『美味しいと言われると、嬉しい』
 Dのアカウントが更新されるたび、写真とともに一言添えられるようになった変化が嬉しい。食事中にいくら美味しいと伝えても、伊月の反応はイマイチ薄い物ばかりだから、本音が見えない。
 けれど、不特定多数相手だと、感情も吐露しやすいのだろうか。Dの零す言葉は多くはないが、素直だ。
 俺はベッドに寝転びながら、ここ最近投稿されている写真を眺めた。きっと今夜はこのタイムラインにオムライスが追加されるに違いない。
 今度はどんな言葉が添えられるのだろう。そんな事を考えると、胸の内側が浮き立つ。落ち着かなくそわそわして、伊月のことを意識してしまう。
「みなとー、めしー」
 扉の向こう側から声がして、俺はベッドから飛び起きると、慌てて部屋の扉を開いた。料理中でもエプロンは付けない伊月が「オウ」と声を掛けてくる。
「オムライス?」
「オムライス」
 俺は部屋を飛び出し、一階へと階段を駆け下りた。リビングの扉を開けば、卵のほんのりと甘い香りが漂っている。
「気づかない内に料理ができてる喜び」
「いや、知ってんだろ」
 背後からぺちりと後頭部を叩かれて、促されるままにリビングに入ると、ダイニングテーブルへと向かった。
 テレビからは夕方のニュースが流れ、明日の天気予報へと変わるところだった。俺はテーブルの傍までよると、既に準備されている皿の上を見下ろした。
 Dのアカウントで見たオムライスそのものだ。
 ふんわりとした山なりの、とろりとした半熟の薄焼き卵。鮮やかな赤いケチャップ。添えられているコンソメスープには、ベーコンと玉ねぎが浮いて淡い湯気を立てていた。
「うまそう……」
 早速席について、スプーンを握りながら手を合わせる。あの時食べたかったオムライスが今目の前にあると思うと、食べるのが勿体ないような今すぐにでも子供みたいに大口開けて食べ尽くしてしまいたいような気持に駆られる。俺ははやる気持ちを抑え込んで、そっと卵の山にスプーンを落としてひと口掬う。半熟の黄色が、とろりと流れて、中から出て来たオレンジ色に近いケチャップライスに流れ込む。
 一口頬張れば、そこはもう天国だ。やっぱり俺の目に狂いはないのだと、何度も実感する。美味しい。
 俺は深く納得ながら、程よい酸味とトマトの甘みが絡み合うそれを咀嚼する。卵の柔らかい食感と、まろやかさが堪らない。
「……お前って、本当に幸せそうに食うよな」
「幸せだし。これ食いながら死ねる」
「生きろ」
 そう言いながら毎度のように、伊月は一枚写真を撮ってか、いただきますと手を合わせた。
「親に作ったりしてたの?」
 何となく気になって聞くと、伊月は記憶の中を辿るように首を傾げて宙を見た。まるでそこに今までの膨大な記録があって、それを一つ一つ探すみたいに。
「……あったかもしんねーけど、覚えてねえ」
「こんな立派な料理があるのに?」
「夜遅いことが多いから、大体外で済ませてるみたいだしな。帰って来ても飯冷めたら、うまくねーじゃん」
 そう言いながら、オムライスを頬張る伊月には、思ったよりも寂しさみたいな影は射しておらず、むしろ当たり前の正論を語るような真っ直ぐささえ見て取れる。
寂しいとか、思わなかったのだろうか。俺は自分の幼い頃を重ねては、その頃、夕飯代として、テーブルに置かれた千円札が脳裏を過る。小学生の頃の友達からは、毎日好きなものが食べられるし、食費を削ればお小遣いにもなると、羨ましがられたものだが、それが当たり前に日常化してしまうと、そうも思い切れないものだった。
 帰ってきたらあたたかいご飯ができていて、ご飯できたと呼ばれてみたいし、家の前でカレーの匂いを嗅いで「今日もカレーかあ」なんて文句をぼやいてみたかった。生憎、そんな経験をしないまま高校二年生になってしまったけれど。
「伊月の飯知らないなんて、勿体ないよ」
「そうかぁ?」
「俺はそう思う」
「ふぅん」
 伊月って、照れるとふぅん、って話を流す癖があるよな、なんて思いながら向かいに座る彼を盗み見る。しかし、視線を上げた伊月と、ばちりと視線が合っていまい、視線を逸らすと、
「見てんじゃねえよ」
 とつっけんどんに言われてしまった。
 ――あと、照れると口も悪くなる。
