朝起きると、いつもしない匂いが階段下から漂ってきた。俺はその匂いを辿りながらリビングに入ると、既に制服に着替えて台所に立っている伊月を見つけた。
 卵焼きの匂いだ、なんて思いながら、彼の傍に歩み寄ると、
「おー、おはよ」
 と、顔を上げないまま、伊月が言葉を返してくる。
「何作ってんの?」
 朝めしを作るにしては少し遅い時間だし、朝から伊月が台所に立つ姿は珍しい。俺は彼の手元をカウンター越しに覗き込む。
「あ、弁当だ」
 彼の手元には二人分の弁当箱が並び、中には既におにぎりや卵焼き、ウインナーや野菜が見栄え良く収められている。色とりどりな温野菜まできちんと鷹の爪とガーリックで味付けが施されているようだ。いい匂いがする。
「うわ、うっまそう……」
 こんなのが昼に食えるとか、幸せしかない。
 そんなふうに思いながら、ぎゅうぎゅうにおかずを詰めていく伊月の長い指先を見つめる。手は大きいのに、彼の指先はいつも丁寧で繊細に動く。
「弁当なんて珍しいな」
「あー、頼まれて」
 たのまれて?
 思わずその言葉に、この弁当は自分のものではないのだと自覚する。二人分あるから、てっきり俺と伊月の分なのかと思ってしまった。
 俺は途端に恥ずかしくなって、誤魔化すように「いいなー」と笑ってみる。
 余計なこと言わなくてよかった、と自身に言い聞かせながら、彼の手元を見つめてから、俺はカウンターを離れた。
 いつの間にか、自分が思う以上に、伊月に甘えてしまっている自分がいる。俺は洗面台に向かうと、冷水でいつもよりも念入りに顔をざぶざぶと洗った。自分への無意識なる甘えへの戒めのように。
 タオルで強く顔を拭い、真っ直ぐと鏡に向き合うと、俺は三回深呼吸をしてから、リビングへと戻った。
 いつも通り、平常心、いつも通りの朝。俺はまだ何も見てない。
 そう言い聞かせながら戻ると、入れ替わるように、伊月がリビングを出ていく。俺はその背中にいつも通り、
「いってら」
 と声を掛けると、
「カウンターの上にお前の置いといたから」
 と言われる。
 その言葉通りに、台所のカウンターへ視線を投げると、タッパーが一箱置かれているのが見えた。俺は駆け寄ってそれを手にすると、慌てて玄関へと向かった。
「これ、伊月のだろ?」
 革靴に脚を入れて、とんとん、とつま先で地面を叩く伊月は、いつもよりも低い位置から俺を見上げて、
「お前が食え」
 と言い放つ。
 相変わらず感情が薄い表情なので、好意で言っているのか、仕方なく言っているのか分からない。
「いいって。貰えねえよ」
 けれど、どちらにせよ気を使っていることには間違いない。
俺はそんなに残念そうにしていただろうか。俺ってそんなに顔に感情が出るタイプだっただろうか。――そんなはずないのに。俺はまだ温かいそれを伊月に突っ返すと、いらん、という一言で受け取ってもらえない。
 まるでこれでは横取りじゃないか。
 流石にそれは俺の気が引ける。
「黙って食え。俺がお前に食わせてえの」
 そう言いながら弁当を押し返される。
 どうしよう、そう迷っていると、不意に伊月の指先が俺の方へと伸びてくる。俺はその指先が何処に行くのか分からなくて、黙ってそれを見守っていると、それは俺の頬を優しくつまんだ。
「伊月?」
咎める訳でもなく、俺の動きを封じるように頬を摘まんで、軽くそこを揺らす。痛みのない、その甘い指先に、思わず伊月を見つめた。
「卵焼きの味、ちょっと変えてみたから、感想宜しくな」
 そう言って、さっと手を離すと、伊月は俺の反応を待たずに、足早に家を出て行ってしまう。残された俺は、優しく摘ままれた頬を掌で覆いながら、手の中の弁当を見下ろした。
 じわじわと頬が熱くなっていくのを感じる。
俺はその場にしゃがみ込むと、少し遅れてきた羞恥心に苛まれて、一人でどんな顔をすればいいのか分からなくなった。
完全に甘やかされている。そして、それをこの上なく心地良いと思っている自分がいる。
「あー……人たらしこっわ」
