笑っていないと、この場所でさえ生きていけなくなる。なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!」
みじめな気分のまま、その場にうずくまる。
最悪だ。うまくごまかせばいいのに、心に隠した闇をぶちまけてしまった。
歯を食いしばり涙を止めていると、冬吏の靴先が目に入った。
「俺も同じだから」
「……え?」
顔をあげると、真上にある太陽が冬吏の姿を黒いシルエットに変えていた。
「俺だってこんな島に来たくなかった。大人になるまでやり過ごそうと決めて、感情を出さないようにしてきた」
今、どんな表情をしているのかはわからないけれど、声のトーンで本音を語っていることだけは伝わる。
「でもさ、この町の人はいい人ばかりだから、最近じゃ演じることが難しい」
「……それ、わかる」
差し出された右手をつかむと、冬吏が軽々と私を起こしてくれた。
やっと見られた表情には、さみしげな笑みが浮かんでいた。
「前に言ったろ? 『学校での俺たちはうそつきだから』って。同じように感情を隠していることがわかるから、なんとかしたいって思った。きっと、雪音のためだけじゃなく、俺自身を修正したかったんだ」
最後のほうは、風に消されそうなほど小さくてかすれた声だった。
動じない人だと思っていたけれど、彼もまた傷を抱えて生きてきたんだ……。
「冬吏も、なにかあったの?」
「俺たちがもっと仲良くなったら、お互いの傷を披露するのはどう? 理解者が増えたほうが、きっと生きやすくなる」
「生きやすく……。そうだね。だから、それまではピアノのこと、内緒にしてほしい」
「雪音が言いたければ言えばいいし、イヤなら秘密のままでもいい」
「それ、脅した人が言うセリフ?」
不思議と自然に笑えていた。冬吏は困ったように肩をすくめてから、「ごめん」と軽く頭を下げた。
さっきまでの重い気持ちがうそみたいに消えている。
そこで、あのノートのことをやっと思い出した。
「聞きたいことがあるの。こないだウォーターボトルを取りに行ったときにね、ノート……見ちゃったの」
「たぶんそうだと思った。ノート開きっぱなしにしてたもんな」
やっぱり気づいてたんだ、と少しホッとする。
「ノートに書いてあったこと……。あれって、どういう意味?」
「そのままの意味。十二月二十五日に、地球がこわれてしまうんだ」
まっすぐな瞳に、冬吏が本気で言っていることがわかる。
「えっと……」
「信じられないかもしれないけど、俺たちが生まれる前に、地球の内部に異変が起きたんだ。そのせいで温暖化が加速し、夏だけの国になった。そして、もうすぐ地球の内部が爆発を起こし、こわれてしまう」
「バラバラになるってこと?」
「いや。爆発が地震や火山の噴火を引き起こすとともに、さらに海面が上昇する」
迷いのない瞳に、「待ってよ」と止める声が上ずってしまう。
「なんでそんなことがわかるの?」
「うちの親父、地震について研究してるんだ。親父が信じてる学者がいて、その人の説を支持しながら研究を進めた結果、地球が十二月二十五日にこわれることがわかったんだ」
冬吏は、高一のときに東京から転校してきた。
ひょっとしたら、冬吏のお父さんは、うちのお父さんが抜けたあとの対策室を引っ張ってきた人なのかもしれない。いや、ネットニュースやSNSを見て妄信している可能性もある。
どちらにしても、お父さんと私が親子だと気づく可能性がないとは言い切れない。
言葉に窮しているうちに、視線が落ちてしまっていた。
「大丈夫だよ」
やわらかい声に顔をあげると、冬吏は穏やかにほほ笑んでいた。
「この島は標高が高い場所にあるから、海面が上昇しても、ある程度の水位までは持ちこたえられる」
「だから、この町に来たの?」
うちと同じだ。でも、それを伝えてしまったら、なにもかもバレてしまう。
「母親とふたりで強制的に引っ越しさせられた。最初は反抗してたけど、今ではもうあきらめてる」
「そうだったんだ……」
冬吏はきっと東京から離れたくなかった。いじめから逃げた私とは正反対だ。
「でもさ」と、冬吏が肩をすくめた。
「親父が調べたところ、ここよりも安全な場所がわかったらしい。その場所ってのが、なんと北極なんだって」
「北極? え……冗談だよね?」
「俺も冗談だと思ってたけど、親父は本気みたい」
「でも北極って、氷に覆われてるんだよね?」
氷の国だという認識だったから驚いてしまう
「それは昔の話。温暖化の影響で氷が溶けて、人が住めるように開発が進んでいる。国のお偉いさんの家族は、内密に引っ越しをはじめているみたいで、うちも来月には引っ越すってさ」
あっさりと言う冬吏に、無意識に息を止めていた。
話の展開が急すぎて、思考がまったくついていかない。
ジリジリと太陽が私たちを攻撃している。ふたつの影さえコンクリートに焼きつくほどの熱い光。
「冬吏は、地球がこわれるって信じてるの?」
「過去の調査や、親父が作った資料を何度も見た上で、俺なりに判断した。間違いなく、もうすぐ地球はこわれてしまう」
「じゃあ……北極に行くんだ?」
やっと少しわかり合えた気がしたのに、もうすぐお別れなんだ……。
「行かないよ」
「え?」
顔をあげると、冬吏は白い歯を見せ破顔した。
「俺、子どものころからヒーローになりたかったんだ」
「ヒーロー?」
「ここにいても生き残れる可能性が高い。だったら俺は、町の人を助けて最後まで生き抜いてやる」
太陽に負けないほどのまぶしい笑顔。
水面に小石を投げ入れたときのように、閉ざしてきた心に丸い波紋が幾重にも広がっていく。
けれど、太陽は影も作る。もしそんなことが起きたら、私なら真っ先にあきらめてしまいそう。たとえ助かる状況だったとしても、自分のことで精いっぱいで、ほかの人を助ける勇気なんてきっとない。
そのときだった。
突然、冬吏が右腕を伸ばしたかと思うと、私の肩を抱き寄せた。あまりに近い距離に、体が硬直してしまう。
「え、ちょっと……!」
「地震」
言われて気づいた。足元から突きあげるような揺れを感じる。遅れて地震を告げるサイレンがスピーカーから鳴り響いた。
「大丈夫。これならすぐに収まる」
耳元で聞く冬吏の声は、これまででいちばんやさしく聞こえた。冬吏の胸の鼓動が聞こえるくらいそばにある。
冬吏の言ったとおり、すぐに揺れは収まった。警告音が残響を残し、風に消えていく。
「びっくりした……」
「地震が増えてるのも、地球がこわれる予兆だと思う」
私から離れた冬吏が、まっすぐに私を見たまま続ける。
「十二月二十五日まではあと一ヶ月しかない。信じなくてもいいけど、雪音も万が一に備えておいて」
うなずきながら、失った体温を少しだけさみしく感じた。



