甘くないパンケーキがある事を知った朝、のんびりと起きてきた伊月にそれを伝えると、食うか? と言われた。
断る理由なんて一つもないので、すぐに頷くと、朝早く出て行ってしまい、両親の不在となっている休日の台所で、俺達は並んで立つ事となった。
俺は丁寧に分量の計られたパンケーキの生地を、伊月に指示されるままに、ヘラを使ってしっかりと混ぜ合わせている。ねっとりとした卵色の生地を眺めるは、心地良い。
一緒に料理をしているという感覚もまた、良いものだ。
「卵何個食う?」
「二個」
冷蔵庫を覗いている伊月にそう声を掛けると、彼は「ん」と微かに頷いて、卵を四つ取り出した。
「朝から伊月の料理食えるの嬉しい」
「俺が料理できる奴で良かったな」
「ほんとな」
隣に並びながら伊月の言葉を肯定すると、彼はなんて言葉を返せばいいのか分からない、と言う顔をして、俺に視線を投げつけてきた。少しへの字に歪んでいる薄い唇、不満気な眼差しなのに、威圧感はなく、恐らく不快であるという意思表示ではないように見て取れる。
「お前って、変に素直だから調子狂う」
「それって悪い事?」
「……悪くはねえな」
「ならいいじゃん、素直な兄弟できてよかったな」
彼と同じ言葉を使って返してやると、やはりまだ難しそうな顔をしている。俺は腹に抱えたボウルの中身をざっくりと丁寧に混ぜ終えると、これでいいかと伊月に中を見てもらった。
「置いといて。もう湊は座ってな」
「もっとやりたい」
そう申し出ると、伊月は少し俺を見てから、じゃあ……、と俺ができそうなことを探し始める。
天気のいい少し遅い朝。リビングから庭に続く窓ガラス越しに、白い朝陽がたっぷりとなだれ込み、部屋は明るく、気温は熱くも寒くもない。テレビを消したままでも、仄かに窓越しに滲んでくる、休日の街の音が、心地良く間を埋めてくれていた。車の音、子どもの声、散歩しているだろう犬の声。
そんな当たり前でありながら、安堵感が胸を満たすような休日だから、まだ伊月の隣に立っていたい。カウンター越しに向き合うのも悪くないけれど、一緒に作業ができるなら、それがいい。
伊月はそんな俺の我儘を汲み取って、
「フライパンあっためて、バター入れて」
俺は指示されるままにフライパンを熱し、冷蔵庫からバターを取り出すと、ぱかりとその蓋を開く。
「……どんくらい?」
「ん~……こんくらいかな」
そう言いながらバターナイフで一欠けら、親指の第一関節くらいのバターを掬い取り、フライパンへと滑らせた。それは驚くほど滑らかに溶けながらフライパンの上を滑り、バターの濃厚な甘い香りを立たせた。
「いい匂い」
鼻先を立つ湯気に近づけると、熱気が顔を覆う。
その横から、十分熱したフライパンの上へ、伊月が生地を流し込む。お玉で掬い上げ、とろりと落ちていくのを見守ると、綺麗に円の形を整える。俺は横目で伊月へ視線を投げた。思ったよりも顔や身体が近くて、すぐに視線を逸らし、フライパンの中を覗き込む。
「ふつふつって気泡が湧いてきたら、ひっくり返す……けど、失敗しそうだから、俺がやる」
俺達は立ち位置を交代すると、じわじわと乾いて行く卵色の生地の表面を、言葉なく見つめた。彼の言うようにふつふつと小さな気泡が幾つも浮き上がってくると、伊月は頃合いを見計らい、表面を裏返す。見事にフライパンの真ん中に着地して、じゅわっと微かに生地の焼ける音が響く。
表面はこんがりとしたきつね色と、茶色のまだらに焼けていた。
「冷蔵庫からベーコンも出しておいて」
指示されて隣から移動し、言われた通りにチルド室で眠っている使いかけのベーコンを取り出した。
「かりかりに焼く?」
「焼くな」
「いいね」
ラップに包まれたそれを取り出しながら、俺はかりかりベーコンを想像して、ふにゃりと自分の表情が緩むが分かった。