 俺はわざと言葉に出して、冷静になれと自分に言い聞かせると、手の中の弁当箱を見つめる。
 昼休みが今から楽しみで仕方ない。我慢しきれず途中で食べる事にならないように、気を付けなくては。俺はのろのろと立ち上がると、部屋に戻り、大切に弁当箱を鞄の中へと仕舞い込んだ。



「それもしかして、例の兄弟の?」
 いつものように大崎と顔を突き合わせながら、今日初めて手作り弁当と言うものを、学校の机で堂々と開く。すると、俺の手元を見下ろした大崎が、驚いたように顔を上げた。
「マジで? そいつめっちゃ面倒見いいな」
 ……いや、半ば奪ってしまった弁当なんですけどね、なんて素直に言えずに、俺は曖昧に頷きながら「まあね」と苦笑いを浮かべる。冷えた白米の上には、炒り卵と肉そぼろが乗っており、おかずは卵焼きにウインナー温野菜のアンチョビソース掛け、彩にプチトマトまで添えられており、とても男子高校生が作ったようには見えない。
「マジでそいつ男?」
 なにそのきらきら弁当。
 大崎は俺の弁当を覗き込むや否や、そう言い放ちながら、疑いの目線をこちらに送ってくる。俺は家にあった割りばしを鞄から取り出すと、袋を裂いて、ちょうど真ん中でそれを割る。手を合わせると、今朝の伊月の顔が浮かんできて、少しだけ恥ずかしくなってしまった。
「そいつどんな奴なん?」
 今日は弁当ではなく、コンビニで手に入れた菓子パンを袋から出しながら、大崎が聞いてくる。
「どんな、……イケメンで料理好き」
「嫌いだ~、俺嫌いだわ~、イケメンでしかも料理上手とか」
 早速悪態を吐きながら、大崎がコロッケパンの袋を開く。俺はそれに突っ込まず、頭の中に浮かぶ伊月の像を眺めた。
「あとは……すっげえ優しい。表情筋死に気味だけど」
「そいつ少女漫画かなんかのキャラじゃね? 生きてる?」
「それが生きてる人間なんだわ」
 疑いたくなるような大崎の気持ちに同意する。言葉にして伊月の像を象る程、本当に少女漫画の王子様にしか聞こえてこなくて、存在を疑いたくなる。
 けれど、手料理を初めて作ってくれたのも、いつもなんだかんだ優しいのも、俺の肩を抱いたのも、俺の頬に触れたのも、全部が実在する伊月だ。
 女相手にするような、あんな甘い仕草をいとも簡単に、さらりとやってのけたのは、紛れもなく伊月しかいない。
「マジで王子様過ぎんだわ……少女漫画の映画版だよ」
 数日間の色々な事が頭を巡ると、俺は耐え切れずに机に突っ伏した。
「何があったんだよ、お前とそいつの間に……」
 俺は何もありません、と答えて身体を起こすと、卵焼きを摘まんで口に入れる。
「うまい……」
 何度か伊月の卵焼きは食べたことあるけど、いつもほんのりと甘めであるが、今回はそれよりも出汁が良くきいていて、少し塩味が強い。これはこれでご飯のおともには最適だ。間に巻かれている海苔もいい。
 俺はじっくりと噛み締めながら、以前と今回どちらが好みかを考える。けれど、正直どちらも捨てがたい。優しい甘い卵の味も好きだし、しっかりとごはんに合わせる卵焼きも美味しい。
「料理上手くてイケメンとか、もうそれだけで簡単に憎めるわ」
「ただの嫉妬がひどい……」
 俺は二つ目の卵焼きを頬張る。
 そぼろと炒り卵の二色ごはんも、卵は甘めでそぼろは味がしっかり甘辛く、冷めて甘味の増した白米によく合う。俺は教室を見渡し、弁当を持参しているクラスメイトを眺めた。
 それぞれ好きな相手と机を挟んで、賑やかに食事をとっている面々の顔は明るく、自分もその輪の中に入れているようで嬉しい。コンビニの菓子パンが嫌いなわけじゃないし、美味しいと思う事の方が多いけれど、やっぱり伊月の食事が一番好きだ。冷めていても美味しい。
 伊月のご飯は、いつでも俺を幸せにしてくれるのだな、と改めて思いながら、半分に減ってしまった弁当を眺める。今日は伊月のお弁当を奪う形になってしまったけれど、今度はちゃんと俺の分として作ってもらおう。――面倒じゃなきゃの話しだけど。
