母が料理を練習しているのは、何となく分かっていた。伊月の言う通り、夜に夜食として台所に立っているのを何度か見かけたことがあるからだ。けれど、それはあくまでも家族に振舞う料理ではなく、自分が満足する為の物だと思っていた。もしくは、新婚の母が今の父を満足させるためのものだとばかり思い込んでいた。
「美味くできてるか分からないけど」
 そう言いながらテーブルを埋め尽くす料理の品を、俺は何とも言えない気持ちで見つめる。
 今まで料理に関して、興味も義務も感じていなかった母の手作りの肉じゃがに、煮魚。お浸しに浅漬けとみそ汁。見た目は完璧な和食膳に、俺は母の顔を見た。
 満足気な母と目が合うと、彼女はどうだ! と言わんばかりの得意気な顔でこちらに視線を送って来ていた。
「すげーじゃん」
 俺はなんとも言い難い気持ちで、笑顔をと言葉を作り上げると席についた。既に茶碗には白米が盛られ、全てが待機状態で俺を待っている。
 俺が好きな光景の筈なのに、伊月にもらった感動以上のものが湧いてこない。むしろ、なんだか複雑な思いがぐるぐると胸の内を渦巻いていて、すっきりしない。
「すごい、料理も上手なんて知らなかったよ!」
 大袈裟に感動を見せる父の言葉に、母は少し頑張っただけと控え目に笑った。その光景は間違いなく幸せの構図なはずなのに、俺の顔には薄っぺらい笑顔が張り付いているのが、自分でも分かる。
 あからさまな作り笑いだ。こんなのきっと簡単に見破られて、この場が白けてしまう。
 そんな焦りが湧いて来て、俺はさっそく「いただきます」と手を合わせて箸を持ち上げた。
「うまそー」
 ――ああ、すっごいわざとらしい声。
 正直な自分が心の隅からヤジを飛ばしてくる。うるせえ黙ってろ、と自分で突っ込みながら、俺はみそ汁に口を付けてから、とにかく早く食事を済ませようと、白米を大きく口に含んだ。
 つやつやで柔らかめの白米は、甘みが強く、みそ汁によく合う。
「うま」
 伊月の声が聞こえて顔を上げると、煮魚に手を付けた伊月が頷きながら、白米を頬張っている。俺もそれに習って魚や肉じゃが、副菜へと手を伸ばす。
 どれも間違いなく美味い。
 きっと何度もレシピと睨めっこして、努力して作ったのだろう。そんな事がすぐに分かるような料理たちだ。間違いなく美味しい。――それなのに、どうして俺はこんなんにも物悲しい気持ちになってしまっているのだろう。
 辛うじてずれ落ちる事のない笑顔を張りつけながら、俺は一体何を食べて、誰のために喜んでいるふりをしているのだろう。
 ほろりと崩れるじゃがいもを頬張れば、柔らかな味が舌に優しく沁みてくる。
 初めて食べる母の味に、感動とは別の感情が湧き上がってきていた。
「湊、美味しい?」
 そう問われて、俺は素直に「うまい」と伝えると、母は満足そうに頷く。
「あたし実は料理上手だったのかな」
 なんて言いながら。
 その何気ない一言に、胸の奥がずん、と重くなるのを感じた。
「肉じゃがもすごく美味しい。ちゃんと作れるんだね」
「そうみたい。これからはできる限り作るわ」
 母は自信を手に入れたように、意気揚々と宣言する。俺は勝利を手にしたような母に笑いかける。
 俺は今、正しいことをしていると自身に言い聞かせながら笑った。
「湊って和食好きなん?」
 伊月の声に顔を上げると、俺は少し返事に迷いながら、曖昧に頷く。
 食事に関して好き嫌いはあまりないけど、外食やテイクアウトが多かったせいか、和食は実際あまり食べ慣れていないというのが本音だ。慣れ親しんでるのはイタリアンやファストフードだから、恐らく和食とは真逆だ。
「俺、イタリアンが好きなのかと思ってた」
 伊月はそう言いながら、肉じゃがに手を伸ばす。
「割と何でも好きかも」
「そ。分かった」
 妙なところで会話が途切れてしまい、伊月の真意が見えないまま、俺はみそ汁をすすった。豆腐となめこの、シンプルなそれは、きちんと出汁が取れていて、不満なく美味い。煮魚もふっくらとしていて、身の奥まで味がしっかりと滲みている。白米とかき込むと、間違いなく幸せの味がしている。
 それなのに満たされない。
 俺は食事を終えると、食べた食器を流し台に運び、足早に自室へと引っ込んだ。階段を上がる時、リビングから母と父の笑い声が聞こえて来て、なんとなく疎外感を感じる。
 俺は階段を上がって部屋に閉じこもると、満足して膨れた腹のまま、ベッドに倒れ込んだ。
「うまかった」
 事実を声に出してみるけれど、気持ちは晴れない。俺はベッドに投げたままのスマートフォンを手に取ると、SNSのアイコンをタップして、Dのアカウントを眺めた。
『自分がうまいなって思うだけで良かったのに』
『人と食べるのが、最近好きだ』
 俺が貰って来た、あたたかい食事の写真とともに添えられる言葉たちを見ていると、どこからか安心感が湧いて来て、とっぷりと俺を満たしてくれる。