理想の朝食、かりかりベーコン、目玉焼き、パンケーキ。全てがそろった理想のモーニングだ。
「湊、今日の予定は?」
不意に聞かれて、準備していなかった答えを頭の中で探す。けれど、さがすほど俺は交友関係も広くないし、深い付き合いの人なんて大崎くらいしかいない。その大崎とも、休日に会って遊ぶ事なんて滅多にないのだ。
「別に、特になんもない」
「俺はこれ食ったら出るから」
そう宣言されて、一瞬返事に詰まってしまう。今「そうなんだ」と呟いたら、情けない声が出てしまいそうだったし、伊月の言葉に、思いの他残念だと思っている自分が、少しだけ恥ずかしかったから。
けれど、昨日の夜聞いた時、友達は多そうだったから、本当は休日も忙しいタイプなのかもしれない。たまたまこちらの引っ越しや、親の再婚があったから、ここ最近は外出を控えていたのかもしれない。
そんな考えがぐるぐると回る一方で、気の利いた返しを考えるけれど、なかなか出て来ない。
どうしよう。
「あ、彼女?」
――バカだな、俺。
ノリと勢いで、揶揄い口調のまま伊月を見ると、彼はフライパンを眺めながら、
「あー、まあ。そんなとこ」
そう頷いた。
――昨日は彼女いるかどうか、秘密だったくせに、今は言うんだ。
伊月の言葉が、俺の胸の真ん中を打ち抜いて、ぽっかりと空洞を作った。貫通して、何もなくった胸の奥がすうすうして、何処となく寒い気がする。
半分予想しながら、言わないで欲しいと思っていた言葉を、ストレートに投げられて、また言葉に窮してしまう。今度こそ間違えない言葉を選びたいのに、何も言えない。一秒一秒と時間が過ぎるごとに、空白が重くのしかかる。
「湊、皿用意して」
間を埋めるように、伊月が指示してくる。また、助け舟を出された気分を拭えないまま、食器棚から二人分の白い皿を出して、ステンレスの台に並べる。
「寂しい?」
心臓が大きく跳ね上がる。
伊月に視線を向ければ、揶揄うように薄く笑みを浮かべてこちらを見ている彼と、目が合った。
揶揄われている気がして、
「別に!」
と、強い口調でつっけんどんに返すと、伊月は小さく笑った。
「なるべく早く帰って来てやんよ」
「別にいいし。彼女と飯食って来ればいいじゃん」
「お前の夕飯どうすんだよ」
「自分で食えるし。今までだって、食ってきたんだから、心配される事でもねーよ」
揶揄われている事に、苛立ちと恥ずかしさが募り、つい言葉に棘が出てしまうのを収められないまま、俺は突き放す口調で伊月に言葉を投げつける。伊月は俺の言葉を聞きながら、フライパンからパンケーキを白い皿に移し、もう一枚焼き始めた。また新しいバターがフライパンを滑り、甘い香りが立つ。
「俺のメシ食いたくねえの?」
「……別に、伊月の邪魔してまで食いたくねーし」
それは本音だった。
初めて作ってくれた時、ついでに作ってくれたのは嬉しかった。それから何だかんだと、食事を作ってくれることも、Dの写真に添えられる言葉も嬉しかった。でもその反面、俺は伊月の優しさに甘えているのも十分自覚しているのだ。
「……別に邪魔なんて思ってないし、感じた事もない」
「でも、折角出かけるんじゃん」
ふつふつと浮き上がる気泡を眺めながら、声が少しだけ拗ねている事に後悔をした。もっと明るく、どうでも良いように振舞いたいのに。
「じゃあ、気が向いたら帰る」
「……わかった」
「気が向いたら帰るから、夕飯食うなよ」
――なんだそれ、気が向いたらじゃなくて、帰るって言う宣言じゃん。
「料理バカなんだな、伊月って」
「どうだかな」
フライ返しで、美しくパンケーキをひっくり返すと、伊月は首を傾げた。
「……伊月って、将来の夢ってやっぱ料理人?」
「んー……特に考えた事ねえかも。でも、それもいいな。自分の店持ったりしちゃって」