「でも、早起きして作ってくれるとか、マジで優しいな。俺は一秒でも長く寝たいのに」
「それな。それもすごいよな~」
「愛だねえ」
「愛かなぁ……」
 これが愛と言うのなら、もう一つの弁当は誰の手に渡ったのだろう。
 ふと思い当たり、自分が伊月について殆ど何も知らないのだと思い当たる。思い返してみても、お互い下らない言葉のやりとりはするものの、家以外の、外での自分のことを殆ど話していない。全く話さないわけじゃないけれど、どんな友達がいて、どんな学校生活を送っていて、実は彼女がいたりして。なんていう、細かい根の部分までは、正直聞いたことがないかもしれない。
 ――もしかして、彼女にお弁当を作ったのかも……。
 はっとして俺は伊月の彼女を想像してみる。
きっと可愛い人に決まってる。伊月は絶対カースト上位の一軍メンツだろうから、彼女だって同クラスの可愛い女の子で、きっと明るくて優しいに違いない。お似合いカップルとかで、みんなが認知しているのだ。
 ――と、ここまで逞しい妄想を膨らませたところで、自分の想像力と、その現実味のある回答に傷付ている自分に引いた。
「……大崎、伊月に彼女いると思う?」
「そのスペックで、いない方が不思議じゃね?」
「だよね」
 俺は何となく疲労がたまるような心地で溜息を吐きながら、制服のブレザーに入っているスマートフォンを取り出し、SNSのアプリを起動させた。自分のメインで使っているアカウントのタイムラインを眺めてから、誰にも教えてない自分だけのアカウントへと移行し、Dのプロフィールを眺める。すると、珍しく写真ではなく、文章だけがつい十分ほど前に投稿されているのが、目についた。
 いつもは写真のみ、それか、文章を短く付け足すくらいだったが、文章だけの投稿というのは、俺が知る限り初めてかもしれない。
 昼飯を奪われた、なんて投稿されているんじゃないだろうか。そんな不安を一抹胸に抱えながら目を通す。
『飯ってその人、そのものを作っている感じがして良い』
 俺はその文章を目にして、一瞬頭の中を白い空白で支配されたような気になった。まさに、伊月に支配されている、とでも言うのだろうか。
 伊月の作るものを食べて、彼に血肉を支配されている、彼の文章を見た瞬間に理解してしまった。
 心臓が、妙に早く鼓動を打ち始める。
 弁当箱の中を見つめながら、ひと口ひと口、身体の中に収めるごとに、俺は伊月に作られていくなんて発想はなかった。
「俺にもひと口ちょーだい」
 大崎がそう言って口を開く。
 俺はそれを一瞥してから、
「だめ」
 と一言拒絶して、弁当の中身を頬張った。
 改めて意識したとしても、伊月の弁当は、やっぱり美味かった。



 一つのほころびを見つけてしまうと、他の事柄も気になり始め、芋づる式に悩みが増えて行った。俺はそれを解消するように、伊月に学校での振舞や交友関係を聞き、そんな俺を訝しみながらも、伊月は一つ一つの疑問を解消してくれた。
 どんな友達がいるのか、今日の昼飯はどうしたのか、学校の成績は? もしかして彼女いるの? 
 次々と出てくる質問に、伊月はさらりと簡素に答えてくれる。普通の友達、昼飯はパン食った、成績は普通、彼女は……秘密。
 一番気になる所を隠されて、思わず机を叩きたくなったが、
「じゃあそっちは?」
 と不満をぶつける前に、質問を投げ返されてしまったので、消化不良のまま、彼女の件は流れてしまった。
「もう眠い」
 という伊月を見送り、おやすみ、と返事をすると、
「拗ねんなよ、また明日な」
 と頭を撫でられてしまった。
 料理をする時みたいに、長い指先が丁寧に優しく髪を梳く。
 やめてくれ! と言いたいのに、何故か言えなかった。おやすみ、と呟く事が精いっぱいだった。
 なんだ、この気持ちは。
 自分自身に苛立ちながら、けれど、深追いしない方が良いと、何となくではあるが、本能的に感じている。
 伊月がリビングから出て行き、階段を上がって行く音を、俺は耳を澄ませて、聞いていた。