 俺の為に用意された料理たち。
 ――ああ、そっか。
 俺は先日のふわとろオムライスを眺めながら思い至る。
 母の作った料理は、俺の為の物じゃなかったから、複雑だったんだ。
 小さい頃から、ずっと欲しかった手料理を、俺の為じゃなくて、他人の為に初めて作っている姿も、その料理も俺は素直に喜んでやれなかったんだ。
 俺は小学生の頃の運動会で用意されたコンビニ弁当や、中学から始まった弁当も、コンビニで済ませていた事を思い出しながら、改めて寂しかった事実を思い出す。
 母は忙しかったから仕方ないし、実際俺もそんなに執着しているつもりはなかったから、自分がそんなことに傷付ているのかと思うと、驚いてしまった。
 そんなガラじゃないだろ、俺。
 一人で突っ込みながら、俺は画面をスクロールする。すると、小さなノックが部屋に響いた。俺はスマートフォンを手放すと、ベッドを降りて部屋のドアを開く。
「アイス食わん?」
 伊月だ。彼は手に持っていたファミリーパック用らしい小さなアイスキャンディーの袋を揺らした。紫色のそれを受け取ると、伊月は俺の部屋に「お邪魔します」と入ってくる。それはあまりにも自然な仕草で「ダメ」とは言い難くて、何も言わずにいると、彼は机の椅子を引いて、そこに腰を下ろした。
「アイスどうも」
「五百円です」
「微妙にたっか」
 思わず笑ってしまいながら、俺は袋から取り出したアイスを口に咥えた。さっぱりとした葡萄味がじわじわと広がっていく。
「伊月何味?」
「オレンジ」
「ひと口食べたい」
 俺達はアイスを交換してひと口齧って、また交換する。その自然なやり取りに満足して、俺はベッドに腰を下ろすと、Dのアカウントを開いたままにしていたスマートフォンを、枕の下に隠した。画面は見られていないけれど、何かの拍子でバレたらお互いに気まずい。
「大丈夫そ?」
 何の前置きもせずに、伊月がこちらを見る事もせず呟く。俺はそれに思わず笑ってしまいながら「何のことですかねえ?」と誤魔化す。
 だって――あまりにも恰好悪過ぎる。幼稚過ぎて、目も当てられない。
「うん、なんだったけ」
「なにそれ。伊月が言ったんじゃん……」
 ぎっと椅子の軋む音がして、俺が何か声を掛ける前に、伊月は席を立ち、俺の隣に座った。彼を受け入れた分、ベッドが軋んで顔を上げると、彼の空いている片手が俺の髪を撫でる。
「お前のメシ、俺がちゃんと作ってやんよ」
 そう言いながら伊月の手が俺の肩を抱いて、撫でてくれる。初めて感じる伊月の温度に、思わず心臓が大きく一度跳ねあがってしまうけれど、それは嫌でもなければ、むしろ心地良くて。
 俺は離れなきゃと頭の片隅で思いながら、抱き寄せられるままに抵抗しない身体に、力が入ってくれないと心で藻掻く。
 嫌じゃないけど、ダメな気がする。
 直感的な思いとは裏腹に、心臓がとくとくといつもより少し大きな音で脈を打つのが分かった。
「つか、俺のメシの方が美味いに決まってんだろ」
「伊月の和食食った事ねーかも」
「食わしてやるよ、バカ舌」
「バカじゃねえし」
「お前さっき美味いとか言ってたじゃねえか」
「実際不味くなかったし」
 俺がそう言うと「は? なんて?」と聞かぬふりする伊月に笑わされてしまう。数分前まで沈んでいたはずなのに、笑顔を引き出されてしまっては、何だか悔しい。――けれど、正直助かった。
 俺は少しだけ伊月に体重を預けてみる。伊月の身体に少しだけ力が入ったのを感じて、受け止めてくれているという事が素直に嬉しかった。
「おにいちゃん」
「きめえ」
 ふざけて抱き着くと、背中を軽く叩かれた。
 伊月の大きな掌が、優しく背中を撫でてくれる。俺は伊月の優しさ甘えている事を自覚しながら、それを申し訳ないと思う反面、この温もりを手放したくないと強く感じる。
 しかし、ずっとくっついているのも気まずくて、身体を離して顔を上げると、伊月と眼が合った。こちらをじっと見下ろしてくる、色素が薄く、形の良い双眸が、ほんの少しだけ細くなる。表情はゆっくりと笑みの形を象り、
「無理すんなよ」
 そう呟いた。
 伊月は俺の髪をさらりと指先で撫でてから、すぐにベッドから腰を上げて「おやすみ」と部屋を出て行ってしまう。突然来たと思えば、こちらが負担にならないように、さっと引いて行く。
 でも今はもう少し、一緒に居たかったかもしれない……なんて。俺は一瞬だけ浮き上がった欲を力一杯心の水底へと押しやって、ベッドに倒れ込んだ。アイスを口に咥えながら、ぼんやりと天井を見つめる。
 頭や肩に残る伊月の温もりが、まだ残っていてあたたかい。
 俺は口の中でアイスを溶かしながら齧り、残った棒切れ咥えながら上下に揺らす。
 最後に目の合った伊月の、きれいな笑みが消えてくれない。