伊月へと視線を投げれば、視線がぶつかる。朝の白い光をゆっくりと吸い込むような明るい茶色の瞳が、優しげな笑みを浮かべている。そして、その瞳の中に映る自分と、俺は対峙した。
伊月の少しだけ眠そうな眼差しが、ゆっくりと瞬きして、また開いた瞳がやっぱり俺を見ている。
きれいな瞳。
「湊?」
呼ばれて我に返り、慌てて視線をパンケーキに落とす。二枚目がフライパンから皿に移されていた。
「ごめん。伊月の目、すごい綺麗だなって思って」
「そ? まあ色素薄いってよく言われっかも」
「外国の血が入ってたり?」
「純血日本人でーす」
俺達はそんなやり取りをしながら、並んでキッチンに立っていた。その間に、二枚ずつのパンケーキと、二つずつの目玉焼き、最後にカリカリに焼いたベーコンを乗せて、念願の甘くないパンケーキの皿が完成すると、もうそれは何処かのカフェのモーニングプレートにしか見えない。
いつも通りのダイニングで皿とカトラリーを並べて、向かい合いながら食卓に着くと、ふたりでいただきます、と手を合わせた。
窓の外から、子どもの笑い声が、白い朝の陽光と共に、滲むように聞こえてくる。清々しい朝、なんて言葉は今、まさにこの瞬間に使うべきなのかもしれない。――なんて思いながら、パンケーキにナイフを入れる。
もっちりとした生地にナイフが沈み込む。それから半熟の卵を切り崩し、一緒に頬張った。
微かな塩気に、卵の黄身の甘さがとろりと口いっぱいに広がる。パンケーキの生地も、もちもちと食べ応えがあって、食感が楽しい。
「うま~、幸せ」
「どうも。これベーコンと一緒に食うと美味い」
言われるままに、味付け濃い目にした、と言っていたカリカリのベーコンを切り分けて、パンケーキと頬張ると、今度は優しくない塩味が舌の上をころころと駆け回るような刺激がくる。けれど、それもすぐにパンケーキの柔らかな風味に中和されて、これも美味しい。いくらでも食べられてしまう。
「うま。最高……朝からありがとな」
幸せをパンケーキと一緒に噛み締めながら、しみじみと礼を伝えると、伊月は「はいはい」と俺の礼を流して、目玉焼きを頬張った。
カチャカチャと皿とカトラリーのぶつかる音が、静かに俺と伊月の間に降り積もる。驚くほど優しい音だと、何となく思う。
「湊」
呼ばれて顔を上げると、伊月の右手が伸びて来て、俺の横の髪を掬い上げて、耳に掛けてくれる。その仕草があまりにも自然で、俺は惚けたまま、伊月を見つめた。三秒くらい遅れて、心臓が大きく鳴ってしまう。
「髪付く。長めも可愛いけど、切ったら?」
「か、かわいい?」
「湊って可愛い系じゃん。子犬系?」
「そう? 伊月はイケメンだよな」
「うん、知ってる」
「うざー」
いつも通りの空気に、思わず表情が崩れて、ふたりで少し笑うと、テーブルに伏せて置いてある伊月のスマートフォンが震えた。
彼はすぐにそれを手に取ると、画面を眺めてから、何も言わずに席を立ち、部屋を出て行ってしまう。目配らせもする事なく、出て行ってしまった後姿を見送り、きちんと扉が閉まった向こう側で、伊月の声が微かに聞こえる。
俺は耳を澄ましてしまうには、居心地が悪く、テレビを付けて、音量を控え目にした。
「おはようございます! それでは本日の天気をお伝えします。まずはこちらの天気図をご覧ください」
はきはきと元気の良い女性天気予報士の声に、意識を集中させながら、俺はパンケーキを小さく切り分けて口に運ぶ。
今日は晴れて、真夏日和の天気。地球の温暖化ってどこまで進んじゃってるんだろう。東京が五十度越えになる日っていつか来ちゃうのかな。
――なんて。ぐるぐると頭を必死に働かせて、リビングへの外へ傾いてしまう意識の手綱を引っ張った。
「今日は日傘があると、日中は楽そうです」
男で日傘ってあんま見ないけど、あれって本当に楽なのかな。