 それが可愛らしくて「はいはい」といなしながら少し笑うと、それが気に食わなかったのか、テーブルの下で、脛を軽く蹴られた。
「いた、最低DV男」
「お前が腹立つ顔すっからだろーが」
 軽い言い合いをしながらも、オムライスをひと口二口食べれば、笑顔が零れていた。
「伊月は、今日学校どうだった?」
「普通。変わり映えのない毎日ですよ」
「俺も俺も~、楽しい事したいねー」
「いいね~、学校吹っ飛ばしてみよっかな~」
「過激」
 そんな下らない会話が、あたたかい皿の上を飛び交う。添えられたコンソメスープをひと口飲むと、塩味と玉ねぎの甘みがすっと喉を通り、胃にするすると落ちていく。
「そう言えば、お前の母ちゃんも料理頑張ってんね」
 この前夜中に台所でなんか作ってたよ、と伊月が思い出したように顔を上げて、テレビのリモコンを弄ってバラエティー番組を映した。
「母子揃って料理音痴なもんで」
「別に頑張らんでもいいのにな」
「それな、適材適所的な?」
「たぶんそれ」
 母は伊月の前で何を作っていたのだろう。伊月がどんな料理を作っていたと言わない所を見ると、もしかしたら未知数的な何かを錬成していたのかもしれない。
 食材が無駄になってなきゃいいのだけれど、なんて思いながらも、母もいいところを見せたいのだろうと思い、
「頑張らせてやって」
 と伊月に軽く頭を下げた。
「別に良いんじゃね? 今あの二人新婚なわけだし。いいとこ見せたい盛りじゃん」
 興味がないような口ぶりで伊月はそう言うと、テレビへと目を向けた。テレビの中では何か失敗をしたらしい芸人を、周りが大笑いしている。MCが笑いの渦を盛り上げるように、大きい声でボケに突っ込んでいる。
「おい、食事中テレビ見るなよ。家族のだんらんだぞ」
「あ~? なんて?」
「聞こえてんだろ」
 伊月のばか。なんてことは言葉にせず、俺はオムライスを見下ろした。食事の時は誰かの声なんていらない。目の前にいる人と話したいのに。――なんて、そこまでの我儘は言えなくて、俺は二、三度瞬きして、自分の胸の内から視線を逸らす。すると、ふっつりと笑い声が止んで、またつまらないニュースが戻ってくる。淡々と本日の出来事を読み上げる男の声にテレビへ目を向けてから、伊月へと視線を流すと、
「拗ねんなや、んなことで」
 そう言って、伊月が薄く微笑んだ。すぐに解かれた視線はオムライスへと落ちて、
「これ、もうちょい濃い味の方がよくね?」
 なんて、俺の気持ちをきちんと汲み取ってくれる。俺は冗談交じりに言ったはずの言葉を汲み取られて、どんな顔をすべきなのか分からなくなる。
 気にして欲しくなかったという申し訳なさと、それでも、擽ったい胸の内側。
「俺は、ちょうどいいと思うけどな」
 俺はなんとかそう言葉を繋げると、伊月に笑いかける。視線をこちらへと上げた伊月は、俺のことを見ると「そ?」と、口元だけに笑みを浮かべた。
「俺も作ってみたいな」
「止めろよ、台所壊れる」
「ひど! てか、俺の料理見てねえじゃん!」
「見なくても分かる」
「俺のこと分かった風に口きくなよ」
「はいはい、つよいつよい」
「おい! 適当に返すな!」
「……くっだらねえ、やりとり」
 そう言いながら伊月が肩を揺らして笑う。それにつられるようにして、腹の底からくすぐったいような何かが湧いて来て、俺もつい笑ってしまう。
「伊月が言い始めたんじゃん!」
「いや、湊だろ」
 無限のループに陥ってしまいそうなやり取りが、延々と続いて行く。いつまでもこれが終わらなければいいのに、なんて少し思いながら、俺は残りのオムライスを食べきると、手を合わせた。
「伊月、お茶飲む?」
「え……それ飲める?」
「おい!」
「うそうそ、よろしく」
 俺は二人分の皿を下げて、台所に向かうと、ケトルに水を入れて湯を沸かす。その間も、伊月はテレビのチャンネルを変えようとはしなかった。
 そんな気を使われたくないのに、と思いながらも、
「湊、この動画知ってる?」
 なんて、話し掛けてくれるのが嬉しくて、
「知らねー、どれ?」
 俺はテレビ変えていいよなんて言えなくて。もっと伊月とだけの時間が欲しくて、彼の優しさに甘えてしまう。
 俺は二つ用意したマグカップを置いて、伊月の隣に駆け寄った。