俺はじっとテレビを見つめた。すると、不意に扉が開いて、伊月が戻ってきたかと思うと、彼は勢いよくパンケーキを食べ尽くして、また立ち上がってしまう。
「え、どしたの?」
「待ち合わせ時間、間違えてた」
「マジで?」
「朝から映画観に行くつもりだったのに、一時間間違えてた」
そう言い残すと、伊月は階段を慌てた様子で駆け上がって行ってしまう。扉が締まる音がして、数分後また階段を下りてくると、伊月は玄関へと向かった。
俺は食事を中断して玄関を覗き込む。
「大丈夫?」
声を掛けながら玄関に座る伊月の背中に近づいた。
「だいじょばない気がする。けど、大丈夫」
「それ大丈夫じゃない……」
スニーカーの紐を結び直している背中を眺めながら、俺は胸の奥がもやもやと薄い霧のようなものに包まれていくのを感じた。
「とりあえず、夕方には帰るから」
「無理しないでいいよ」
「無理じゃない。だから、飯食わねーで待ってろ」
「お前は俺の親かよ」
「ビーフシチュー」
「待ってる。スプーン握って待ってる」
振り返った伊月が、楽しそうに笑った。
「んじゃ、行ってくる」
そう言うと、足早に玄関を出て行ってしまった。颯爽と去ってしまった伊月のいた場所に、ぽかんと空白のような彼の気配だけが残る。そしてその場所が、少しずつ熱を失っていくのが分かる。
俺はのろのろとダイニングテーブルに戻ると、食べかけのパンケーキの前に座った。目の前には自分の皿と、既に食べ終えてからとなった伊月の白い皿が残されている。半熟の黄身やベーコンの脂が残る伊月の残した皿は、朝の清潔な光に、てらてらと照らされていた。
汚いのか、綺麗なのか。
そんなどうでも良いことを考えながら、ベーコンを噛締める。すこししょっぱい。
俺はやけに静かになってしまった部屋の中で溜息を零す。テレビや椅子やソファーにテーブル、全てが息を殺しているみたいな静寂が落ちていた。
「あーあ」
独り言が零れた。
俺は手に持っているフォークを皿に静かに置いて、リビングのソファに移動し、そこに寝ころんだ。目の前のテレビ隣にある窓から、真っ直ぐと白い光が網膜を焼いた。
また、子どもの笑い声と、犬の吠える声が聞こえてくる。鳥の鳴き声も。
――あーあ、俺は伊月のこと、好きなんだな。
雫が真っ直ぐ落ちるように自覚した。心の水面に落ちた「好き」という一滴が波紋を起こして、じんわりと身体の中に染み渡っていく。
胃袋掴まれ過ぎ、なんて自嘲しながら目を閉じると、家を出ていく楽し気な伊月の笑顔が、浮かんでは遠くへと消えて行った。
俺は二度目の大きなため息を吐いて起き上がると、食卓に戻り、伊月の作ってくれた朝食を頬張った。
何となく予想はしてた。
『ごめん、映画の時間が五時からになったから、すげー待たせるかも』
『了解、じゃあ今夜は別々ってことで! 良い映画だったら教えて!』
そんなやり取りをした後、やっぱり心は沈んだ。伊月の料理が食べられないという事も、もちろんあるけれど、それよりなにより「絶対帰る」と言ったのに、帰ってこないという事実が、理性では分かっていても、本能が不満を垂れる。
伊月は彼女といるんだから当たり前なのだ、俺が優先されるのはおかしいだろ。と思う気持ち九割。約束は約束なのに、と嫉妬に塗れた醜いひがみが一割。なんとも目を当てるのも憚れる感情に、俺はベッドの上で悶えた。
こんな事を思っている自分が憎たらしく、恥ずかしく、みっともない。こんなのはまるで少女漫画みたいじゃないか。――いや、少女漫画だって、きっともっと理性的なはずだ。
俺はがばり上半身を起こすと、このままここに居たらダメだ、と半ば無理矢理身体をベッドから離して、簡単に身支度を整えると、家を飛び出した。
一人部屋で悶々と考え尽くすより、明るい場所に飛び出して、人の波に流されている方が、まだ健全な気がする。俺は何も目的がないままに、住宅地から最寄り駅へと向かい、とりあえず新宿に向かう電車に乗り込んだ。
そこから先はどうにでもなる。
各駅停車に乗り込んで、ゆったりとした車体の揺れに身を任せながら、車窓の外を眺める。住宅地を過ぎ去り、少しずつ高いビルが増え、視界が狭苦しくなっていく。
俺はポケットの中からイヤホンを取り出して、耳にはめると、ランダムで音楽を流した。聞こえてきた流行りのラブソングのチープさに、苦笑いが零れる。
安物だと思える位のラブソングにまで自分の気持ちを重ねられる事に、情けなさまで感じてしまい、再生をストップすると、俺はメッセージアプリを開いて、大崎の連絡先を開いた。
『今日暇?』
軽い気持ちでメッセージを飛ばすと、すぐに返信が返ってきた。
『いいけど、珍しいな。どこに何時?』
気軽で話の速い大崎に心底ほっとしながら、
『もう新宿に出てる。出て来れたら教えて』
俺はそう短くメッセージを飛ばした。
大崎が来てから、カラオケに行く――という趣味もないので、ぶらぶらと街を徘徊しながら、疲れたらカフェに入り、また何となく見落としていた「観たいもの」や「やりたい事」を思い出した順に消化していく。
そう言えばフィギュアが見たかった、漫画発売日昨日だった、そう言えばこの前SNSで見かけたあの飲み物気になる。捻り出すような「すべきこと」を消化し、ぐるりと都内を一周してから帰り着いた新宿の新南口にあるカフェに入った。
「意外と歩いた」
「だな、でもフィギュアのラスイチ買えたのデカい収穫だったわ」
向かいの椅子に、アイスコーヒーと一緒に腰を下ろして、大崎が紙袋軽く掲げる。それは一度完売した商品らしく、大崎の知らぬところで再販が決まり、そして見事に、その最後の一個を手に入れる事ができたらしい。
「マジで今日、声掛けてもらった良かった」
そう言いながら白い紙袋を優しく撫でる大崎に、そりゃよかったな、と言いながら、俺はアイスティーのストローを咥えた。
店内は駅前ということもあり、混雑していた。ベーカリーも併設されているせいか、買い物だけの客も多く、もちろんカフェスペースの席はすでに満席、ベーカリーブースも人の並びができている。圧迫感が少ないのは天井が高いせいだろう、開放的な店内は客や店員の声で賑わい、甘いパンの香りが漂っていた。
海外を彷彿とさせるような大きなマフィンや、クッキー、果物の乗ったパイなどが、綺麗に陳列され、大きな壜の中には外国製のキャンディーやチョコレートバーが入って売られている。
女性客の多い店内の中、男同士で入っているのは、どうやら俺と大崎のみらしい。
「でもどうしたんよ、今日は。珍しいじゃん」
ストローを咥えながら、大崎がこちらに真意を問いかけてくる。
「別に、誰も家にいないし。一人でふらふらするのもなーっていう、ただの気紛れ」
「兄弟どうしたよ、兄弟」
「彼女とデート」
「はー……嫌いだわ」
「嫉妬かよ」
「料理できてイケメンで彼女持ちの、学校カースト上位者を底辺の俺が好きになるわけないじゃん」
その心が嫉妬であるとしても、隠すことなくさっぱりと言い退ける大崎が、逆に潔くて好ましい。俺はレモンシロップの蓋を開いて、アイスティーに流し込み、透明のそれを掻き混ぜる。
俺もそんなふうに思えたら、随分と楽だったかもしれない。ふとそんな事が過ったとしても、全ては後の祭りだな、と諦める他ない。
「でもまあ、お前らは仲良さそうでいいじゃん。仲は悪いより良いに越したことはねえからな」
そう言いながらストローを噛む。俺は肘を着いて、そうなんだけどさ、と呟くと、それを不満と感じ取ったらしい大崎は「なんだよ」と、言葉の先を促してくる。
聞いて欲しいような、聞かれたくないような。
けれど、やはり男の事が好きだなんて、言えない。兄弟になってから、長い時間を共にしたわけでもない、何のどこが好きなのかと問われてしまえば、誰もが……自分すら納得させられるような理由も見つからない。そう思うと、素直に内心を吐露するには、ハードルが高過ぎる。
「……なんてことないけどさ」
「父親の方と上手くいってない?」
「いや、そもそもあんま家に居ない」
「お前の母親も仕事人間だしな、父親も同じような人選ぶんだな」
俺の週平均外食回数を知っている大崎は、飽きれるという風でもなく、納得したという顔で頷いた。
「その兄弟の名前なんて言うの?」
「伊月」
「いつき、名前までかっけーのな」
褒めるというより、もう少し醜い感情を込めて大崎が言う。俺は白地に何かのキャラクターの絵が描かれている彼の紙袋を見つめた。猿との身体を持ちながら兎のような長い耳が付いているデフォルメのキャラクターは可愛いというより、少しだけ不気味だ。
「でも、伊月が家にいるのはいいだろ?」
「まぁ、それは……」
俺は曖昧に頷きながら、アイスティーの中の氷をがらがらと混ぜた。
彼がいるから寂しくない。むしろ、二人きりの空間はどこまでも心地良くて、我が儘を何処までも受け入れられてしまいそうで、少しだけ怖い。
「何が不満なんだよ」
「何も不満がない……」
「なんだそれ。てか、俺そろそろ帰らねえと」
そう言いながらスマートフォンの画面を明るくして時間を確認する。時間はすでに六時を過ぎており、この分では夕飯は付き合ってもらえなさそうだと諦めて、俺は素直にカフェを後にした。
駅前で手を振り合い、大崎が改札の向こう側に飲まれていくのを見送ってから、俺もそれとは逆の方へと歩き出す。
コンビニ弁当を買って、家に帰る気にもなれないけれど、腹は減っている。かといってビーフシチューを探すのも面倒臭い。似たようなカレーくらいならすぐに見つかるだろうけれど……。
俺は幾つかチェーン店を思い浮かべてから、身体が覚えている方へと歩き出す。チェーン店も良いけど、昔からある蕎麦屋のカレーが美味かったりするんだよな、なんて思い出しながら歩いて、何軒もの店を通り過ぎる。
気づけば、薄っすらと日が落ちて、街頭が灯り始める。人もスーツ姿の大人が増え始め、俺みたいな子どもの数は減少していく。
けれど、食べたいものは決まっているはずなのに、店の前で立ち止まっても、足が店内まで進んでくれない。看板に掲げられたカレーの写真を見上げたり、食品サンプルを眺めては、明らかに空腹を訴えているのに、何故か気が進まない。
いっその事カレー止めて、牛丼にしてもいい。何なら腹に入ればなんでもいいとすべきか。
そんなふうに考えながら、一軒の蕎麦屋の前で立ち止まる。ここにしよう、もうここでいいじゃんか、歩き過ぎて疲れた。
疲労に負けて、古びた暖簾を潜ろうと身を屈めると、
「湊」
声を掛けられてその方へと振り返ると、そこには伊月が立っていた。そしてその隣には、スレンダーで髪の長い女の子が一人。
「お前、何でいんの?」
そう言われて、一瞬付いていけずに沈黙してしまうと、俺の視線は勝手に、伊月のすらりと伸びた右腕、右手へと動き始める。その手は隣の女の子としっかり繋がれていた。
思いがけないところで、更に現実を突きつけられて心臓が軋む。
けれど、今ここで勝手に傷ついている事を悟られてはいけない。なんとかうまく誤魔化して、さっさと店内に入ってしまわないと。店内に入ってしまえば、彼も追ってはこないだろう。なんたって隣には彼女がいて、その手をしっかりと握り締めているのだから。彼女を入れるような店じゃない、どちらかと言えば節約に駆られたサラリーマンや大学生が似合いそうな、古い立ち食い蕎麦屋なのだから。
「なんでって、友達と遊んでた帰り。じゃあ、また家でな」
そう手を振って、ついでに正しい笑顔も顔に貼り付けて、完璧なまでに「ただの兄弟、もしくは同居人」という顔で暖簾を手の甲で払い、横開きの硝子戸に手を掛けると、
「いや、待ってろつったじゃん」
俺の左手首を伊月の右手が掴んだ。さっきまで女と繋いでいた手のひらは、驚くほど温かくて、思わず振り払ってしまいそうになったが、ほんのわずかに残されていた理性がそんな身勝手な振る舞いを止めてくれた。
「いやいや、何言ってんの? 夕飯各自でって、俺言ったじゃん」
「俺はそれに返事してない」
「子どもみてーな事言うなよ、アホか」
さすがにこれは見た目がヤバい。俺は伊月の後ろにいる置いてきぼりにされている彼女に、目配らせした。彼女は不思議そうにこちらを眺めているだけで、言葉に迷っているようだった。それはそうだろう、いきなり彼氏が知らない男の手首掴んで夕飯の話をし始めているのだから。
握られた手首が、じわじわと伊月の熱を吸い上げるごとに、捕まれた痛みなんてそっち退けに、心臓の熱を上げてくる。
「今日のところはさ、な?」
「てか、今日用事ないって言ってなかった?」
「いや、だから、暇だったから」
声が低く迫ってくる感覚がして、圧迫感を感じる。俺はとりあえず、店の前からズレるように移動して、捕まれたままの手首を揺すった。
「離して、痛い」
伊月はじっとこちらを見つめてから、諦めたように手の力をゆっくりと緩めてから、視線を落としてようやく離してくれた。掴まれたところが、ほんの少しすうすうする。
「ごめん」
この店に入るという事で、伊月に反感を買うならば、今は入らない方が良い。後ろにいる彼女だって、きっと今の状況が掴み切れていないはずだ。
「……真っ直ぐもう帰るから」
そう呟くと、
「俺も帰る」
なんて子どもみたいな事を言い始める。
それが嬉しいような、その反面どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
「彼女いんだろ、あほなこと言うな」
俺は伊月の額を軽くぺちり、と叩いて、彼の後ろにいる女の子を、肩越しに覗き込んだ。
「ごめんね、お邪魔しちゃって」
彼女は「いえ」と、どう返事をすればいいのか分からないという顔で、こちらを見ていた。俺は伊月の顔を覗き込む。俺よりも少しだけ背の高い彼は、悪戯したけど何も反省していません、という子どもみたいな顔で、不満気に俺を睨みつける。
その鋭くなりきれない眼差しの裏に、ちらちらと見える伊月の弱みのようなものが、心臓を締め付けた。庇護欲というのか、ただきゅうっと強く細い糸で締め付けられるような息苦しさが、喉元を締め上げてくる。それなのに、胸は甘く満ちて、今すぐにでも彼を抱きしめたくなってしまった。
こんな顔を見るのは初めてだ。いつもこちらを揶揄うような笑みばかり浮かべているのに、今は何故か余裕がなさそうで、堪らない。
けれど、そんな事も言えるわけがない。
「とりあえず、今日は飯別々な、俺もう腹減ったし」
兄弟とも、友達とも言い切れない間柄で、更には伊月の彼女の前でなんて。一ミリだってそんな態度や顔はできない。
それなのに、伊月は俺の言葉に傷つけられたような顔をするから、俺まで苦しくなってくる。
どうして? なんでそんな顔すんの?
俺は問いかけられるはずもない疑問を、無言で伊月に投げつける。勿論、返事などない。
「じゃあ、また家で!」
俺は分かり易い笑顔を浮かべると、伊月の二の腕を軽く二回叩いてから、駅へと足早に向かった。振り返ったりしないように、早々に見つけた角を曲がり、人ごみの中に紛れる。そうでもしないと、身体が言うことを聞かない気がした。
コンビニで弁当買って帰ろう。
伊月は何を食べるんだろう。彼女と。
俺はそんな事を考えてから、止めようと意識的に頭を振って考えを追い出す。
そうだ、オムライス買って帰ろう。



